読書を通じてサンシャイン!! を楽しもう #02 存在と情報編 出会い、生きるリアリティ

 

こんにちは。センケイです。

 

今回、あえて「存在」という

広いくくりを選択しています。

 

ここまでで拾いきれていない

トピックの多くを、これに沿って

書くことができるためです。

 

特に、Aqours の持つリアリティと、

そのことが持つ社会との

影響の与え合いについては、

現代という時代を考えるうえでも

是非向かい合いたいです。

 

確かに、存在というと、

アニメを虚構世界とみなす議論から、

「集まり」が存在するかについての議論、

あるべき理想の姿の存在を扱う議論など、

そうとう多岐に渡ってしまいます。

 

それでもなお、以下のような

嬉しいことがあると期待できるため、

敢えてこの迷いの森の中に

挑んでいきたいと思います。

 

 

第一に、Aqours人数を考えるさいに

その説明材料を提供できえます。

 

第二に、サンシャイン!! ひいては

アニメが現実に与える効果について

取り扱えるものと期待できます。

 

第三に、これらのことを通じて、

私たちの存在、もっと言えば

私たちがサンシャイン!! を通じて

いかに希望を持つことが出来るかという

より意義のあるところへ到達できると

期待できます。

 

これらのうまみのために、

少し遠回りな議論にはなりますが、

掘り下げていってみましょう。

 

Aqours の範囲と満たすべき条件

作中における Aqours の範囲

まずは、

Aqours は何人で Aqours なのかという

本質的な問いを当たってみましょう。

 

その時間的変遷と、6人でも続ける理由は

ぶさんがかなり詳しくご説明されており、

これ以上加えて考えるべきことはほとんど

ないように思います。

 

Aqours という機能(あるいは目的?)が

共有されている以上は、

9人でなくなっても存続するという

決断に至るわけですね。

 

勿論、存続することの是非を議論しているわけではありません。μ's にとってはおしまいにすることが、Aqours にとっては継続することが自然であり、いずれも作品の質を高めたに違いないでしょう。

 

敢えて加えて考えられるとすれば、

歴史の共有についてでしょう。

 

ここまで走ってきた道の

集合的記憶を共有することを

 Aqours のメンバーである条件とするなら、

この9人で Aqours という事実もまた

存続する形になります*1

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ラブライブ!サンシャイン!!The School Idol Movie Over the Rainbow」見どころチョイ見せPV/ラブライブ!シリーズ公式チャンネル
今までともに過ごした時間を確認するかのように、学校を再び訪れる描写があります。

 

Next SPARKLING!! において

心象風景中で9人で歌うことも、

ファンミや今後のライブにおいて

声優さんが9人で歌うことも、

私たちは自然に受け入れることができる。

これは1つには、

以上の理由によるものではないでしょうか。

 

また、劇場版終了時点での作中の Aqours は、

その意味では6人でも9人でもあり、

まさに文脈に依存する形で(社会的に)

構築されている、と言えるでしょう。

 

一方、10人目の Aqours については

どのように考えられるでしょうか。

 

1つには、先ほどの、ぶさんの記事での

目的因、つまり目的の共有を通じて

明らかにできます。

浦の星のみんなや視聴者の私たちもまた、

輝く目的を共有する Aqours の一員として

数え上げられるでしょう。

 

あるいは、ハイデガーと日本人との

対話の様子が文章にされた

言葉についての対話』の、

以下の記述がヒントになりそうです。

 

その文中に、(恐らくは意図して)

2つの意味がごっちゃに書かれている

箇所があるというのです。

 

・発露(ここでは輝きの発露としましょう)

 が人間に、言づてを託す。

・言づてが人間に、発露させるように託す。

 

つまり、これをライブに当てはめるなら、

私たちは Aqours輝きを伝聞するよう

託されてもいるし、

同時に、私たち自らが輝きを生むように

託されてもいた、

このような理解が可能でしょう。

 

ここで、原文では「二つ折れの」発露と記述されており、二つ折れとは、モノの本質とモノの実存とがないまぜになった状態を指します。本質とは目指すべきゴールのことでもあり、本質は最初から与えられたものではなく、事後的に、あるいは同時並行で獲得されるものだとするのが実存主義的な考え方です。一見遠そうに見えますが、この考え方はサンシャイン!! とかなり呼応するところがあります。これについては、以前の記事でも触れたのですが、魂さんがさらに詳しくご解説されているということに最近気づきましたので、こちらをご参照いただければ幸いです。

