ラブライブ!化する社会で希望を見出すための Aqours 3rd LIVE レポート

 

こんにちは。センケイです。

 

今回も少し長い議論になりますので、

分かりやすさのため

最初に感想を言いますと。

 

・・・控えめに言って最高でした。

 

これから先どうしようという

自分の道筋の立て方そのものに影響した。

そう言っても過言ではありません。

 

そこで、

ではなぜこのように今回のライブから

希望を受け取ることが出来たのか。

 

これについて、

以下のような3つの観点を軸に

振り返ってみたいと思います。

 

・私たちは、周りを取り巻く資本主義と

 どのように関わってくらしているのか

 

・そのなかで彼女たちが果たす役目を、

 どのように解釈できるのか

 

・これを受けてどのように

 私(達)は生きていくことができるのか

 

それでは早速始めていきましょう。

 

自己充足的な空気に対するささやかな疑念

ときは 2018/06/09。

 

少し私の話になりますが、

ちょうどこのころ、

日々仕事もプライベートもかなり忙しく、

この日を楽しみにすることで・・・

何とか日々を乗り切っていた状況でした。

 

しかし、このライブの直前に

改めて色々考えており、突如、

この日をどのように楽しむべきか?が、

少し分からなくなってしまいました。

 

もちろん、こうした疑念を無視し、

ただ単にそのときを楽しめばいい!と

解決してしまうこともできたと思います。

 

しかし一方で、

この疑念とうまい調和が持てれば、

そのような力をライブから受け取れれば、

このライブの終了後も続く自分の糧へと、

より昇華できるのではないか。

 

そのように考え、

この疑念は一応心に留めることにしました。

 

ではこのような疑念が生まれた理由は何か。

 

1つ目は、

関心は近いけれどもアイドルライブは見ない

そういう先輩に、

 このライブの意義をどう説明したらよいのか

分からなかったこと。

 

もう1つは、

当ライブもまた、

良くも悪くも、資本主義による

一商品に過ぎないであろうということです。

 

少女たちの歌は閉塞した現代社会に
突破口をもたらすのか

 

特に後者。

この祭典が単に一商品に過ぎないなら、

私たちにとって希望をもたらす存在になるかの

分かれ目にもなってくると言えるでしょう。

 

それはなぜか。

 

直観的にはなんとなくイメージ頂けるよう

思いますが、

一応より深くこの出来事に立ち入るべく、

まずは資本主義に対する近年の見解を、

振り返ってみたいと思います。

 

個人的に興味があって読んだ書籍、

主に社会学関係の文献では、

「資本主義は外部を失った」という議論が

頻出しています。

 (『広告都市東京』

 『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』

 『他者の倫理学』『オルタナティブロックの社会学』など。

 文献一覧は最下部にまとめています。

 

これは、以下のように

まとめられると思います。

 

冷戦が終結し、別の勢力から

 批判を受けることが少なくなった。

 

非日常や相対的良さが隅々に浸透したため

 それらの特別感が形骸化した。

 

・資本主義に対する批判も

 商品として受容されるようになった。

 

 この状況を良いとみるか悪いとみるか、

この状況の原因がどの勢力に帰属するかは

結論を1つにすることが難しそうです。

 

が、少なくとも現代社会のこの状況が

閉塞感を抱えているということ自体は、

一定のコンセンサスを得ているのでは

ないでしょうか。

 

 これをコンテクストとして踏まえると、

この祭典がもたらす喜びの中心を

日常に対峙する非日常として捉えるのは、

あまり好ましくなさそうです。

 

逆にここに希望を見出すには、

それ以外・それ以上の価値を、

外挿される特殊なモノとしてではなく、

受け入れることが必要でしょう。

 

まあしかし、このような構えでいても

いざ実際にライブを目の当たりにすると

思考よりも先に身体がよく感受するもので。

 

以下の記述のほとんどは、ライブ後に

事後的に解釈した内容になりますが・・・笑。

 

それでは少しずつ見ていきましょう。

 

ところでこのライブが行われた会場が、

 象徴的な広告都市渋谷を開発してきた

 西武の本拠地であること。そして

 その球場自体にこれでもかと

  広告が散りばめられていること。

 これらの事実にも何かの因果を

 感じざるを得ませんが、

 これについてはまたの機会に。

 

一点透視法的な真理からの脱出と
集合知的アニメティズム

ライブが始まり、

サンシャイン!! 2期を象徴する曲として

一番に飛び込んできたのは

未来の僕らは知ってるよ」です。

が、これは最後のあたりに改めて

振り返りたいと思います。

 

