ヴァーレントゥーガはいかにメディアミックスの題材たるか 後編

 

こんにちは。

 

前編では、

特に以下の2点について確認してきました。

 

ヴァーレントゥーガというゲームが、

 日本(だけの、と言える保証はありませんが)の

 メディアミックスの系譜を端的に示すこと。

 

ヴァーレントゥーガはリアルタイムストラテジーゲーム

 さらに、それ自体ゲームでありながら、

 事実上ゲームエンジンとしても機能している。

 

②さらにそれを膨らませるものであること。

 

前回はその内容面やコンテンツ面を

中心に見てきました。

 

これに対し今回は、

特に形式面に着目して、

考えていきたいと思います。

 

もう少し具体的には、 

ヴァーレントゥーガのゲームの形式

(ゲームシステム及びとりまく環境)が、

いかにメディアミックスと整合し、

何を作り上げているのか。

 

これを考えていきます。

 

順番としては

ヴァーレントゥーガのゲームシステムは

 どのようにリアリティを持つのか

 

・ヴァーレントゥーガは

 歴史シミュレーションを生み出すことで

 何を作りだしているのか

 

という順で見ていきます。

 

 

ゲームシステムとリアリティ

 

改めて前回のおさらいになります。

 

ヴァーレントゥーガとその派生ゲームは、

(商業戦略としてのメディアミックスを意図的に展開してはいないものの、)

結果的にメディアミックスに見れれる特徴が

色濃く現れていることを確認しました。

 

具体的な特徴として、

様々なメディアの情報を参照していることや、

・逆に様々なメディアを跨いで発信していること。

・世界観ないしキャラクターを中心として

 断片的な要素が全体を作り上げること。

を見てきました。

 

今回は、これらの特徴が、

ゲームの形式とどう影響しあっているか

どのような鑑賞のしかたを促しているのか、何を作り上げているのか等)、

これを見ていきたいと思います。

 

ゲームの形式といっても

複数の切り口が考えられますが、

ここでは以下の2点に

焦点を絞りたいと思います。

 

シミュレーションゲームであること。

 

・ヴァーレントゥーガの派生作品が

 制作されるさいの慣習

 

まずこの節では、

シミュレーションゲームであることによって

問われていること・生み出されていることを

見ていきましょう。

 

シミュレーションゲームということは

何かをシミュレーションするのであり、

そうすると当然、

(リアルであるほど望ましいかどうかは措くにせよ)

どれくらいリアルかが問われます。

 

言い換えると、どれくらいのリアルさかに応じて

楽しみ方が変わってくると言えます。

 

また、何をリアルにしたいかに応じても

楽しみ方が変わってきますね。

 

国家間の闘争から、個々の建物のドアの開け方まで

全てのものをリアルにするのは非現実的ですし、

なおかつそれをやることでかえって

ゲームの楽しさを妨げる恐れもありますから、

何をリアルに再現するかについては

絞り込む意義があります。

 

このあたりは『ビデオゲームの美学』が詳しいです。

 

また、末筆ではありますが、

私の昔の記事でも少し触れました。

a16777216.hatenablog.com

 

ここでは、

前回に引き続き『きのこたけのこ戦争・IF』

を通じて、

幾つかの観点から、

断片的な要素を基にどのように・どんなリアル

作られるのかを見ていきましょう。

 

具体的には、

・断片的な要素の集合にもかかわらず

 作られるリアルがあるという、

 消極的な側面。

・断片的な要素の集合であるがゆえに

 作られるリアルがあるという、

 積極的な側面。

この2点を考えています。

 

消極的なリアル

 

まずは前者についてです。

シミュレーションに限らず広く

ビデオゲームにおける「対象」を考えると、

断片的な要素からも一定のリアルが得られる事が

推察されてきます。

 

少し導入が長くなってしまいますが、

その理由に至るために、

「対象」についての参考になる議論を

四方対象』から見ていきましょう。

 

具体的には、

四方対象の序盤で詳しく説明・解釈される

フッサールの議論を参考にしたいと思います。

 