 

輝きを再現≒再生するよう求められた

私たちもまた、輝くという目的を

共有しており、その意味では

10人目に拡大された Aqours

一員となるのでしょう。

 

なお作中でも確かに、

伝聞することと自ら輝くことが

重なり合う場面があります。

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劇場版公開記念!劇場版挿入歌「Hop? Stop? Nonstop!」スペシャルムービー/
ラブライブ!シリーズ公式チャンネル

Aqours の Hop? Stop? Nonstop! を

カメラの目でまなざしたり、

Brightest Melody を撮影したりした

渡辺月。彼女はその後、

楽しんで活動する大事さを忘れていた、

ということを打ち明けます。

伝聞者、あるいは観察者であった月は、

自ら輝きを生むように感化された。

そのように思わせる描写です。

 

なお、Brightest Melody の配信については

情報空間に深くかかわるため、

当記事内でもう一度取り扱います。

 

 

また、

現実空間における Aqours についても

もちろん考える意義があるでしょう。

 

その中でも、アニメの登場人物の

実在性については、当記事の後半に譲り、

声優さんとの関係について

ここでは少し考えてみます。

 

ただこれについても、

Aqours 4th LoveLive! ~Sailing to the Sunshine~」

(以下 4th)の時点で

すでに声優さんたちによる Aqours

アニメから独立して活躍していると

多くご指摘されており*2

その意味では加えて考えるべきことは

それほど多くはないでしょう。

 

つまり声優さんたちの Aqours は、

アニメの Aqours が現実に写像された

”メディア” にとどまるものではなく、

それ以上の豊かな意味を持って

ご活躍されている形になります。

 

Aqours の範囲だけでなく、

その意味的な広がりをも

感じられることになりますね。

 

Aqours は集合なのか、性質なのか

ここまで、Aqours が集合であること、

すなわち、複数のヒトを含む複合体だと

仮置きして進めてきました。

 

しかし、Aqours ははたして

ヒトの集合でしょうか。

 

またそもそも、〈集合〉というものを

存在するもの≒〈存在者〉の1つとして

認めてしまってよいのでしょうか。

 

「存在」と銘打った以上、

この実験による検証が不可能な問い、

すなわち「形而上学的」な問いにも

ある程度答えなければならないでしょう。

 

この議論は背景となる議論も複雑で、

たとえ考える対象をアニメに絞っても、

明確な回答を出せそうにありません。

しかし、

少なくとも議論すべき方向性だけでも

見定めていきましょう。

 

アニメの魅力を感じる動機からは

かなり離れてしまうので、

この節は読み飛ばしていただいても

問題ございません。

 

 

まずは、ヒトの集合が

ひとつの〈存在〉であると

認めてしまってよいかどうかです*3

 

ただラブライブ!シリーズには、

Aqours という集合の存在を

支持しているかに見える言及が、

多少見られます。

 

ラブライブ!サンシャイン!! Aqours 3rd LoveLive! Tour ~WONDERFUL STORIES~』

(以下 3rd ライブ)では、

「はじめまして!私たち、

 Saint Aqours Snow です!」という

自己紹介が行なわれます。

 

『LOVELIVE! SUNSHINE!! HAKODATE UNIT CARNIVAL』

において既に多くのファンのかたがたが

Aqours だけでなく Saint Snow にも

出会っているはず。

 

このような条件下において

はじめまして!」と言われることで、

以下が示唆されるのではないでしょうか。

Aqours と Saint Snow の和集合である

Saint Aqours Snow が、

そのいずれとも異なる〈存在〉であると。

 

かくしてこの類推から、

Aqours がもしヒトの集合なら、

その集合は〈存在者〉であるという

可能性が高まってきました。

 

しかし、

Aqours が集合であると断定すると

新しい問題も生じてしまいます。

 

劇場版において月は、

以下のような趣旨の発言をします。

Aqours はもう曜ちゃんの

一部なんだなあ、と。

 

Aqours が集合だと仮定するなら、

この発言は、Aqours渡辺曜

包含される部分集合である、という

意味になってしまいます。

 

「A が B に包含される」ことを

数学記号で

 A ⊂ B 

と書くとすると、

上の発言は

 Aqours渡辺曜

と表現されます。

 