さて 、ここで2曲目がリアル脱出ゲームの

テーマ曲であることからも、

いくつもの意味を感じ取ることができます。

 

が、これを読み解いていく上でも

ゾンビ論やタワーディフェンスについて

それなりに長いコンテクストを要し、

ここでの本論から脱線してしまうため、

機会を改めたいと思います。

 

つまり、ここまでの流れを踏まえたうえで

最初に深入りしたいのが、

「MY舞☆TONIGHT」です。

 

そのヒントは前述の

『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』

にあります。

 

この書籍では、

非日常が浸透しすぎて

外部を感じることが難しくなった

「それなりに愉しく幸福な絶望」に対し、

私たちの取れ得る手が

広く考察されています。

 

結論を先取りすると一つの回答として、

徹底してテクノロジーと身体を

接合することが挙げられています。

 

例えば映画で、

物語よりも美的側面を強調するような、

フォーマットそのものへの注視と

言い換えていも良いでしょう。

 

しかしもちろん、

このライブにおいてテクノロジー

テクノロジーそのものが目的ではなく、

あくまで音を楽しむ手段として

そのフォーマット自体は影を潜めています。

 

この意味では、前述の著書が述べる希望に

素直に便乗することはできません。

 

しかしながら、

テクノロジーと身体との関わりに

徹底して向き合うという視点からは、

ひとつの方向性が示唆されます。

 

MY舞☆TONIGHT によって示される

調和という観点によって、

その可能性が示されてきます。

 

※なおMY舞☆TONIGHT が、

その背景にあるアニメ本編の中で

「調和」を示していることは、

下記の記事から理解することができます。

 

体育会系と文科系、光と闇といった

二項対立がこの2話前半で展開されますが、

どちらか一方を採択するのではなく、

全体を包摂するモデルを見出すことで

この回の解決へと至ります。

 

この解決方法は、まるで

西洋近代の二項対立≒一点透視的モデルを

克服しているかのようです。

 

テクノロジーとのかかわり方、そして

一点透視法的モデルに抵抗する手法は、

Thomas Lamarre というかたの邦訳著書

『アニメ・マシーン』に詳しくあります。

 

この著書においては、

一点透視法的である

「シネマティズム」という概念と、

これに対する

「アニメティズム」という概念が、

繰り返し出てきます。

 

著書の中では、両者とも

かなり多義的なのですが、

分かりやすい例で示すとすると。

 

シネマティズムは、

電車の先頭車両から前面を見、

正面に向かって突入していく、

カメラならではの視点であり、

 

アニメティズムは、

電車の横の窓から、

風景が過ぎさるのを眺める視点、

このように理解できるでしょう。

 

正面から突入していく描画を

2D アニメで実現するのは

従来なかなか難しかったわけですね。

 

しかしこれらの視点はこの事情に留まらず、

ものの捉え方そのものの観点をもたらします。

 

厳密な等号では結べないにせよ、

このシネマティズムこそ、

近代西洋的な見方であり、

純粋なリアリティの追求であり、

唯一の真理を根拠とする思想であり、

全体を俯瞰するパノプティコン的な

視点である。

そのように解釈できるのでは

ないでしょうか。

 

これに対してアニメティズムは、

各要素はあくまで各要素として、

一つに統合されずその役割を果たす、

そのような視座になるものと思います。

 

上の資本主義論、

例えば『広告都市東京』によれば、

全体を俯瞰するような視点は

もはや無効である、と導きだされます。

 

外部がない以上、

外部から資本主義全体を見渡して

メタな言及をすることができません。

 

一方、少し私の解釈も入りますが、

ルーマン 社会システム理論』などの

見方を導入していくと、

相対的な良さという

差異の連続で意味が構築される以上、

関係性の中でしか事実を定義できない。

 

そのような帰結が

得られるのではないでしょうか?

 

ここにおいて、単にシネマティズムを

否定し、アニメティズムに全振りしても、

十分な解決策とは言えないでしょう。

 

このあたりはハイデガーの思想あたりから

ひっくり返して考え、

西洋近代の功罪を見ていくことで

精緻な議論ができそうですが、

私の理解を超えているため

あまり深入りするのは避けようと思います。

 

ただ、科学的手法とテクノロジー

西洋近代の合理論の上に成立している等、

いくつかの点で

直観的に明らかと言えるでしょう。

 

本論に戻りましょう。

 

ここでは 3D モデルに対して

セル画調のテクスチャーを重ね、

シネマティズム・アニメティズムという

2つのテクノロジーの融和が取られます。

 

さらにこのアニメ映像に対し、

実際の人物が踊りを重ねる。

 

