こんにちは。センケイです。
一時はどうなることかと思いましたが、ようやくニジガクらしいとでも言うべき展開になってきましたね。
それに、複数の問題が同時に解消されてくるところは、ラブライブ!シリーズらしいともいいますか。
他を尊重し合うハートフルな展開が見えてきたとともに、抑圧から開放されてどんどん伸びる部分もまた見えてきました。これらが同時に奪われたかにみえた一時期はかなり衝撃でしたよね…笑。一方だけでもとても大切なのに。
20章、21章では、これみよがしなほど、グローバル資本主義の流れにメンバーたちが翻弄される姿が描かれてきました。
鐘嵐珠とミア・テイラーも、一見グローバル資本主義の象徴として現れたかに見えましたが、彼女たちもまた、翻弄される側の人物であるには違いなかったのです。
このようななか同好会は、その流れに抵抗するものであったのか。これを見ていきたいと思います。
競争原理を避けて通れない「部」
21章感想でも書きましたように、ミアはこれまで、数字が全てであるかのような考え方をしてきた人物でした。
少し回り道をして、数字で音楽を評価するとはどういうことか、考えてみましょう。
ありていに言ってしまえば、音楽のレベルが一定以上になるとき、上手ければ上手いほど人を感動させるとも限らなくなってくるでしょう。一般に、音楽に甲乙をつけるのは難しいはずです。
では、例えば紅白歌合戦やオリンピックなどで「日本を代表する歌」みたいなものを選抜する際は、どうすればいいのか。
そこで重要になってくるのが、数です。知名度であれ、売上枚数であれ、再生数であれ、数値の大きさは重要がファクターになってきます。
以下は最近でこそ番組内容が変わってきているものの、淡々とランキングを紹介する「COUNT DOWN TV」が代表的な音楽番組の1つになっていることも、その証左でしょう。
様々な音楽がインターネット上に群雄割拠する現代、再生数が 1,000 くらいのあまたの自主制作の音楽のなかで、「これはいい音楽だ」と言えるものもきっと無数にあることでしょう。
1,000 再生くらいの音楽のほうが、数千万再生、あるいは数億再生の音楽よりも圧倒的に存在している曲数が多いでしょう。
だから、曲の数に比例して選ばれる合計のチャンスが増えるのであれば、1,000 再生くらいの音楽こそが「日本を代表する歌」に選ばれるのが当然の帰結なハズです *1。
ところが、実際に代表する歌に選ばれがちなのは、曲数としてはずっと少ないはずの、数億再生の音楽です。
このことは、いかに音楽が知名度や、売上枚数、再生数で選ばれるのかを物語っています。
世の音楽がこのようなゲーム構造になっている意味では、ミアが再生数を絶対視するのは自然な事かもしれません。
それになにしろ、プロとしてやっていくのは食わなければならないので、いかに売れているか、いかに再生されているかは、生きていくための条件としても迫ってきます。
いい音楽が作れれば食えるとは限らない、厳しい世の中だなというのを感じざるを得ません。
しかしもちろん、豊かに生きていく指標として、知られること、売れること、聴かれることが全てではない。このようなメッセージもまた、スクスタのストーリーの中から、そこはかとなく感じられます。
嵐珠でさえときどき、普通の一人の人間であるさまを垣間見せます。
競争原理を主義として持っているかのような嵐珠は、ミアを曲を作る人物として、役割として見てしまうときが多いです。しかしそれと同時に嵐珠は、一緒にみんなでご飯を食べるよう呼びかけもします。
競争原理に乗りながら役割として生きることと、ひとりの人間として生きること、その狭間で揺れ動いていることがひしひしと感じられてきます。
ミアの場合、幸か不幸か、競争原理とは違う見方を知っていき、彼女の世界が少しずつ変わっていきます。
確かに、競争原理だけを正義とするならば、自分の価値と数値的達成とがイコールになってしまうことでしょう。当初は、ミアは心配してくれる部のみんなの動機がどうしてなのかを理解できませんでした。
競争とは異なる原理、存在の肯定
前のアニガサキの記事でも書きましたが、「居る」っていうのは案外、大事なはずです。
ときには、ただ「居る」っていうことの意味も、大事にしたほうが良いはず。
後で述べるように、同好会のみんなが、必ずしも競争について否定的であるわけではありません。
しかし、競争とは異なる原理をも持っていることが、同好会の強さになっているのでしょう。