しかし Aqours渡辺曜を含む

9人ないし6人の集合ですから、

 渡辺曜Aqours

も満たさなければなりません。

 

これらを同時に満たす唯一の状況は

 渡辺曜Aqours

ですがこれは明らかにおかしいです。

 

この疑問を解決するには、

Aqours は集合以外の「性質」を(も)

持つ、と考える方法があります。

 

しかし上記の脚注で挙げたように、

こうした〈存在〉については

書籍何冊分にもなるほどの

慎重な議論が行なわれてきていますから、

当然、あっさり解決というわけには

いかないでしょう。

 

ただ少なくとも言えることは、

Aqours が〈存在〉していると述べるには

かなり慎重な議論を積み重ねなければ

いけないこと。

そして、Aqours が〈存在〉するとすれば

単に6人ないし9人のヒトの集合だとは

決着できないということ。

これらの2点でしょうか。

 

なお、

Aqours が〈性質〉であるとするとき、

すぐに思いつく問題としては

以下のようなものがあります。

 

第一に、AqoursAqours 以外を

明確に線引きできる、

「○○である」という条件の

用意が難しいこと。

 

例えば

Aqours 名義の歌を歌う女子高生である」

という条件だと、

2期11話で『勇気はどこに?君の胸に!

を合唱する浦の星女学院の他の生徒たちも

含まれてしまいます。

 

それにこれだと、

9人が歌を歌っていない瞬間には

Aqours が存在しないことにも

なりかねません。

 

これに対し、「Aqours 名義の歌を

習慣的に歌う…」という改良版が

考え得ますが、

アニメ世界の中のカラオケにおいて

習慣的に歌う女子高生がそれなりに

存在するかもしれません・・・。

 

脱線しますが、例えば英語の現在形は、現にそうであることを指すだけでなく、習慣的にそうであることも指すことができ、なかなか良くできていますね。

 

 

ここまでを少しまとめましょう。

 

確かに、

厳密な Aqours の定義を考えることは

難しいと分かりました。

 

しかし素朴な観点に立ち返るなら、

あるいは社会的に構築される事実に

準拠するのなら、前節で述べたように、

Aqours6人であることも、

9人であることも自然に許容できる。

このようなことが

確認できたのではないかと思います。

 

また、厳密な定義の難しさは逆に、

様々な意味を許容するチャンスでも

あったように思います。

 

Aqours という概念の中に

性質(あるいは役割)のような

集合以外の意味を持つであろうこと。

アニメとは異なる演出をするといった

新しい可能性も余地に含んだこと。 

 

脈々と受け継がれる存在論の文脈と

整合性を持つにはまだ、

十分な議論ではありませんが、

Aqours というものが

豊かな意味を持ちうることについて、

一定の根拠を示せたと思います。

 

 

情報空間と虚構空間の実在性

アニメの登場人物としての

高海千歌たち Aqours のメンバーが、

どのような実在性を持つかについては

さらにもう少し考えてみましょう。

 

私のブログのこのシリーズの方針として、

社会との接点や、現代的な現象との関係を

特に重視しようとしています。

 

このためここでも、

アニメの作中という虚構空間

直接考えるというより、

インターネット等の情報空間も含めつつ

現実への影響を考えることで、

作中人物や各種の実在性を考えていきます。

 

まず、

現実空間、虚構空間、情報空間という

3区分を前提に考えましょう*4

 

動機としての情報空間と虚構空間

虚構空間と情報空間のうち、

情報空間のほうが、現実空間への影響が

分かりやすいかもしれません。

 

Twitter を通じて知人関係になったり、

LINE を通じて待ち合わせたりするなど、

情報空間を一度経由して

現実空間での動き方を決める点は、

日常の直感たるところです。

 

モビリティーズ 移動の社会学』は

これを補強する根拠を示しており、

244P にて、インターネットの利用者は、

近所における自発的活動を最も活発に

行なっているという議論を

紹介しています。

 

さらに、例えば「移動」という時空間を

考えてみると、虚構空間の影響もまた

明らかになってきます*5

 

前掲の「メディアの発達と新たなメディア・コンテンツ論」は、

今後の観光においては、情報空間上、虚構空間上での精神的な移動も重要な対象になる 

と述べています。

 