アニメ映像と人物とを

同時に見ていることは困難ですから、

この意味でも、要素は要素のままという

アニメティズム的・分解投影図的な

表現がなされていると言えるでしょう。

 

そしてこの曲のフォーマットは、

まさしく西洋近代的な音楽に対し

東洋伝統という代替的な技法が

組み合わせて用いられている。

 

このように複数のレベルにおいて、

「調和」が重なっています。

 

ここまで視てきたように、

このように資本主義が不可能にしている

唯一絶対の視点・近代の欲望に対し、

全肯定も全否定もせず融和し、

集合知的な理解を提示する。

 

ここに1つの希望が立ち現れている、

そのように解釈できると考えます。

 

もちろん、東洋は決して西洋近代に対する

唯一のオルタナティブとは言えません。

特に、日本人の日本は特別だという議論に

多くの待ったが必要であることも

言うまでもないでしょう。

 

しかし、

こと『ハイデガーの思想』においては、

西洋近代的モデルに対する克服として

東洋 特に日本における存在・本質が

クローズアップされています。

 

自分が理解する限り、

理想が先か、その工程が先かという

この2つの存在論の一方を採択せず、

はじめから一緒くただったと見る

東洋的な見方が、

現代思想に一定のインパクトを

与えたようです。

 

2018/12/01追記:

ハイデガーの思想』において、

ハイデガーが影響を受けたのは、

あくまで(東洋思想とやや類似している)

ギリシャ哲学であるとされています。

 

※ 2019/03/06 追記 1/2

『言葉についての対話』などから補うと、

やはりハイデガーギリシャ哲学から

理想≒本質と、工程≒実存とを

ないまぜにした〈存在〉を

見出したようです。

 

では日本人のもたらしたものは

何だったかというと、特に例えば、

「空虚」の概念であったようです。

 

何もない所から生起することの重要性、

理想とする本質ではなく逐次的に

私たちのありさまを構築する重要性、

これらの概念の意味、

そしてサンシャイン!! とのつながりは

魂さんがかなり詳しく書いてらっしゃるため

是非こちらをご参考ください。

 

さて、日本人が影響を与えたと思しき

思想に戻ると、その1つとして、

「空虚」の中から歴史の重なりが

生起する、とした点が挙げられます。

 

前述の書の訳注 34 (164P) に、

以下のようにあります。

人がその中を生きる歴史の文脈とは、人とは独立に事実として在るのではなく、むしろ選択と決断とを通じて虚空の中に現出し目撃されるものだと言えよう。

2018年に書いた以降の論旨とも重なり

驚いているのですが、

歴史すなわち物語というものが、

選択と決断によって出現するものだと

そう理解されるようなのです。

 

また、

西洋的形式と東洋的形式の話題からは

一時脱線しますが、

同書はほかにも様々な示唆をもたらし、

以下に続く内容にもつながるため、

もう少し見ていきましょう。

 

訳注 48 (172-173P) では、

意識しないままに生きてきた時間を

「在ってきたもの」としており、

「その在りようをあらためて背負い受けようとする態度の中で」、

在ってきた在り方が浮上してくる、

このようにあります。

 

過去の意味はあらためて振り返ると

変容して感じられるものです。

これはサンシャイン!! の根底に流れる

ものの見方の1つでしょう。

 

「走ってきた道」は振り返りの中で

生起したものと考えられます。

 

さらに同書の中でハイデガーが、

現象 "phenomenon" の語源である

ギリシャ語の、その動詞形について

「自らを輝きの中にもたらす」、

「その中で現れる」、

と解読しています (96P)。

 

自らを輝きの中にもたらせたとき、

ようやく無から現れる。

輝きを見つけるとは、

無から現出させること

そのものだったのか。

だから0から1だったのか。

 

それとして理解可能になる「現れ」。

その中の1つに物語、あるいは

選択や決断も含まれるのか・・・?

そうであるにせよないにせよ、

示唆に富んだ議論です。

 

なお、物語と社会との関係や、

物語が事後的に理解される点については

この追記のころに公開した記事でも

書いておりますので、

よろしければご参照ください。

 

a16777216.hatenablog.com

 

※ ↑ 追記ここまで↑

 

ここまで見てきたように、

鳥瞰的な視点を失効した私たちに

取りうる選択肢として、

効果的なテクノロジーへの

向かい方として 、

鳥瞰図的な視点と分解投影図的な視点の

2つの視点の(多重の)折衷を

見出してきました。

 

※ 2019/03/06 追記 2/2

 