具体的には、楽しむということや、親しみを持ち合うということ。そして、「居る」のを肯定するということです。
アニメでは天王寺璃奈は、宮下愛や同好会のみんな、そして同好会という場があることによって、「居る」ことが出来るようになった人物だと思います。
それゆえ、人一倍、居るということの重要さを知っているのではないかと。
そんな彼女だからこそ、働きかけることが出来る部分があったのでしょう。
私の個人の体験談としても、僭越ながら璃奈に共感できるポイントは多々あります。
一人で何かに没頭したり、ゲームをしていたり、あるいはあまり何もしないでぼんやりしていたり。そういう場合にこそ「居る」ことができた経験が、何度となくありました。
自分の場合は特に、ゲームによって随分救われてきました。自分は人と比べてダメだなと思っているようなときに。
ゲームが居場所になっている話としては、アニガサキと同時期に放送していた「神様になった日」でもとても印象に残ったシーンがあったのですが、これはまたの機会にしましょう。
璃奈は、居ることの大切さを知る人物であり、同時に、猫のはんぺんを匿ったように、正義感のある人物でもあることでしょう。
だから、何か価値を生み出し続けていることを前提とせずに、人を人として、その尊厳を大事にできるのでしょうか。
競争は確かにこの世に存在しており、それは確かに大事なメカニズムの一つかもしれない。しかしそんな競争が激化するこんな時代だからこそ、この言葉の優しさには (外から見ているこちらまでも) 救われるものがあります。
いくら競争が大事だからと言っても、競争に勝ち続けて「価値」を生み続けることが人としての尊厳の前提ではない、ということなのでしょう。
これは、同好会のみんなが競争を目の敵にしていないからこそ、かえって説得力を持つ言葉に見えてきます。
同好会は第一に、部のやり方に対しても敬意を払っています。第二に、同好会のライブのときに、入場しきれないほどにファンが増えてきたことを素朴に良しとしており、「数を増やすことばかりに躍起になっていては…」と内省するわけではありませんでした。つまり、注目を増やそうという競争原理自体に対して否定的であるわけでは、決してなかったのです。
数には数の意義がある。それでもなお、それを維持できない人でも周囲から大事に思われてしかるべき。やっぱり何というかこの、既存の価値観を無下にすることなくメッセージを投げかけてくる虹ヶ咲が、優しいし強いですよね。
響き合う同好会的な側面
複数の問題が同時に解決されていくところが話の構成として美しく感じられますが、さこには部の動きの変化もまた含まれます。
愛や朝香果林、三船栞子が部に移籍したことは衝撃でしたが、これは部がほだされていくために必要な伏線だったのかと思うと、これもまたなんともニクイ演出です。
前回の記事では、愛について考えた仮説のうち1つは少し穿ったものであったことを反省しています。
愛はやはり、誰に対しても同じ距離で接しているのでなく、同じ歴史を共有してきた仲間に対してはより篤く接しているようなのです。
それは同好会のメンバーに対してもそうだし、ミアに対してもまた、過ごしてきた時間が長くなった分だけ、深い情愛を向けていました。
敬愛する仲間に対してはまるで自分のことのように悩むのを見て、また一つ愛の魅力を痛感しました。
果林もまた、部の雰囲気をほだすところで大きな役割を発揮し始めます。
役割として見るのではなく、一人の人として受け入れる。そんなぬくもりを部にもたらしているのです。
同好会的な、人の縁や「楽しさ」を受け入れる準備が出来てきた部の動きに、嵐珠は面白くないかもしれません。
ただ、嵐珠もまた、競争原理1つだけで生きているわけではなく、純粋にお昼ごはんを一緒に食べたいと思うなど、人間らしい側面をあらわにし始めています。
部、同好会それぞれにおいて人と人との繋がりを大事にしていく元同好会の11人の動きは今後 部をどのようにしていくのか。大分面白くなってきました。
そして、ミアが自ら歌える瞬間に向かって、物語が動いていきます。
ところで、夢っていくつも持つことが出来るものなのでしょうか。あるいは、今プロとしてやっていること以外に夢ができてきたとき、いったいどうすれば良いのでしょうか。
2つ目の夢、あるいは、手につけている職とは違う夢。それは、すでに職にしていることと比べれば、ご飯を食べていけるほどのものではないのかもしれません。