たとえば沼津まちあるきスタンプは、

このことを端的に示す例でしょう。

 

私たちファンは携帯電話を使って、

すなわち情報空間内を探索して

お店の場所を探し、

そして時には、スタンプの人物

その場でのふるまいを想像して、

すなわち虚構空間内を探索して

その場に赴くかどうかを決定する。

このような観光を行うものと

考えられます(私の場合はそうです)。

 

この意味では、少なくとも

移動という振る舞いの中では、

情報空間も虚構空間も現実空間に匹敵して、

行動を決める動機たりえるわけです。

 

文脈によっては、すなわち例えば

移動という文脈を選択すれば、

ある意味では情報空間も虚構空間も

十全な「存在」を見せます。

 

(ただし念のため、ここでの「存在」は、前述の形而上学的な存在や、ハイデガーが述べるような存在のような厳密な定義は踏襲していません。)

 

『菊とポケモン』も、

絶え間ない移動が増してきている

現代における、虚構空間の

重要性を述べています。

 

同書はたまごっちを例にとり、

アパデュライを参照しつつ 229Pで、

われわれが生きている世界は、想像が社会生活で新しい役割を果たすようになったことが大きな特徴である

としています。

 

あるいは 243P では、

どちらのアイデンティティも平等に存在し、自然と人工、機械と生物、バーチャルとリアルのどちらかが一方がもう一方に勝ることはない

とも。

 

同書は、これまでデュルケムが

社会における想像世界の出現を

儀式に見出していたのに対し、

そうした想像世界を日常にも

見出していっています*6

 

あるいは表題通りポケモンを例にとり、

 交換や(伝統的な)贈与を通じて

社会的絆がつくられている、とも

しています*7

 

このように想像世界すなわち虚構空間は、

社会的事実の1つとして

社会的ネットワークをも構築している、

このように考えられます。

 

移動の最中という文脈、あるいは

移動を余儀なくされるこの現代において、

想像空間は情報空間とともに、

大きな役割を担いつつあるようです。

 

ところで、

儀式や贈与、日常の一部という形式もまた、

サンシャイン!! を考える上で意味を

持つといえるでしょう。

 

儀式と贈与については後述しますが、

日常については、ありとあらゆる場所、

コンビニ、駅前の新聞コーナー、

そして TV にサンシャイン!! が溢れ、

想像世界の横溢を端的に表していると

推察できます。

 

街やメディアの様々な所で

頻繁に見かける「馴染み」と、

沼津市実在の風景に埋め込まれた

「馴染み」、この2つのこと、

虚構空間と現実空間を跨ぐことが、

上述のような寄る辺なき現代に

「深くなじんだ場所」*8をもたらして

いるかのようです。

 

虚構と情報がもたらす出会い

上でも見てきましたように、

情報空間や虚構空間によって

現実の人間関係は促進されるものとして

理解できます。

 

より具体的な例をめぐって、

作中の描写と、それとやや似た

現実の現象とを見ていきましょう。

 

サンシャイン!! の劇場版では、

配信という情報空間を経由することで

人間関係が築かれるさまが、

2回にわたり描写されます。

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出典:ラブライブ!サンシャイン!!1期5話/
©プロジェクトラブライブ!サンシャイン!!

自らの創作を配信する傍ら、

それを知るかつての同級生たちとの再会を

恐れていた津島善子ですが、

むしろこの配信こそが、

彼女たちとの関係をより良好にしたように

見受けられます。

 

また、上で少し述べた

Brightest Melody の配信もまた、

静真高等学校の生徒たちとの関係に

一役買う形になります。

 

彼女たちはこの配信に感化され、

結果、ライブのステージへの協力を

自ら買って出さえしたようなのです。

 

今まで親しんできた浦の星の皆と比べ

より「他者的な他者」と広く出会う*9

そこに情報空間が欠かせない媒体として

組み込まれているのです。

 

あるいは、他者と出会う場所という意味で

情報空間もまた「都市」的だと

理解できるかもしれません。

 

存在論的メディア論』は、

Web ではなくテレビについてですが、

154P でヴィリリオを以下のように

引用しています。

放送は都市に取って代わるのです。何十億もの人間が一緒になれば、瞬間の都市がそこにあります。

放送といった情報空間もまた、

人を集める限りにおいては

都市性を帯びているとみなせるわけです。

 

都市性は、「あらゆるものが寄せ集められ、

出会い、衝突し、咬合していく」*10

ものとして把握され、

情報空間における都市性もまた、

「出会い・別れ 繰り返す」*11ものとして

生きてくるのでしょう。

 

さらに言えば、そもそもと言えば

「環境に溶け込んだテレビ」*12たる

秋葉原のビジョンがあってはじめて、

9人は目標をともにして集まり、

さらには学校を束ねた。

このようにも言えるでしょう。

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出典:ラブライブ!サンシャイン!!1期1話/
©プロジェクトラブライブ!サンシャイン!!