私たちが木を理解する方法は

幾つかありますが、

1つは、木を直接見る方法です。

 

このとき、木は見るときの時間や天候、

季節、周りの動物の有無によって、

時々刻々と姿を変えます。

 

言い換えると、このように木を見るとき、

いつも偶発的な要素が

混じり込んでいるということです。

 

では一方で、

時間や偶然の要素によって変化しない、

固定された木の特徴はあるでしょうか。

 

ここでは、「木」の仲間に属するありとあらゆるものを考えるのでなく、

 つまり木の集合を考えるのでなく、特定の木を考えることにしましょう。

  

背丈は何 cm。木の種類は何々。

堅い樹皮でおおわれている。などなど。

木にはこうした性質がありますが、

こうした比較的時間変化しない

「性質」を見ることが、

木を理解するもう1つの方法と

考えられます。

 

つまり、別の1つの方法として、

木の性質を分析する方法がある、

という主張です。

 

木は、こうした「性質の束」から

構成されていると考えることができます。

性質の束という表現は、『ワードマップ現代形而上学』より。

 

しかしこうした木の性質の束も、

やはり木そのものとは言えないでしょう。

 

以上をまとめると、

 

見るそのときそのときで変わる

木の偶発的な側面にせよ、

 

あるいは

木が持つ様々な性質の束にせよ、

 

どちらにしても、

木そのものを厳密に表すものではない。

 

このような理解が得られます。

 

逆に言えば、木の感覚を得るとき、

木そのものに直接アクセスできず、

断片的な要素の集まりを通じてしか

木に接せない、ということが

示唆されてきます。

 

これは、

マーク・スタインバーグさんの著書での

世界観やキャラクターの議論とも

重なってきます。

 

我々がハルヒを理解しようとしたとき、

 

あるカットにおけるハルヒ

瞬間的な表情を抜き出そうと、

 

あるいは

思ったことが本当になったり

キョンを一方的に巻き込んだりする

ハルヒの分析的な性質を

列挙してみようと、

 

そのいずれも、ハルヒそのものには

相当しないでしょう。

 

しかしながら、これらの側面を通じて

ハルヒという全体像の理解に

間接的にアクセスできる。

このように解釈できそうです。

 

主観ですが、これは自分のようなエンジニアの仕事にも役立つ見方に思えます。

 複雑で大きなシステムを開発しているとき、

 特定のファイルの特定のコードを覗き見たり手を加えたりしようと、

 システム全体を見たことにはとてもならないでしょう。

 システム全体そのものは、すべてを一度に視認することができないゆえに、

 我々の前に直接現れることはないと思われます。

 しかし、個々の部分的な側面が、アクセス可能なポイントにはなる。

 このように考えを携えることで、複雑さに向き合う業務をする必要のあるときに、

 より俯瞰的にそれを振り返れるのではないか、と考えています。

 

まとめると、

私たちはそもそも、

(瞬間的・継続的いずれかの)

断片的な構成要素をみて、

「それ」を理解していると解釈できます。

 

そうであれば、

一見ばらばらの勢力の集合が

全体として秩序をもつ「それ」として

理解できるのも、自然と言えるでしょう。

 

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きのこたけのこ戦争・IF より。様々な種類のユニット、地域、勢力が入り乱れている様子。

 

※↓ 2018/12/06 追記

 

ここまで挙げてきた、

断片的な要素でリアルが生まれ得る話は、

確かに、

ヴァーレントゥーガとその派生に限らず

何にでもあてはまる話ではあります。

 

しかしこのことは、

ヴァーレントゥーガとその派生の

魅力が成立するうえで

重要な意味を持ちます。

 

ヴァーレントゥーガとその派生では

多くの場合、

百数十人といった多数の人物が登場し

その一人一人に詳しい列伝があります。

 

一人一人にきめ細やかに

光が当てられているということです。

 

