ゲームは現実を理解するか(社会と文明のシミュレーション)

ヴィデオゲームはたいていの場合、現実にある活動を模倣している。』 

 『ルールズ・オブ・プレイ ㊦』で引用されている、

ウォレン・ロビネットという人の言葉だそうです。

 

ゲームは現実の何らかの側面をクローズアップし、

それに豊かな描写や音声を与える。

 

であれば、肉眼では観測できないほど大きな / 小さな / 抽象的な / 実行不可能な現象を

(社会 / 細菌 / 感情 / 宇宙戦争など)

ゲームであればこそありありと知覚できる

ということにならないでしょうか。

 

今回はこの観点を考えていきたいと思います。

 

特に、まさに人間の知覚と関連する、

下記に注目しながら進めていきたく思います。

 

一つのシミュレーションが広くかつ深いということはあり得ない。

(これもルールズ・オブ・プレイ ㊦』より。

 

少し回り道になりますが、

まず、広い観点( ⇔と、相対的に深い観点)の

典型例と構造を考えていきます。

 

同時に、

ゲームはどこまでシミュレーションの題材にできるか?

も考えていきましょう。

 

ゲームは現実をシミュレートする。

典型的には戦争がシミュレートできます。

しかし、他にはどういったものがあるでしょうか。

 

 

社会という1つの全体はどのような部分でできているか

 

※ ここは少し長い能書きになるため、

 本題へ進みたいかたは、割愛いただけると幸いです。

 

 

社会 / 文明といったスケールは、

典型的な「広い」観点といえるでしょう。

 

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(熱エネルギーの循環などを考えれば、

 どれほど小さく見積もっても

 太陽と地球の公転半径まで考えなければならず、

 人間の活動に限っても「最大」と言えるかは躊躇われますが、)

 

いったん社会を1つの閉じた系と考えます。

(幸か不幸か、熱のやりとりのみを許す系は「閉じた系」と言えるため、

 地球+その周辺は、かなり「閉じた系」に近い様子ではあります。)

 

さらにもう少し遠回りになりますが、

少し面白い概念があるため、

 

社会という大きな系を、ある要素で表現するとはどういうことか?

について少し立ち入ってみます。

 

以下は、「全体的社会的事実」という概念の説明で、

典型的には宗教、経済、政治、法といったもの(→相互行為)を指します。

1. (中略)複数の社会的現象が共存しながら一個の社会的現象を作りあげている。(中略)

2.  一つの特定の相互行為はそれ自身で、単独で、全体的社会的事実である。

(『交易する人間』より) 

 

強そうな言葉が出てきました。

 

贈与論で出てくるこの言葉について、文献も少なく、

また自分の学習時間から言っても理解が不正確かもしれないので、

以降はこの「全体的社会的事実」という言葉の多用は避けたく思います。

 

ただ、ここで借りたいのは、

どれをとってもそれ自体が全体を表す

という考え方です。

 

以下は自分の解釈をまとめた図です:

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この見方を踏まえると、

 

例えば政治にスポットを絞ったゲームは、 

「政治」を通して社会全体を捉えなおすゲームではないか?

と思えてきます。

 

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「深い」と同時に、

別の観点から「全体」を理解 / 再現(しようと)することでもある、

と言えるかもしれませんね。

 

 

政治のシミュレーション

 

いよいよ具体的な例に入っていきます。

 

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上記で引用した『Democracy 3』というゲームは、

まさに政治をシミュレーションするものです。

 

税率や教育、医療制度などが複雑にからみあう様子、

通常であれば人間が理解しにくい複雑な様相(あるいは「過程」)を、

ピクトグラムで巧みに可視化しています。

 

特に下記のことがらは、ゲームという媒体ならではでしょう。

・時間の経過を経験できること。

・自分の行動に対してレスポンスが感じられること。

・〇〇(し)たい、という目標を通じて関われること。

 

(・あと恐らくですが、制作者の意図を超えた驚くべき現象が

  ユーザーによって見出されること。

  これは自己組織化にも近い様相ではないかと思いますが、またの機会に。)

 

興味深いことに、このピクトクラムの中には、

経済に関するもの、宗教に関するもの、法に関するものが登場し、

 

社会の他の要素を1枚絵にすっぽり収めて(再現して)いることが

確認されます。

 

これらのことから、

 

社会という大きなスケールを、

かつ政治という、抽象的かつ通常体験し得ない観点から理解しようとするさいに、

ゲームという媒体が役立つと示唆されます。

 

さらに、少し飛躍かもしれませんが、

政治の「モデル化」でもあるため、

仮説発見のツールにもなりえるのではないでしょうか。

 

(現実でそうなるかはさておき)

「もし〇〇の条件を△△にしたらどうなるか?」

が確認できるという意味では、

「計算機実験」としてのシミュレーションとも見なせるよう思うからです。

 

 

経済のシミュレーション

 

持てるものを出来るだけ増やしていく。

 

このような「経済」という構造は、

ゲームとかなり相性が良いギミックの1つでしょう。

 

ルールズ・オブ・プレイ㊦』によると、

サットン=スミスにより、同時参加型 RPG の遊び方の分類が

達成型(♦)、探索型(♠)、交際型(♥)、殺人型(♣)

とされていますが、

 

RPG に限らないゲームの楽しみ方一般として解釈すれば)

経済はこのうち達成型そのもとのもいえるでしょう。

 (「ポイントを集めたり、レヴェルを上げることに注意を払う。」)

 

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上記の「Offworld Trading Company」は、

拠点を作り、

資源の採掘といった開発・拡張を進めるゲームなのですが、

特に経済に焦点を当てています。

 