 

なお、ラブライブ! シリーズが

都市を見出してきたことについては、

過去記事のこちらもご参照ください。

a16777216.hatenablog.com

 

 

さらに、現実世界においても、

情報空間を通じた出会いは

やや似た形をとって現れます。 

 

例えばファン同士の出会いは、

同じ趣味を共にするという意味では

必ずしも他者的な他者の出会いとは

言い切れないでしょう。

 

しかし Twitter や、

前述の沼津まちあるきスタンプという

情報空間の装置は、ファンを、

地域のかたがたといったより広い他者

出会わしめます*13

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 残念ながら Twitter 上の出会いについて

数値的な根拠を持ち合わせては

いませんが、しかし直感的には

ファンと沼津市のお店とが Twitter

交流していることは明らかだと

言えるでしょう。

 

 

そしてここにはもちろん、

虚構空間の登場人物が意味を持って

関係します。

 

このように、

現実空間と情報空間、

そして虚構空間がないまぜになり、

あるいは互いに意味を持ちあい、

いずれもコミュニティ形成に貢献していると

考えられます。

 

なお、こうしたコミュニティ形成が

どのようにして成立するかについては

『アニメ聖地巡礼の観光社会学』の他に

集団と組織の社会学』も

希望となるような論拠を与えてくれます。

 

『集団と組織の社会学』は、

集団のメンバーが集団に貢献する動機として、

共通のものに所属していることそれ自体を

強調しています。

 

集団の結束の動機としてはほかに

価値や目的、愛情の共有などが

考えられます。

しかしその一方で、

 いくつかの実験研究が、

その集団に属するという帰属意識自体が

特に集団への貢献を高めることを

示しているようです。

 

ある意味、元も子もありませんね。

 

しかしこれは、今回の場合は、

以下のように

肯定的な解釈を可能にすると思います。

 

地域のかたがたとファンのかたがたがともに、

例えば沼津市に関わりを持つという

共通の帰属意識を持つのであれば、

これ自体が両コミュニティを包括する

結束の要因となるのではないか、と*14

 

 

さらに、上で述べたような「贈与」も

こうした社会的ネットワークの構築に

関わってるようです。

 

ファンがお店に対して、ねそべりや

フィギュア、クリアファイルなどの

アイテムを残していってるとの話を

伺ったことがあります。

 

現代においては商業に対し

影を潜めつつあった贈与という交流が、

ここに復権していると言っても

過言ではないでしょう。

 

なお、『贈与の歴史学』や

交易する人間』に見られるように、

時代によって人間関係の継続のために

かなりの贈与が行われていたようです。

 

今回は深入りしませんが、

歴史あるいは儀式といった場における

贈与の意味を追求することで、

より多くのことを引き出せそうです。

 

例えば、新品で買ったものと比べ

誰かから譲り受けた「物」には、

それが使われてきた物語が

含まれている可能性があります。

 

その意味では、お店の中に多くの

ファンの物語が集まっているとも

言えるでしょう。

 

 

ライブの空間と僕らのLIVE

最後に、

ライブ空間に見られるリアリティについて

考えてみましょう。

 

アニメとのシンクロによってリアリティが

もたらされることはもはや

言うまでもないことですが、

もう少し踏み込んで考えてみたく思います。

 

挿入歌に伴うアニメの映像は、再生です。

その意味ではこの映像は、

今ではない遠い時間の、かつ

ここではない遠い場所の映像に

見えてしまう虞があります。

 

ここにおいて、シンクロの意味が

真価を発揮してくるでしょう。

 

シンクロのダンスはまさに今、ここで

行なわれているのであり、

かつその〈リアルタイム〉の映像が

挿入歌の映像を挟み込みます。

 