つまり、この曲および

この曲を堪能する私たちが、

2つの形式の融合を通じて

テクノロジー自体と向き合ったことを

確認してきました。

パースペクティブや立体モデルの

リアルに迫る映画的手法と、

平面の重ね合わせという制約を

むしろプラスに活用するアニメ的手法

この2つの形式の融合です。

 

 

テクノロジー自体

身体を接近させる形になるわけで、

前述のように、これは、

希望を見出す1つの方法に相当します。

 

なお、映画的手法とアニメ的手法の

融和については、背後の物語

音楽の形式、そして思想的な混合と、

多岐にわたって行われたであろう点も

確認してきました。

 

※ ↑ 追記ここまで ↑

 

ここからさらに、

「MIRACLE WAVE」

「Awaken the power」

「WATER BLUE NEW WORLD」と

大きく展開していきます。

 

これらを通じて見出される希望は何か。

1つずつ見てきましょう。

 

この先は単に解釈の問題にとどまらず

仕事への不安など実践的な効果も

見いだせると考えています。

 

潜在的な可能性と偶発的な将来の獲得

 「いま」という内部に対し、

それでもあきらめずに外部を希求するには

どうすれば良いか。

 

その解決手法を提示したのが、

「MIRACLE WAVE」

「Awaken the power」

の2曲だと思います。

 

ここで争点になるのが、

「いま」に対する時間的外部として

「未来」を採るかどうかです。

 

じゃあ未来以外の選択肢は何だというと

これは潜在的なさまざまな現在ですが、

また後述します。

 

まず「MIRACLE WAVE」ですが、

ここでは新しい技能の獲得により、

与えられた「いま」の満足に対する

力強い抵抗が見出されます。

 

つまり現在可能ではないことを

可能にする過程を通じて、

時間的な外部が見出しうるのでは、

という観点です。

 

これも後述しますが、

今のところ機械に対する人間の優位性として

自ら選択し、自分や環境を改変していくという

能力が挙げられます。

 

この曲においては、

千歌役である伊波杏樹さんによって

実際にバク転が披露される

シークエンスがあり、

曲中に大きな反響がありました。

 

f:id:a16777216:20180708223353p:plain

出典:プロジェクトラブライブ!/サンライズ

新しいことを可能にすること。

自分≒内部環境を動的に構築すること。

 

これは機械に対する抵抗のみならず、

単に人間である我々が自生するためにも

重要な動きになります。

 

自らの構築と改変は、

オートポイエーシス的な挙動と

言い換えていもいいでしょう。

 

これを1つの希望とするならば、

作中のアニメだけではなく

技能獲得を現実空間に持ち込むという

リアリティ・身体への回帰を

まさしく体現した希望と言えるでしょう。

 

それも、必然的に当然やるべき課題、

すなわち唯一の最適解へ向かうのではなく、

選択肢の一つとして選ぶ点に、

強い自発性を読み取ることが出来ます。

 

このような決定の自由度についても、

 ゲーム研究やフロー、

 決定論や非決定論を交えた

 多様な議論ができると思いますが・・・

 まあ一旦深入りは後回しにしましょう。

 実践的な意義だけ、後で少し述べます。

 

前述の

『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』

においては、

単に不可能を可能にするという

時間的外部の導入だけでは

不完全だと述べられています。

 

そうではなく、

単に不可能を可能にするのでなく、

潜在的な可能性の1つを可視化すること。

 

この文脈において、

選択肢の1つのしての達成であることが

意味を成し得てきます。

 

この、潜在的な可能性の1つという観点は、

「Awaken the power」において

より強く引き出されます。

 

潜在的な可能性を見据えることは、

雇用のランダム性があまりに高く、

次に何を求められるか分からない

現代市場において、

大いなる意味を持ち得ます。

 

つまり、

偶然・突発的に求められたスキルに

即座に対応できるよう、

いろいろな自分の可能性を温存することで

リスク分散するという話です。

 

動的にリスク分散する生存戦略

過去にもいくつか書いたのですが、

今回のライブによって

かなり具体的なイメージが強まりました。

 

a16777216.hatenablog.com

 

いま・このときの追求と自己組織化的視点

 

人的資本の流動化によって

雇用が不安定になっていることは、

『認知資本主義』を待たず明らかですが、

そのような中で我々の知識・スキルは

どこに蓄積されるのか。

この読解が、上記の認知資本主義によって

恐らく本邦でも最も詳しく

述べられているでしょう。

 

例えば、 業務知識の蓄積場所も、

もはや企業内ではなく

プライベート空間に重きが移っているのでは。

あるいは、

ワインの価値がいい加減にならないためには、

一定の複雑なプロセスが必要なのではないか。

 