そういう夢は一般に、なかなか披露する場面も限られ、育てていくことが難しいこともあるでしょう。
そうした「もう1つのやりたいこと」を育てるために、ときとして、ボトムアップ的なアプローチが効いてくるのではないでしょうか。
部の活動が、完成されたシステムとして歌を披露するトップダウン的なものだとするならば、同好会の活動は、ゼロから話し合いながら積み上げる、ボトムアップ的なものだと言って良いでしょう。
作曲についてすでにプロとして公表の場を持っているミアが、歌唱についてはこのボトムアップ的な環境に救われるというのも、なかなか面白い展開だと思いました。
ゼロから積み上げていく場こそが、まだご飯を食べていくには至っていないような夢を育てる上で、欠かせないものとして働いたのです。
再び個人的な話になりますが、今の私の「もう1つのやりたいこと」は、仕事場とは別の分野で研究をすることです。その助けになるかもしれない1つの方法として、最近では在野研究というアプローチが話題になっているのを知り、注目しています。これは、大学などの専門機関に属さずに研究をするというアプローチです*2。
現代という時代は、インターネットを通じた情報収集や公表がやりやすくなっており、少なくともその点についてはボトムアップ的なことを始めやすい時代だと思います。
同好会の活動は、その点でもなかなか今の時代っぽさを感じさせます。
そしてさらに時流を意識させるのは、オンラインで配信ライブを行おうという点です。
メンバーがそれぞれ異なる場所から配信する。そのことによって監視委員の要請に対して頑健さを高める。これによってますますボトムアップさが高まります。
「分散ネットワーク」のようだといいますか。そこに中心や司令塔はなく、1つ1つの個別の場のあつまりが、全体として秩序をなすわけです。
そして満を持して披露される、「I'm Still...」という歌。
「もう1つのやりたいこと」を受け入れてくれる場所がなければ、叶うことがなかったかもしれない、ミアのささやかな、しかし大事な夢です。
今でも夢見ているという言葉からは、ずっと夢を抑え込んでいた時間の長さが感じられ、胸に迫るものがあります。
そして、私達にとっても。この言葉はまるで、何か手に職をつけた後でもあきらめたくない夢を、励ましているかのように聴こえます。こちらもとても勇気づけられます、自分の道をきっと進むことができるかもしれない、と。
競争原理が全てではもちろんなくて、アクシデントで生産が出来なくなっても人間には尊厳があるといいうこと。
でも競争原理は敵というわけではなくて、大事なものでもあるということ。
専門機関と、ゼロから積み上げていく活動、どちらが偉いというわけではなく、それぞれ尊敬できる点があるということ。
複雑さを極めている現代社会を生き抜くヒントのような事柄を、短い間にこれほど多く訴えかけていて、とてもメッセージ性のある章だったということを感じました。
そして、一見そっけなかったミアの人間味がどんどん出てくるところや、それを支える璃奈のケアに、心打たれる章でした。
荒波を乗り越えた先には、その荒波さえも意味があったと思えるような何かが待っている。そんなシナリオが、例えスクスタ時空だけの出来事かもしれないとしても…、この世に産み落とされて良かったということを心から感じます。
あとがき
ゲームとアニメとで同じ時間を共有している人物なのか、そうでないのかは考え始めると難しい問題です。しかしどちらにも愛せるところがあるのなら、どちらの人物のことも愛したい。ですよね。
あるいは、どちらかだけが愛しいなら、それでも大丈夫なんだろうなとも思います。
しかし いずれにしても、それぞれを愛おしく思うチャンスがあるというのは、それだけ楽しみが増えて嬉しいということを個人的には思います。
両立しない点がある?いや、それこそメディアミックスの面白いところではないですか。現実と違って、キャラくらいはパラレルワールドに拡散していても良いんじゃないかなと。
もしこういう世界だったら、この人はこう動くのか。いやそれはもしかしたら全く同じ世界であっても、 100 ある可能性の1つに過ぎないかもしれないけど。そんな「if」を噛み締めながら…。
それでは今回もありがとうございました!
すっかり次回の直前になってしまいましたが、ある意味、やっと次回が見れるという嬉しさがありますね。
また 23章、そして、もし2期があるなら2期、そんな彼女たちの今後の活躍のどこかで、お会いしましょう。