存在論的メディア論』によれば、

リアルタイム性は、私たちを遠くのどこかに

没入させ、あたかも目の前にあるように

それを現前させます。

 

すなわち、ダンスのリアルタイム映像が、

アニメ空間をあたかも目の前のことのように

リアルに感じさせる。

ラブライブ!シリーズのライブ会場は、

このような装置になっていると

考えることができます。

さらに WONDERFUL STORIES の後半では、虚構空間と情報空間の位置が逆にされます。この攪乱によっていっそう虚構空間をこの場に有らしめているように感じられます。

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さらに現実のダンスパフォーマンスもまた

私たちファンの前で披露されることで、

私たちが「」にスタジアムにいることも

再認識させられます。

 

前掲の書籍によると、

私たちは遠いどこかに没入するだけでは、

「現」に〈存在〉していることに

無自覚になってしまうのだといいます*15

 

この状態では、人間としての

〈本来性〉が損なわれてしまうと

指摘しています。

(その状態が全くの悪い状態である、

 という主張ではありませんが。)

 

※ 2019/03/14 追記↓

 

遠くのどこかに埋没させられ、

単に可能性の1つが実現化している状態だと

「現」にあることの自覚が失われる、と

指摘されています。

 

これに対し私たちは、

テクノロジー(あるいは恐らく

自分たち自身について)の

潜在可能性を開いていかなければ

ならないようなのです。

 

言ってみれば、今まさにここで

生まれ出つつあるような状態、

可能性の1つが選択されつつある状態で

あることこそが、「本来」の、

理想の姿であるということになります。

 

※ ↑追記ここまで↑

 

ここにおいて現実空間のダンスは、

「現」にスタジアムに居る私たちのことを

思い出させてくれるように思います。

 

つまりこのことにより、

私たちは人間としての本来性を失わず、

未来に向かって可能性を開いていく

存在(〈現存在〉)だということを、

生き延びさせることができる。

このように理解できそうです。

 

さらに、ラブライブ!シリーズの中でも

特にサンシャイン!! は、

現に生きている瞬間であることを

いっそう示しているように

感じられます。

 

3rd の MIRACLE WAVE における

伊波杏樹さんのロンダートバク転や、

4th の想いよひとつになれにおける

逢田梨香子さんを迎えたダンスは、

その典型と言えるでしょう。

 

3rd の MIRACLE WAVE において

伊波さんや鈴木愛奈さんたちが

涙していることから想像するに、

このパフォーマンスは約束された成功の

「再」生や「再」現であったのではなく、

まさにこの場に産み出されたものだと

解釈できるでしょう。

 

何かの結果として

すでに存在しているライブではなく、

まさに可能性が生まれつつある

生きられたライブが行われた、と

考えられませんか?

 

やはり前掲の著書によれば、

前掲の著書に従って

上の追記で記しましたように、

潜在可能性を引き出すような

メディアの使い方こそが、

現にある本来性を思い出させる

鍵になるようです。

 

この意味でも、こうした

モニターの使用法やライブの構成は、

私たちに本来性を取り戻させ、

未来に向かって生きる実感を

与えてくれるような、

そんな構成である可能性が高そうです。

 

(メットライフドームという場所の固有性、「このメットライフドームに戻ってきた」と言わしめる場所であることもまた、私たちが現にその場にいる意味を高めていると考えられます。あるいは、儀式あるいは祭典をベースにした集合的記憶とも言えるでしょう。

 

そもそもと言えば、

2期というシリーズそのものが、

現在進行形で物事を生み、そして

新しい可能性を開いていくような

テーマを背負った物語では

なかったでしょうか?

 

無から現在進行形で、

現に萌えいずるような動きをする

MY舞☆TONIGHT。

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出典:ラブライブ!サンシャイン!!2期3話/
©プロジェクトラブライブ!サンシャイン!!

 

各々に秘められた新たな可能性を

歌のテーマへと選ぶ

Awaken the power。

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出典:ラブライブ!サンシャイン!!2期9話/
©プロジェクトラブライブ!サンシャイン!!

 

そして締めくくりとして迎えられるは、

結果としての自分たちではなく、

現に生み出し続けてきた自分たちこそが、

輝き≒探していたものだったとする

WONDERFUL STORIES。

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出典:ラブライブ!サンシャイン!!2期13話/
©プロジェクトラブライブ!サンシャイン!!