余っていてみんなが売りたいものは、安く。

不足していてみんなが買いたいものは、高く。

 

そのような価格調整が、システムによって自動で行われ、

(市場)経済のエッセンスが再現されています。

 

モノ・コトの激しい価格変動を体感することは、

(株などについては)一般の人でも可能になっていますから、

政治に比べれば経験可能な領域です。

 

しかし、その変化のスピードと豊かなエフェクト

何よりも自分の人生の損得を賭けることなく

(少ない制約と自由のもとで)行為できる点は、

やはりゲームだからこそ得られる経験でしょう。

 

(ところで、価格がシステムによって不整合することなく

 調整されることは、まさにビデオゲームならではの長所と言えます。

 人力ではとうてい不可能な情報量を確実に取り扱い、

 ルールメーカーとして各人の可能な行動と選択肢を管理しますからね。

 しかし一方、序盤で引用した Civilization シリーズで対人プレイするとき、

 取引の際は、両者の合意のもとで人為的に「価格」が取り決められますが、

 ある意味ではこちらの在り方のほうが「経済」っぽいかもしれません。

 もちろんそれぞれ異なる面白さやリアリティを作り、補いあうことは、

 論を待ちません。)

 

 

ゲームはどのようなものまでシミュレーションできるのか

 

ここまで、ゲームがいかに現実を再現し、

通常得られないような豊かな実感をもたらすかということを、

幾つかの例を通して見てきました。

 

それでは、ゲームはいったいどれほどまでさまざまな要素を

豊かに描き出す(かつ、面白くする)ことができるでしょうか。

 

社会と同レベルに、「退き」のスコープになっている現象は、

政治や経済の他に、

例えば道徳、科学、生態系、交通、法、企業、家族、・・・

などが考え得ます。

 

他にも、考えうるありとあらゆる作用や行為、概念を、

取り扱うことができるでしょうか。

 

道徳。

道徳がゲームになるかどうか自体が明らかではないので、

「ゲームがいかに道徳を表現するか」というよりはむしろ、

「道徳はどのようにゲームになり得るか」のほうが、興味がわきます。

 

個人的に、(ジャストヒットではないが)

ある道徳に程度近いと思うのは、

勢力が競い合う

(かつ、どれを主人公にするか選べる)タイプのゲームです。

 

freegame-mugen.jp

 

フリーゲームでありながら、

さまざまなゲームの系譜を受け継ぎ、

クオリティもかなり良い「むなしい努力」。

 

ゲームの中心はあくまで戦略・戦術であり、

道徳自体がテーマではありません。

 

しかし、

矛盾をはらんだ正義を抱えて進んでいく、多数の勢力からは、

色濃く描かれた道徳の在り方が感じられます。

 

実際このゲームのそうした厚いプロットは、

かなりの高評価を受けています。

 

私自身は、まだ全勢力の半分も攻略できていませんが・・・

個人的にグッと来たのは、

 

個々の勢力が、正義の仮面の下に隠した、

矛盾や偽善、行き過ぎた自尊心などが、

非常に気持ちの悪い化身として(終盤に)具現化する点です。

 

 

続いて。

「生態系」もまた

ゲームとしてあり得るでしょう。

 

下記の「Block'hood」は、これも直接生態系をテーマにしたものではなく、

おもな焦点は「タテに積むこと」です。

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しかし一方、ほとんどすべての人工物や自然が

「入力」と「出力」を持っており、

そのゲーム設計がおのずと(広い意味での)「生態系」を

作り出しています。

 

(『意味論的転回』の「人工物のエコロジー」という考え方を借りています。)

 

作品のテーマの1つに「共生」があり、

そういう意味でも生態系とは密接な関係にあります。

 

 

 まとめ

 

長くなってきたので今回このへんにしましょう。

 

ゲームによって社会・文明が、

何らかの形で(本来経験できないリアリティを伴って)

描かれることを見てきました。

 

これは、なかなか直感がわかないような学問分野を

新しく学び始める際などにも、

培った直感が有利に働くのではないかと考えています。

 

また、いかに大きなスケールを描くものであっても、

それだけですべてを描きつくすということはあり得ず

(スケールが「退き」になれば、細部は描かれにくくなります)、

 

別のスケールからの理解(≒同スケールの別の側面からの理解)を

貼り合わせることによって、

全体としての理解がなされることになるでしょう

(この辺りも自己組織化や分散型などの話題に派生できそうです) 。

 

 

また、ゲームに限って話して来ましたが、

ゲーム以外の趣味も

ある種の「シミュレーション」かもしれず、

これを通じた現実の理解ができると思います。

 

例えば旅行であれば、

現地のマナー(制度)や、

歴史的な建物内における振る舞い(歴史)を

疑似的にシミュレーションできるでしょう。

 

あるいは、スポーツは、

儀式としての側面を持つものもあるといいますから、

これもまた儀式を疑似的にシミュレーションしていると見なせそうです。

 

一般に、視聴覚・体感をもたらす趣味。

 

これらにより、

本来直感できないような抽象的な / 日常から離れた理念を、

間接的に(しかしながら近道で)

会得できるのではないでしょうか。

 

まだそのほんの一部について考えただけであり、

範囲、量、質、どれをとっても

より進めていくことが今後の課題となるでしょう。

 

ここまでありがとうございました。

 

 

参考文献

ケイティ・サレン, エリック・ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ(下)』山本貴光訳, 2013,  SB クリエイティブ

今村仁司『交易する人間(ホモ・コムニカンス)』2000,  講談社選書メチエ

クラウス・クリッペンドルフ『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』 小林昭世ほか訳, 2009, エスアイビー・アクセス