こうした私たちの生き方や勤労・消費の関係が

詳しく書き込まれています。

 

私たちは今や、

非常に複雑な情報を、

例えば一企業といった特定の権威のみを

根拠とすることなく、

多数のリソースから選び取る必要があります。

 

こうした中で、

ある意味では生きるヒントさえ与えてくれる、

そう思わされたのが

「Awaken the power」

「WATER BLUE NEW WORLD」

になります。

 

Awaken the power のサビは、

「セカイはきっと

知らないパワーで輝いてる」

という象徴的な文から開始されます。

 

パノプティコン的視点が失効しただけでなく

複雑性の高まりに応じて

唯一の真理・絶対の権威持ちづらくなった

我々に対し、

世界に対しての謙虚な姿勢を示しています。

 

安易な外部の導入を避け、

「眠るチカラが動きはじめる」と

 潜在的な現在に意識を傾けること。

 

これはまさに

『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』

によって示された、

一つの希望ではなかったでしょうか。

 

このように制限を受けた情報に対し、

「始まるときは終わりのことなど

考えてない」として

動的に情報を更新し対応する在り方は、

数理科学的にも合理性を見出せます。

 

特定の収束点を目指すのではなく、

新規情報に対し常に対応を続ける

強化学習

 

あるいは、

時間的・空間的な近隣しか見ず、

モリーを節約しつつも、

それでも全体としてはより複雑な

構造を作り上げる自己組織化。

これらがぱっと思い浮かびます。

 

そして、

この流動的な現代において

いかに自身を適合させるか。

そのヒントは、

「WATER BLUE NEW WORLD」

に引き継がれます。

 

自己物語の通時的構築

 

今がいかに好ましく、

それが重要であっても、

次の何かを探す必要があること

(例えば技術・場所・目標と解釈しました) 。

 

ここまで書いてきた強化学習的な

アプローチは何となく

これまでも認識していましたが、

この「WATER BLUE NEW WORLD」の

力強いメッセージ、

そしてそれを強化する曲調とダンスに、

新しい感覚を埋め込まれました。

 

自分の方針さえも変える程だったというのは

このことです。

 

自分も技術者のはしくれとして、

現在いい仕事をしていても、

常に新しい挑戦は考慮しなければなりません。

 

偶発的なきっかけにも便乗しつつ、

しかし今をなおざりにもせず、

次の展開に向けた鍛錬・学習が

肝要になるのだと痛感しました。

 

もちろんどの選択も偶有でしかなく

それが唯一の正解である保証はありません。

 

しかしそれでも選択し続けることは、

学習し続けるということでもあるでしょう。

 

だから「未来の僕らは知ってるよ

なのでしょう。

 

ミクロな目標だけに左右されず

マクロな目標・選択・一貫性を持つには、

自分の物語を持つことが重要、

という議論が

自己心理学の最先端』によって

なされています。

 

自分自身がどのような選択肢を好むのか。

自分の物語に立ち返ることで、

一貫した姿勢を思い出せるためです。

これこそ、1つの

根拠≒権威と言ってもいいでしょう。

 

また、自己の物語には

もう一つ意義があります。

 

唯一ではない回答に向かって動き、

例え後悔があったとしても、

そのもっと先の未来から顧みれば

新たに意味のある解釈が

できるかもしれない、

ということです。

 

そのようなささやかな

根拠と安心要素を胸に、

これからを挑戦できることが、

私(たち)にもたらされた

もう1つの希望と言えそうです。

 

そして実際、

挑戦をしなければならないでしょう。

個人的な点としては・・・、

あぐらをかきつつあったライフスタイル、

あるいは新しい目標に対する

過度の不安について、

ちょっとした反省を感じます。

 

テクノロジーと向き合うこと。

そのうえで二項対立を克服すること。

唯一の真理がないことを受け入れること。

その上で動的に対応しつつ、

自分の選択と可能性を受け入れること。

今を徹底して追求することで、

結果的に次の目標を浮かび上がらせること。

 

このように、まさに唯一でない方略により

複雑さと閉塞感の社会に対し

抵抗していける。

そのような概念を獲得できたと思います。

 

何万人もを魅了し、

一人一人の挑戦する意欲を掻き立てるライブ。

Aqours はもちろん、

他のあらゆる魅力的なパフォーマンス、

そしてそれらが人々を励ます事態が、

今後も続いていきますように。

 

それでは、ここまでありがとうございました。

 

 

増補 広告都市・東京: その誕生と死 (ちくま学芸文庫)

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ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか

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 @momorin_cloverZ  2018/07/08 最終アクセス

 

 

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