しかし、そのようなミクロな丹念さが、

各作品ではもちろん、ミクロ・マクロ両方が整合するよう気が配られているといえ、

そもそも原理的に、

矛盾なくマクロな統一感を持つことが

可能なのでしょうか。

 

このことを一定程度保障するのが、

まさにここまで見てきた点でしょう。

 

言い換えれば、

マクロな統一感が

原理的に担保されているからこそ、

ミクロな作り込みという

ヴァーレントゥーガとその派生の

魅力がうまく現れるのだと

そのように考えられます。

 

※↑追記ここまで 

 

ここまでで、

断片的な要素の集合にもかかわらず

作られるリアルがあること

(消極的なリアルの保証)を

確認してきました。

 

ここからは、

断片的な要素の集合であるがゆえに

(積極的に)作られるリアルがあるか、

これを見ていきましょう。

 

再び余談になりますが、

 こうした断片的な要素によって全体を理解しようとする姿勢は、

 現代社会を理解する際にも応用が効きそうに思えます。

 例えば『フラット・カルチャー』では、

 現代社会において全貌を見渡せるような視点(超越的な視点)を持ちにくいことが

 再三強調されています。

 断片的な要素(という接触可能な他者)を通じて理解を試みることが

 まだしも可能なやり方である点で、

 ヴァーレントゥーガにおける世界の理解の方法は、

 現代の実世界の理解へもヒントを与えるかもしれません。

 

積極的なリアル

以下では、

断片的な要素の組み合わせとして、

よりミクロな、

銃状の携行品 vs. お菓子状の射出物

これについて考えていきます。

 

たとえばたけのこ型の銃弾を射出する

「Dew98軍用小銃」という技の射出物は、

〈銃弾〉であり〈たけのこ〉である、

こうした二重性を持って見えます。

 

一つの記号が2つのものを同時に表すという

一見特殊な表現を、

なぜ、私たちは自然に受け入れられることが

できるのでしょうか。

 

この答えは難しくないと思います。

 

きのこたけのこ戦争・IF は、

近現代の戦争の体裁をとっており、

また、「Dew98軍用小銃」は、

比較的速射できる遠距離攻撃という

用途になっています。

 

これらのことから、第一に、

まず銃弾であると理解できます。

射出物の円筒をとがらせたような外見と、

使用者である「親衛シュトース・トゥルッペン」の外見も、

理解を助けていると言えましょう。

 

 

さて、一方、

きのこたけのこ戦争・IF は、

お菓子同士の戦争であり、

その中でも「Dew98軍用小銃」は主に

たけのこの里を象徴する勢力によって

使用されます。

 

このことから、第二に、

射出物がたけのこであることもまた

すぐに理解できます。

 

なお、使用を通じて対象を理解するやり方は、

後述する『記号と再帰』において、

「である」に対する「する」の理解として

詳しく記述されています。

 

 

ここまで、

「Dew98軍用小銃」の射出物という記号が

2つのものを指し示すことを

見てきました。

 

ここで少し強引にこの事態を解釈してみると、

我々は、

実際の銃弾で戦われる(虚構の)

物語世界と、

お菓子によって戦われる(虚構の)

物語世界の、

2つを同時に想像している、と

考えることが可能そうです。

 

言い換えると、

一つの記号が2つのものを指すことに

対応して、

2つのドメインが存在している。

このように解釈するわけです。

 

ところで、

ゲーム化する世界』や、

ビデオゲームの美学』によれば、

こうしたドット絵(あるいは立体)の記号は、

〈たけのこ〉や〈銃弾〉など

物語世界内の対応物だけを指し示すのでは

ありません。

 

上記の2つの著書によれば、物語世界

そこにキャラクターの生活や肉体が存在すると、我々が想定している虚構世界

という意味の水準は別に、

ゲームメカニクスなるドメインも存在し、

記号はそのゲームメカニクス内の存在をも

同時に指し示すのだ、

このように理解できます。

ドメイン虚構世界、およびゲームメカニクスという用語は、いずれも『ビデオゲームの美学』より。

 

f:id:a16777216:20181205213514p:plain

 

