こんにちは。センケイです。
今までで一番泣いたというお声が続出する中で、一介のオタクの自分がはたして、少しでも付け加えて言えることがあるだろうか。このような気持ちに、何度なったことでしょう。
しかし、それでも、書きたい気持ちは抑えられません。今回もやっていきましょう。
勢いを増すために、今回は準備はしないでおきましょう。
キーワードだけ挙げて、すぐに本筋に入りたいと思います。
使うキーワードは「スティグマ」「文脈のついた顔」「デジタルメディアのリアルさ」とだけ予告しておきましょう。
ここから、天王寺璃奈の踏み出した一歩の素晴らしさ、そしていかにそれが私たちを勇気づけてくれるか。これが見えてくるはずです。
人と向きあう璃奈のこころ
ほんとうはクラスのみんなとも繋がりたいが、難しい。
そんな璃奈の気持ちには、一言で言い表せない複雑な思いがありそうだ、ということが垣間見えてきます。
満開の桜を見るに、それはおそらく4月のときのこと。
璃奈は、いちどクラスメイトに話しかけようとしたのに、なぜ「なんでもない」と言って立ち去ってしまったのか。
これは、璃奈が「スティグマ」のうちの一人だと考えることで、より実感を伴って理解できると思います。
スティグマとは何か?
スティグマとは、人であって、知られてしまうと決定的に評価が下がるような素性や事情を抱えている個人のことを指します*1。
が、この話は恐らく、少し進んでから改めてするほうが分かりやすくなると思いますので、一旦謎のままに残しておくとしましょう。
璃奈には、抱えているものが無いわけじゃななかった。それでも、宮下愛たちの心からのケア、そしてライブやスクールアイドルといった心惹かれるものとの出会いを通じて、少しずつ変わっていきます。
ただ、一方的に周りから支えてもらっているだけでは、かえって辛いかもしれない*2。自分が何かそこに貢献できることによってグループに属しやすくなる気持ちは、おうおうにしてあるでしょう。
実際璃奈は、前回の PV 編集の仕事に加えて今回は、ライブの実施を取りつけるというさらなる貢献を、見事に達成しはじめます。
なお、前回の感想でも着目した、ひとりひとりがグループや関係性に新しい特別さを作り上げていくさまは、今回も健在ですね。
そしてわずか1〜2週間の間にも確実に成長していく璃奈の姿。これは他のメンバーにとっても刺激になったかもしれません。
何もかも順調に見えた。
しかしいざクラスメイトに面と向かったとき、思いは潰えてしまいます。
積み上げてきたものがあってなお、表情を使ったコミュニケーションができないことに気付き、「なんでもない」として立ち去ってしまうのです。
自分は変われたかもしれないという一縷の光を見ただけに、この絶望はいっそう深かったことでしょう。胸の締め付けられる場面です。
のちの話を聴くに、璃奈には表情を誤解された経験が過去にもあったのでしょう。
しかしこうも思います。私は表情をうまく作れなくて、とカミングアウトすることは叶わなかったのか。実はここに、スティグマの難しさがあると考えられます。
人と人との関わりを研究していた社会学者ゴフマンによれば、スティグマとなってしまった人は、普通の人の言葉を額面通りに受け取ることが難しいというのです*3。
もしカミングアウトしたときに、みんなが平気な反応をしてくれたとしても、璃奈にとってそれを本心からの反応だと信じることは難しかったのかもしれません。
それがゆえに、璃奈は身を退くしかなかったのでしょう。
「ノーマルがスティグマを自分たちと同じように受容してみせるのが難しい状況では自発的に身を引く」しかない*4。いわゆる普通の人 (≒ノーマル) から普通扱いされないと察したとき、身を退くしかないという重圧が働くのです。
「ずっとそれで失敗し続けてきた」と打ち明ける璃奈の言葉は、重いです。
スティグマの「賞罰・出自・病歴」は、役割を奪い、そしてその人が生きてきた歴史を遡及的に変えてしまうほどに、その人を追い込んでしまうのだそうです。
璃奈は、そうした失敗をする前に培ってきた自信さえも、失ってしまっていたのかもしれない。
そして今回、ガラスに映る自分の表情を見て、同好会と過ごしてきた歴史さえも、打ち砕かれそうになったのかもしれない。
それがゆえに、自分の「普通」を守るために身を退こうとしたのなら、その痛みはどれほど大きかったことでしょう。
それでもなお、このことを自分のせいだとする璃奈には、いじらしいほどの優しさがあります。
なぜなら、「もし、スティグマが自分の受けた仕打ちの不公正さや苦しみを語れば、それは間接的にノーマルを非難することになりかねない」からです*5。
璃奈はそれほどまでに苦しみながらも、人のせいにすることを嫌ったのです。
見つけ出していくデザインと「ほんとう」
少しだけ、ファッションや身体、顔の話をしましょう。
近年、服やアクセサリー、お化粧、髪のアレンジ、さらには美容整形さえも、「自分らしさ」のために行われているそうです*6。
いっぽうで、身体や顔は、つねにすでに文脈や文化の影響を受けていて、ありのままの姿を見てもなお「なま」とは言えないかもしれません*7。