 

現実空間、情報空間、虚構空間、

そしてそれぞれの根底にある

物語もが協調して、

リアルおよび未来に開かれた可能性を

作り描いていると考えられます。

 

なお、2期13話において、

今までの形跡がつねにその場で生まれる

可能性を重んじてきたことについては、

こちらの自己物語編も

よろしくご参照ください。

a16777216.hatenablog.com

 

 

ここまで見てきましたように、

サンシャイン!! のライブにおける

テクノロジー、そして

そのテクノロジーの活用方法は、

遠くのどこかに没入させるとともに

」にここにあるという、

二重のリアリティを構成する。

このような装置だと確認されてきました。

 

そしてこのようなライブの構成は、

キャストのかたがたが未来への可能性を

現に目の前で切り開いたであろうことと

相まって、

私たちに本来の人間性

未来に向かって可能性を開いていくことを

取り戻させてくれるものだとも

考え得るものでした。

 

以前の 3rd のレポートでも、

潜在可能性を見出すことを通じて

ライブから希望を得ることを試みましたが、

今回、テクノロジーの使われ方という

より物質的な根拠も踏まえることで、

ライブで希望を見出し得ることについて

精緻な確認ができたのではないかと

思います。

ライブはむしろ「それなり」の満足から

脱却する手法でさえあり得たのであり、

ライブが単に「それなり」の満足に

堕した商品かもしれないなどと

不安がる必要はほとんどなかったのです。

 

※ 2019/03/14 追記 ↓

 

このことを踏まえると、

Brightest Melody が「また始め」る内容を

「何か?」「なんだろうね」

と未確定のまま置いている理由も、

自然に理解できそうです。

 

生まれつつある状態、

(潜在)可能性のどれか1つを

今まさに選びつつある状態であることが、

ハイデガーを通じて

存在論的メディア論』や

『言葉についての対話』が言うところの

本来性あるいは輝きになる、と

解釈できますから。

 

※ 追記ここまで

 

まとめ

さいしょに予言しましたように、

やはり「存在」 という言葉の

意味の広がりは大きく、

観点としては多岐に渡りました。

 

大きく分けると、

第一に、 Aqours の存在自体は疑わず、

その範囲や意味を見定め

第二に、Aqours やサンシャイン!! が

現実に存在しているかを疑って見たとき、

どのような点では存在が確かめられるかを

確認してきました。

 

範囲や意味の考察においては、

Aqours の物理的側面だけではなく

共有する記憶や性質を考えることで、

6人でも9人でも Aqours と言い得る

その根拠を確認しました。

さらに、キャストによる現実空間の

Aqours まで考えに入れることにより、

豊かな意味の広がりを感知できることを

確認してきました。

 

いっぽう、アニメ世界のサンシャイン!! が

現実においていかに存在し得るかを

敢えて考えてみることで、

その実在性やリアリティを

確認できるだけではなく、

他の多くの恩恵も得ることができました。

 

旅や移動、あるいは人間関係において

アニメという虚構空間もまた大きな貢献

しているであろうこと。

社会にとって必要な要素と言い換えても

いいかもしれません。

 

そしてライブの場でのリアリティは、

単にリアリティを持つのではなく、

私たちの人間としての本来の在り方さえ

取り戻させ得ることを

確かめてきました。

 

サンシャイン!! のライブは、

僕たちの現に生きるさまを思い出させ、

つまり「僕らのLIVE」を現前させ、

その意味では日常よりもいっそうリアルな

生の時間を獲得させるものだ、と。

 

そうだとするならば、あるいは現実以上に、

潜在的なリアリティを持っていると言っても

過言ではない。

そのような場なのかもしれません。

 

 

それでは、今回も長くなりましたが、

ここまでありがとうございました。

 

また現実空間か情報空間、

あるいは虚構空間を通じて

お会いできれば幸いです。

 

つぎは恐らく「移動と都市編」に

なるかと思います。が、

3rd の BD も今や

ゆっくり確かめられるように

なりましたし、

そろそろ「視覚と聴覚編」も

完成させて行きたいですね。

 

お楽しみにお待ちください。

 

 

参考文献

書籍・論文

sekaishisosha.jp

2006年 片桐雅隆 著

 

ci.nii.ac.jp

 

 

www.shin-yo-sha.co.jp

2014年 鈴木生郎・秋葉剛史・谷川卓・倉田剛 著

 

 

www.shin-yo-sha.co.jp

2017年 倉田剛 著

 


mukogawa.repo.nii.ac.jp

岡本健. 「メディア・コンテンツと観光―ゾンビ映画社会学―.」 武庫川女子大学生活美学研究所紀要 26 (2016): 71-83.