スーパーマリオブラザーズにおける

〈マリオ〉のドット絵の場合、

スクリーン内に登場す、操作対象のマリオと、

パッケージのイラストなどにより肉付けされる

マリオ世界の人物としてのマリオ、

これら2つのものを二重に指し示します。

 

さて、「Dew98軍用小銃」に戻ります。

 

これの射出物の場合、

ゲームメカニクス内の存在を加えると、

指し示すものが三重になるという

興味深い事態が起きます。

 

スーパーマリオブラザーズにおける

リアリティを再考してみましょう。 

 

例えば、

マリオはゲームメカニクス上で、

炎やトゲにやられてしまうという

環境からのフィードバックを受けます。

 

このことは、

マリオが人であるという虚構世界上の設定と、

矛盾なくかみ合います。

 

このように、マリオの場合、

指し示される2つのもの、

2つの意味の水準が、

お互いに助け合ってリアリティを生みます。

 

ではこれが三重になる、

きのこたけのこ戦争・IFの場合は

どうなるのか。

 

直感的には、

私たちは画面の奥に、

近現代の戦争とお菓子の戦争という

2種類の架空の世界を、

同時または交互に感じている、

このように考えられます。

『意識と脳』には、私たちが矛盾する2つの描画を

同時に知覚できないとする例がいくつか挙げられています。

このため、可能性としては同時ではなく交互のほうが

あり得そうに思えます。

しかしいずれにせよ、これを明確に答ることは主題とは関係なく、

またかなりの調査コストが必要になってしまうため(そもそも可能でないかもしれません)、

この程度でとどめておきたいと思います。

 

もちろん、指し示される3つのものは、

お互いの理解を助け合います。

 

上で書いたように、銃状の武器は、

直感に反せず、

ゲームメカニクス上で、

銃さながらに攻撃手段として使用できます。

 

お菓子世界を想像する際は、

お菓子世界の戦争や武器については、我々が他の作品を通じて理解している情報はあまりありませんが、

実際の戦争の世界の想像を借りることで、

たけのこは銃のような武器だというように

武器の理解が促されます。

 

対して、実際の戦争を想像するときは、

お菓子世界の想像を借りることで、

お菓子としての集団意識があるものとし、

戦う動機の理解が促されます。

 

このように、

きのこたけのこ戦争・IFは、

それぞれのドメインにおいて

厳密に記述・可視化されない内容を

お互いに補完しつつ、

複数のリアリティを同時または交互に

体験させていると言えそうです。

 

さて、ここで

また別の視点からも

リアリティについて考えてみましょう。

 

戦術フェーズの画面がクオータービューであり

厳密なパースでないこと。

このことも、リアリティを作る

能動的な意義を見出すことができます。

 

まず、クオータービューであることで、

おびただしい数のユニットや物体を

1つの画面で一度に把握しやすいこと。

 

プレイヤーのカメラから見て

遠くのものが小さく見えたり、

物体が手前のものの裏に隠れたり

しないことは、

一度に表示可能な情報量の大きさを

担保するでしょう。

もちろん、裏に隠れるという現実への忠実さが

 可能にする面白さもありますから、このことの好悪は、

 どのようなゲームプレイが目指されるかに依存します。

 

これにより、

現実に近いというリアリティとは別に、

ゲームプレイの質としての

リアリティが得られているものと

考えられます。

なお、後述しますが、ビデオゲームの美学では、

 目的とする表現に対する正確さや、書き込みの細かさについて、「写実性」という表現を用いています。

 

また、『アニメ・マシーン』では、

こうしたクオータービューについて、

一点透視法が暗黙のうちに仮定してしまう

視野の限られた近代論からの脱却の余地を

また別の狭い視野に入り込んでしまう虞へ注意を促しつつも

説いています。

 

語弊を恐れずに言えば、同書の著者は、

西洋で伝統的に培われてきた視点に対して、

オルタナティブな視点になりうる、

そのポテンシャルを感じているのでしょう。

同書では、分解の英語である exploded に掛けて explosion = 爆発に触れ、

 軍事テクノロジーに魅了されたアニメとの関係を議論していきますが、

 やはりここでは深入りは避けたいと思います。

 