例えば、朝香果林を見て「モデルさんみたい」と思ったとしましょう。これは、モデルという職業を前提としている意味で、やっぱり文化の影響を受けているわけですね。
その意味では、「なま」の顔だからホンモノだとも言い切れないし、「装」っているからニセモノだとも言い切れないでしょう。
璃奈にとって、あるいは愛や同好会のみんなにとって、さらにはクラスメイトやオーディエンスにとって (あるいは私たちファンにとっても!)、どちらも劣らず大切な璃奈の顔なのかもしれません。
もう1つ寄り道すると、果林の「決めるのは璃奈ちゃんよ」というセリフにも、私は1つの優しさを感じました*8。
困りごとのある人に対して、特に意思決定の手伝いをするときは、その人の自由を妨げないように気をつける必要が出てきます*9。
この果林のセリフや、あるいは打ち明けた璃奈にしてすぐにお礼を言う高咲侑の反応は、いずれも困りごとのある相手を尊重するための重要な姿勢に感じられます。
そして、無理強いするのではなく、まずは駆けつけるというサポートもまた、優しいやり方の1つでしょう。
璃奈はそんな同好会のみんなに対して、やっと自分が抱えてきたものを打ち明けることが出来ていきます。
「障害」というラベルを人に貼ってしまいたくないとき、便利な考え方があります。悩みや苦手のない人はいないのだから、人は誰しも困りごとを抱えている、という考え方です*10。
また別の見方として、障害を決めるのは業務や目標という見方もできます。達成すべき目標や基準があるからこそ、それからこぼれることが特別扱いされてしまうわけです。
人が生きづらさを抱えているとき、特別扱いを受けることで生きやすくなれば、まだマシかもしれない。
でもほんとうは、特別扱いを受けずに生きやすくなるのが、一番いいはずです。
工夫でうまく目標を達成できる道があるなら、特別扱いとは違う形で困難から抜け出せるかもしれません。ときに、それが強みにさえ変わることでしょう*11。
人として特別扱いするのではなく、純粋に友人として励ましつつ、目標達成にフォーカスする同好会の暖かさ。そして、主体的に工夫を獲得していく璃奈。
見ていて心が洗われるようなひとときです。
少し飛躍になるかもしれませんが、璃奈が工夫を体得していくとき、以下のシーンも意味があるものに思います。
ダンボール姿の璃奈に抱きつく愛に対して、あたかもそれが自分の身体であるように「恥ずかしい」と言っていますね。
実は上の時点ですでに「装っている自分もほんとうの自分」という気付きを得つつあったのかもしれませんね。
そして、ライブという目標、さらには周りとの良好な人間関係のために、ついに璃奈は一歩を踏み出します。
実はこのライブで璃奈はもう1つ重要な「ほんとう」を見出しており、それがゆえにいっそうこのライブには価値があるものと思います。
テクノロジーの生み出すリアルな時間
璃奈の場合、ついに名実ともに実際のライブを行なうと決意した。その風景がどのように描かれるのか、どきどきしながら見ていました。
これを改めて見つめ直すために、テクノロジーのもたらすリアルさや落とし穴について、寄り道してみましょう。
アニメとしてのライブシーンの演出は、侑や果林、他のメンバーの心象風景として解釈するのが、ひとまずは妥当でしょう。
1回性のできごとだからこそ、衝動的な心象風景がみんなの目に迫っていたかにみえた。
しかし璃奈は、そのリアルさを複製可能なメディアにさえ仕立て上げることが出来たのです。
実はこの時点で璃奈は、テクノロジーのリアルが陥りがちな罠を、すでに1つ乗り越えています。
テクノロジーのリアルというと、現実がそっくりそのまま描かれることが、よく期待されます。
もちろんそれはそれで素晴らしいものですが、私たちはある意味、目で見えている以上のイメージを感じ、「見て」いるはずです*12。
そっくりそのまま描く技術だけに特化すると、この側面は捨象されかねません。
侑や璃奈の素晴らしい点は、この心に描かれたリアルさえも作品に落とし込んでいる点です。
しかも、複製可能なメディアにしたということもまた重要で、これは果林の静かなる情熱を燃やすことにもつながりました。
ですが、複製可能になったことは、また別の疑問を生むことにもなります。
ライブにおいて、一回だけの経験だからこそ得られる「アウラ」なるものは、複製可能になってもなお存続できるのでしょうか。
璃奈がさらに素晴らしいのは、同好会に突きつけられた上の課題さえも乗り越えていく点です。
璃奈は2つの点で、これを乗りこなしていきます。
第一に、璃奈はテクノロジーをある種の AR (拡張現実) として投入することで、その身体を拡張、強化する形で活用しています。
『アイドル/メディア論講義』によれば、このような身体と映像表現との相互作用は、アウラを取り戻す技法の1つだそうです。
第二に、璃奈は顔というメディアを、オーディエンスとお互いにフィードバックし合えるものとしてうまく織り込んでいます。