 

 

ci.nii.ac.jp

 

www.shin-yo-sha.co.jp

2005年 和田伸一郎 著

 

ci.nii.ac.jp

 

www.shinchosha.co.jp

2010年

 

 

www.hou-bun.com

 2018年

 

 

www.shin-yo-sha.co.jp

2004年 和田伸一郎 著

 

 

sekaishisosha.jp

2017年 山田真茂留

 

 

www.iwanami.co.jp

2016年 吉見俊哉

 

 

ci.nii.ac.jp

 

 

bookclub.kodansha.co.jp

2000年

 

オンライン

butyouare.hatenablog.com

 ※ 2019/03/12 最終アクセス

 

ishidamashii.hatenablog.com

※ 2019/03/12 最終アクセス 

 

ichikingnoblog.hatenablog.com

※ 2019/03/12 最終アクセス

 

www.nhk.or.jp

※ 2019/03/09 最終アクセス

 

www.llsunshine-numazu.jp

※ 2019/03/11 最終アクセス

 

映像・音楽作品

www.lovelive-anime.jp

 

 

www.lantis.jp

 

 

www.lantis.jp

*1:集合的記憶は、[…]ともに成員であることを確認し嗚合っていく。」『認知社会学の構想』 169P

*2:例えばいちきんぐさんの 4th ライブご考察や、NHK の番組『シブヤノオト

*3:これが簡単でないことについては、例えば『ワードマップ 現代形而上学』や『現代存在論講義 I』。例えば全世界の N 人のヒトのうち M 人のヒトを組み合わせて任意に集合を作って良いのであれば、2の数十億乗という、天文学的な数を凌駕する集合の数が〈存在〉することになります。このような不自然な結果を可能な限り避けるというのが、存在論の基本スタンスのようです。

*4:例えば岡本さんの、紀要「メディア・コンテンツと観光―ゾンビ映画の社会学―」や『メディア・コンテンツ論』3P~「メディアの発達と新たなメディア・コンテンツ論」など

*5:「移動」自体の重要度が高まってきており、1つの主題になってきている点については例えば『モビリティーズ 移動の社会学

*6:『菊とポケモン』230P, 232P

*7:『菊とポケモン』283P

*8:『菊とポケモン』241P

*9:他者的な他者については例えば『アニメ聖地巡礼の観光社会学』223P。

*10:『視覚都市の地政学』が 24P。ルフェーブルを参照しつつ記しています。

*11:Brightest Melody』より

*12:『モビリティーズ 移動の社会学』241P。さまざまな公共空間にディスプレイがあって、私たちはこれに違和感をおぼえず、ときに消費行動も促されるというさま。

*13:ファン同士が他者的な他者と言えないことや、聖地巡礼によってファンと地域のかたがたの間に出会いがあること、そしてそれこそが他者的な他者との出会いと言えることについては『アニメ聖地巡礼の観光社会学』。

*14:サンシャイン!! を応援するという価値や愛情も代替的に機能しそうに思えますが、しかしそれでは特にタイアップを行っていないお店や、ファンというわけでもない地域のかたがたを包含できないでしょう。一方で、ご厚意で教えて頂いたある話によれば、タイアップしていないお店にもファンがよく訪れるそうです。(その意味で、そうしたお店からも、サンシャイン!! を好意的に思って頂けているようです。が、価値の共有や愛情とはまたちょっと違う気がしますね。)このような条件下で、ファンと、タイアップしていないお店との出会いをも包含するものとしては、沼津市に対する帰属、が適切に思います。

*15:※ 2019/03/14 追記 遠くに没入する仕組み自体は、(何かの結果として)存在してしまっている私たちをはぎ取ることで、むしろ〈存在〉をあらわにし、私たちに〈存在〉を思い出させてくれるきっかけになると言います。しかし同書は後半 202P では、丸裸になった〈存在〉を放置することに人間が耐えきれないという問題を指摘しています。