※ ↓2018/12/06 追記

 

このことは同書において、

アニメの動画の様々な側面を通じて、

繰り返し強調されます。

 

カメラによって厳密な立体を再現する

「シネマティズム」に対し、

多数の平面が重なり、

相対的にずれていく動きを作る

「アニメティズム」が、

決して劣ったリアルでないことが、

様々な角度から論じられます。

 

 

一点透視として中心に向かうのとは異なる

焦点が一か所に留まらない動きが、

テクノロジーや社会に対する

モノの見方を提供するというわけです。

 

アニメが技術的に受ける制約が、

P24 で「積極的な無意識を生産する制約」

であると、端的に要約されていますね。

 

※↑追記ここまで

 

 

以上を2つにまとめます。

 

シミュレーションゲームという形式が、

 ヴァーレントゥーガに何を求めるのか。

 → 典型的には、リアリティ

 

②ヴァーレントゥーガの派生ゲームである

 きのこたけのこ戦争・IFが、

 この要求に対し(やはり形式を通じて)、

 どのように応えているのか。

 → 第一に、

   人間の理解の仕方を考えるに、

   必然的にリアルになる理由がある。

 → 第二に、虚構世界の多重性や、

   クオータービュー&多数の平面の機能が、

   特徴的なリアルを作り出している。

 

これらのこと確認してきました。

 

一方で、

ヴァーレントゥーガとその周辺をとりまく

環境のほうはどうでしょうか。

 

これについても、

ヴァーレントゥーガやその派生ににおける

形式を通じて考えたいと思います。

 

歴史シミュレーションと慣習

 

ヴァーレントゥーガとその派生の、

物語あるいはフィクションとしての

形式はどうでしょうか。

 

あたかも本当にあった歴史のように

架空の歴史が描かれる、

架空の歴史のシミュレーションとしての

ゲームが多いように思います。

 

なお、現実の歴史の再現度としては

グラデーションがあります。

 

各国家やその配置が現実と対応して、

現実の歴史に酷似しているものから、

架空の地形と架空の国名による

フィクションの割合が高いものまで。

 

これはさておき、いずれにせよ、

歴史のシミュレーションとしての

形式がこのように確立されていること、

その意義について考えたいと思います。

 

 

まず思い当たるのは、

メディア・コンテンツ論』で

述べられている

フォルム論という考え方です。

 

ここでは探偵小説・推理小説

例にとっていますが、

具体的な登場人物というより、

推理小説であること自体が

その作品に価値を与えている、という

考え方です。

 

ヴァーレントゥーガの派生ゲームが、

歴史シミュレーションであること

それ自体によって、

どのような価値が生じるのか。

 

これを考えるために、

再び『ビデオゲームの美学』の、

リアリティに関する議論を

参照していきましょう。

 

同書では、シミュレーションゲーム

リアリティの指標として

「写実性」が取り上げられます。

 

この指標は、(着目する構造について)

より正確で、

情報量が多く、

同じ対応関係であることを

例えば、発電所や電線の見た目をした物体が、現実と同じく、都市のインフラを支える機能を持つことなど。有契性。

示しています。

 

ここにおいて、写実性の高さのために、

「慣習」に従っていることも重要だと

指摘されています。

 

慣習とは、

例えば RPG において

HP がゼロになったら戦闘不能という風に、

典型的な動作として

期待される枠組みのことです。

 

ヴァーレントゥーガの派生作品として

例えば歴史シミュレーションという

一定の慣習があることが、

そのゲームのリアリティに貢献する形で

価値を持つと言えるでしょう、

 

あるいは、下記のように

もう少し端的に考えられるかもしれません。

 

「ヴァーレントゥーガというのは

こういうメディアだ」、という定義を、

派生作品自らが再帰的に行うことで、

ヴァーレントゥーガの意味合いが

改めて規定されている、と。

 