床面に映る自分の表情を見て喜ぶ璃奈が、オーディエンスの反響を鏡として取り込み、その嬉しさを豊かに表情へと反映していったことは想像にかたくありません。
ここには、デジタルであるがゆえの強みもあるでしょう。
ビット列で表されたこの表情はグラデーションではないがゆえに、なまの表情以上に、表情間の違いをはっきり区別できるものになっている、とも言えそうです。
このため、例えば「にっこりん」という形で、言葉と正確に対応させられます*13。
今や顔というメディアを、言葉と対応させることもできる璃奈は、まさに人と繋がるコミュニケーションを行っていたのですね。
身体とお互いを強めあう映像表現。そして、リアルタイムかつ言葉にも近しい形のコミュニケイト。
これらを通じて璃奈のライブはとびきり、リアルな、1回性のものになったのではないでしょうか。
もちろん、「ほんとう」なのは、そのライブのリアリティーだけではありませんね。
デジタルに表現される表情も、なまの璃奈の表情も、等しく「ほんとう」でありリアルであることを、上で確認してきたのでした。
ふたつのほんとうの表情が重なる瞬間が私たちにとってどれほど嬉しいものであったかは、もはや語るまでもないことでしょう。
璃奈はこのライブを通じて、同好会を新しいステージへと運び、そして璃奈自身もまた1つ強くなります。
璃奈は、ニジガクのみんなが見る人に描かせた、迫りくる心象風景を、なんとほんものの風景にしてしまった。それも、幾つもの意味で。
ライブという公式の舞台においても、あれらの風景が実際に現れるということを、しかも1回性のリアリティーを持つことを、身を持って示してしまったのです。
拡張された身体となまの身体、デジタルな表情となまの表情、そこにはあらゆる「ほんとう」が現れていました。
そして、そのきっかけがスティグマであることの乗り越えであったことにも、心を強く打たれます。
そして、コミュニケーションのスタイル自体を確立した璃奈は、それを持って日常に立ち向かうことが出来ました。ライブを通じて、カミングアウトとは別のやり方を見つけることで、自らのスティグマを乗り越えました。
それも、その場でリアルタイムに描くという、ライブとはまた違った形でのリアルさをともなって。きっとこのことから、微妙な表情の違いを繊細にかき分けていけることでしょう。
目標のために苦手を補い、強みさえ見出していく璃奈のたくましさ。特別扱いせずに手を差し伸べるみんなの思いやり。
そして、目標を乗り越えたことで、日常を生きるすべをも見つけていく璃奈。
この素晴らしい回のことを、私たちはこの先も決して忘れないでしょう。
あとがき
最近はゲームのほうも順調に進んでいる〜、なんていうことも当初書くつもりでいたのですが、この回を見たあととなっては、そんな最近の日常を書くのもなんだか野暮のような気がしてしまいますね笑。
それよりも、人助けをすることや苦手を乗り越えていくことって、こういうことだよな、みたいな点で凄く学びがあって、その姿にきっと多くのかたが勇気づけられていくんだろうな、ということに思いを馳せてしまいます。
苦手なことと得意なことの相性ってあるはずで、人によっては苦手を克服することは、さらにもっと時間を要するものなのかもしれない。
それでも、こうした回が届くことで、励まされるかたがいらっしゃったらいいな、と思う次第です。
そして私たちはだれしも困りごとを抱えているはずです。自分の苦手を乗り越えるために、行き詰まったときには、この回のことをまた思い出せたら。そのようにも思います。
なお、この記事の他にも、「#笑顔のカタチ」というハッシュタグにて、素敵な記事を書かれるかたが多くいらっしゃるはずです。
それでは、ここまでありがとうございました!
またこの回の素晴らしさをお話するような機会に、お会いしましょう。
*2:『コミュニティの幸福論』。
*3:『触発するゴフマン』。
*4:同書。
*5:同書。
*6:『ファッションで社会学する』。
*7:『「からだ」の社会学』の身体の議論や、『ドゥルーズ』のレヴィナスの「顔」の議論。ただし、『「からだ」の社会学』は、むしろ文化から離れた、なまの「からだ」の定式化を試みるという方向性を持っています。
*8:奇しくもここでも、中間の色を持つエマ・ヴェルデと近江彼方が果林とみんなを繋ぐ役目をすかさず果たしており、前回の記事で色のプロットをした甲斐を感じました。
*9:『デザインから考える障害者福祉 』。
*10:同書や、「 #やってみよう当事者研究 」プロジェクトを参考にしました。
*11:『デザインから考える障害者福祉 』では、数を数えるのが苦手で躓いていた人が、数字の書いてある箱によって苦手を克服し、さらには品番管理の点で他の誰よりも強くなったというエピソードが紹介されています。
*13:『デジタル記号論』や『大人のためのメディア論講義』にある記号のピラミッドで言うなら、言葉と対応している意味では象徴的であり、感情という別の何かを指し示しているという意味では指標的と言えるかもしれません。指標的であるとするならば、そのことによってもリアルさが担保されそうです。