実際、

歴史シミュレーションという形式は、

ヴァーレントゥーガの

ゲーム形式に意味を与える際、

相性のいい構造と言えます。

 

ヴァーレントゥーガにおける、

多数の勢力が群雄割拠し

戦争や外交で国力を高めていく仕様は、

まさに歴史そのものと

言えるでしょうから。

 

ヴァーレントゥーガの面白さを

相性良く引き立てる味付けとして、

「ヴァーレントゥーガでは

 歴史シミュレーションができる」

という自己言及が生まれたと思えば、

自然に思えてきます。

 

というか、シミュレーションRPGSRPG)という分野が、

 実在の武具や戦争をファンタジーの源泉とし、

 単にこれに実在の中世・近世からイメージとしての中世・近世へと

 フィルターがかけられてきたのだすれば、

 それは当然だとも思えます。

 とはいえ、武具や街道の風景といった外見の問題だけではなく、

 シナリオとして、さも実際の歴史にありそうな出来事を

 創造的に埋め込んでいく着眼点は、

 やはり代々の SRPG には無かった点と言えるのではないでしょうか。

 

さて、

自分自身を再帰的に定義する、という性質は

他にも面白い問いを呼び起こします。

 

たとえば『記号と再帰』によれば、

再帰的に自分自身を規定するという性質は、

典型的には記号(例えば言語)に見られる

性質です。

 

ここで、

ヴァーレントゥーガは記号なのか?

という問いも浮かび上がってきます。

 

ここで直接この問いに答えるには、

さらにかなりの分量が必要に思えるため

一度避けておきます。

 

代わりに、

再帰的に自分自身に言及することを

積極的にやっている事例として、

「むなしい努力」があることを

記したいと思います。

 

ネタバレは避けますが、

同『メディア・コンテンツ論』によると

作品あるいは作品群が自分自身に

メタな言及をすることには、

「ときにそれ自体の根拠を揺るがせ」る

効果があるとされています。

 

根拠を危うくする一方で、

前向きにとらえるなら、

その作品形式としての

すそ野を広げる効果があるとも

考えられるでしょう。

 

他にも例えば、『理論で読むメディア文化』ではふなっしーが、

 それまでのゆるキャラの在り方を問い直すものとして分析されています。

 

※↓2018/12/06 追記

 

自分が比較的長時間触れたものに

限られますが、

もういくつか具体的に、

ヴァーレントゥーガを照らし返すような

ゲームを挙げたいと思います。

 

「問題外のシナリオ」は、

光の目から

きのこたけのこ戦争・IFに続く

一連の系譜を受け継ぐ、

正統後継的な作品ではないかと

思います。

 

一方でこの作品では、

魔法にかなり重点が置かれます。

 

歴史シミュレーションを土台にしつつも

幻想的さを強めに出すことで、

史実に魔法が入り込んだ場合

何が起こるかをより真っ向から想像した、

「IF」を問う作品ではないでしょうか。

 

あるいは、

「銀の剣、黄金の翼」は、

web ページに明記されているように

ガンパレード・マーチ

二次創作にあたるようですが、

ここで注目したいのは

この点ではありません。

 

注目したいのは、

このゲームに撤退戦のシナリオが

あることです。

 

シミュレーションゲームの多くは、

自陣営がより強く、大きく、豊かに

成長する傾向を持つことで、

面白さの一種を実現していると

思います。

 

その意味では本来作るのが難しい、

撤退を強いられる戦い。

しかし、目標に向かって工夫し尽力するという意味では、

 撤退戦もまた、ゲームにされるべきであったテーマではあるでしょう

これを具現化している点で、

やはりヴァーレントゥーガの

典型的な在り方を問うとともに、

新しい風を取り込んでいると

そう言えるでしょう。

 

私個人の感覚ですが、こうした作品を通じて思うことは、

 自作されたグラフィックの美とは別に、

 徹底されたゲームバランスや世界観の作り込みに対してもまた、

 美を感じることがあるなあという点です。

 少し深読みすれば、個々の要素とは別に、

 要素同士の関係にも意味の次元がある現れかもしれませんね。

 

※↑追記ここまで

 

ここまでで、

以下の2つのことを確認しました。

 

①ヴァーレントゥーガとその派生は、

 典型的には歴史を再現するという

 慣習を通じて、

 自分自身を動的に定義していく力を

 示唆していること。

 

②そのことが、

 リアリティおよびすそ野の広がりに

 寄与している可能性があること。

 

さて、

これらのことが、

ヴァーレントゥーガを越え

インディーゲーム全体や

ひいてはメディア全体に影響をもったり、

メディアを理解したりするための

糸口を提供したりすることにも、

期待が持てます。

 

ここで今書けることには

限りがありますので、

より広い議論については

(私がやるかはともかく)

宿題にできればと思います。

 

※↓2018/12/06 追記

 

いずれにせよ、

こうしたヴァーレントゥーガと

その周りのコミュニティによる、

一定の方向性(慣習)を

自己言及的に作る力や、

これとは逆に慣習を問い直す

その広がりは、

より着目されるべき

魅力的な土壌だと思います。

 

※↑追記ここまで

まとめ

ここまでで、

 

・ヴァーレントゥーガの持つ

 ゲーム形式が、

 シミュレーションゲームの要求に

 適切かつ特徴的に応えていること。

 

・ヴァーレントゥーガの持つ

 典型的な慣習や事例が、

 自分自身を価値付けるうえで

 意味を持つこと。

 

これらを確認してきました。

 

また、より発展的な議論として、

ヴァーレントゥーガが、

社会の理解のための視点や、

記号としての役割を

担う可能性がないか、

少しだけ触れました。

 

他にも、

素材を集めてゲームを作る慣習、

言ってみれば少人数でも

かなり長時間遊べるゲームを

作れてしまうその環境など、

議論する観点は多数あります。

 

しかし、議論するべき点が多数ある点は

取り扱う対象としてはむしろ

好ましいことでしょう。

 

来たる2019年は、

DiGRAデジタルゲーム学会)の

国際大会が、

11年ぶりに日本で行われるそうです。

http://www.digra2019.org/

 

これに向けて、

こうした日本のインディーゲームの

特徴的かつ活発な動きが、

外国人の研究者のかたによく着目される、日本のメディアミックスの系譜の延長線の上で

拾われてほしいなあと願っています。

 

というか、それをわずかながら期待して私が行動した結果が、この記事ですね

 

そして、

ヴァーレントゥーガとその派生の

活況がより注目され、

より対象として議論されるよう

願っています。

 

それでは、

ここまで読んでいただき、

ありがとうございました。

 

また実空間やインターネットや虚構世界など、

どこかでお会いしましょう。

 

 

参考文献

 書籍

四方対象: オブジェクト指向存在論入門

四方対象: オブジェクト指向存在論入門

 

 

 

ワードマップ現代形而上学: 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎

ワードマップ現代形而上学: 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎

 

 

 

なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか (角川E-PUB選書)

なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか (角川E-PUB選書)

 

 

 

フラット・カルチャー―現代日本の社会学

フラット・カルチャー―現代日本の社会学

 

 

 

 

 

 

 

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

 

 

 

メディア・コンテンツ論 (シリーズ メディアの未来)

メディア・コンテンツ論 (シリーズ メディアの未来)

 

 

 

 

オンライン・ゲーム

www28.atwiki.jp

最終アクセス:2018/10/25

※特に、「ヴァーレントゥーガ」本家および、

 「むなしい努力」について。

 

KURINOMOTO

最終アクセス:2018/10/24

※きのこたけのこ戦争・IFの制作者さん。

 

kinotakeif.wiki.fc2.com

最終アクセス:2018/10/26

 

 

mondaigaikoushuki.g1.xrea.com

最終アクセス:2018/12/06

 

silverswordgoldwing.blog.fc2.com

最終アクセス:2018/12/06

※銀の剣、黄金の翼の制作者さん。