こんにちは。センケイです。
考えてみれば、これまで過ごしてきた年月のそれなりに多くは音ゲー、要するに音楽ゲームにお世話になってきたものでした。
そして、わりと いにしえのオタクである自分にとって、音ゲーに夢中になるきっかけをくれたのはほぼゲーセンでした。
これから書いていきますが、その意味では、ゲーセンは自分の人生の中で確かに青春の一つだったのかなぁとも思いました。
そんな自分の青春を成してきたゲーセンあるいは音ゲー。しかしそれらも、しばらく時間が経つうちにずいぶん変わってきたのかもしれません。
そんな中で、今の音ゲーはどうなっているのか、どういうところが自分にとって大事なのかを考えてみたいと思います。
今回はいつもにも増して個人の感想になり、あまり論拠を集めての文章ではありませんが、楽しんで頂けたら幸いです。
音ゲーに触れはじめたころの思い出
あれは予備校に通い始めたころの話。
もともとこういう楽天的な性格なので焦りはそこまで感じていなかったのですが、全くショックではないというと嘘になります。
これから勉強ばかりに集中しなければならないのか、という閉塞感。当時まだそんなに勉強が好きではないふつうの受験生だったため、今までにない思いを感じたのは確かです。
そんな中、自分の心の鉱脈になったのは、その予備校の隣にゲームセンターがあったことです。
ささやかな気晴らしをもたらしてくれたものこそ、ゲーセンと音ゲーだったのです。
不真面目な話ではあるのですが、朝か帰りにちょっと寄っていくか、などと思うことで、授業のやる気もずいぶん出たという覚えがあります。
それを起点に、授業のない日も自習室に通う習慣が出来ていき、結局これが今の勉強する習慣にも繋がったような気がしています。
ちなみに好きでよくやっていたゲームは、今でいう GITADORA シリーズの DrumMania です。
といっても、難易度中くらいのステージをやっと B や C でクリアできるようなくらいで、あまり人に披露できるようなものではないんですけどね*1。
それでも一応、一年間で (最大9台の難易度の曲まであるうちの) 6〜7台の一部の曲までできるようになったので、多少は成長があったのかなと、自分で自分を誇れる小さなネタの一つにはなりました。
自分がプレイしていないときでも上手い人のプレイを見たり、ちょっと並んで待ってたりしているうちに、段々とゲーセンの中にも友だちが出来ていきました。
SNS が流行りだしたころに連絡先の交換をしそこなっちゃったもので、今でも続いている仲があるわけではありません。が、当時それほど友だちの多かったわけじゃない自分としては、ずいぶんそれで充実感を覚えられたものです。
たまたまご縁があって、百秒*2をクリアできるようなゲーセンの猛者が自分ちに遊びに来てくれて楽器を披露してくれたということもあり、あれは嬉しかったですね。
そうやって友だちも出来るような場だということを思うと、ゲーセンも一つのアジールというか、学校とは別の若者の避難所、あるいは「居場所」なんだよな、というのを痛感するわけです。
このあたりの話は、加藤裕康さんの『ゲームセンター文化論』を読んで、後でまた続編を書きたいですね。
ゲームの話に戻ると、まあ何しろ音楽のゲームですから、音楽そのものも、自分を支えてきてくれました。
なかでも「Utopia」という曲の、「出会うものすべてが道標になるんだね」という歌詞の影響は大きかったです。
浪人して少し遠回りしたことにも、意味があると感じたり。進学後に上手く行かなくて悩むときにも、これはきっと後で意味を持つからと思えたり。
希望を持って前に進むことができるような、心に残るフレーズになったことは確かです。
当時たしかこの曲は難易度低めの4台だったはずで、そのためもあってか、あまり皆が遊んでた曲という感じではありませんでした。なので、最新の筐体ではきっと廃止になってるのかな、などと思いながら懐かしくサントラを聞き返したものでした。
いつの間にか変化していた音ゲー
それにしても音ゲーとは一体何なのか。いったいどういうユーザーにウケるものなのか。
何の本で読んだか忘れてしまったのですが、ゲーセンというのはオタクとヤンキーという異なる層が相まみえる不思議な場所だ、みたいな話を聞いたことがあります。
その意味では、まさにそうした層がメインターゲットになる遊びの一つが音ゲーであったのでしょう。
あるいは経験上、BEMANI について言えば、オタクというほどオタクでなくても、PC やプログラミングに強い人はたいてい一時期ハマったことがある、という傾向を感じています。
そう思うとなるほど、ニコニコ動画のメドレー的なノリはこの辺と繋がっているように思えてきますね。
『ソーシャル化する音楽』などをパラパラとめくりながら考えてみれば、音ゲーというのは音楽にユーザーが参加する形態の一つなわけですよね。
アレンジ曲やボーカロイド用に書いた曲を公表する、あるいはゲーム内でアイドルをプロデュースするという音楽への参加も、ジャンルとして近くにあるような気はします。
さて、ゼロ年代後半ごろはしばらく、地理的にゲーセンに恵まれないような陸の孤島に住んでいたため、しばらく追えてなかった時期があります。
しかし10年代に入ってみると、スマートフォン向けゲームとして音ゲーが随分と普及して見せ、気がつけば、音ゲーの位置づけも、プレイ人口の多さも幅も、ずいぶん様変わりしていました。
スマートフォン向けについては、家で、無料で、しかもゲーム専用の機体を買わずに出来る点はずいぶん影響したことでしょう。
ゲーセンに通わないかたでも、あるいはオタクというほどガッツリオタクではないかたでも、潜在的に音ゲーのファンになりうると踏んだ会社たちは賢いと思います。
興味深いのは、プレイヤーの属性です。
ゲーセンの音ゲーユーザーにせよ、あるいはラブライブ!のライブ会場にせよ、目視で見る限り 80 - 85% くらいは男性*3であったと思うのですが、にもかかわらずスクフェスに関しては2015年当時、おおむね男女比半々という報告が見られています。
アイドルマスターも恐らく近い状況であったことでしょう。
直感的には、相対的に熱心なファン*4は男性が多い*5のに対して、ライトなファンも含むと思しきアプリのユーザー層はその限りではない、ということでしょう*6。
かりに上の仮説が正しいなら、面白いことに、音楽に対してより踏み込んだ姿勢をとっていたかに見えた音ゲーが、むしろ音楽に対してライトな付き合いをする位置づけに変わった、ということになりますね*7。
さて、そんななか、ゲーセンの音ゲーは競合に対して勢いを失ったのでしょうか?いえ、ゲーセンも黙ってはいません。
気がつけばゲーセンにも、熱心に打ち込むタイプでありながらにしてより広いユーザーにリーチしていると思しき音ゲーが、ずいぶん増えていました。
Wikipedia の「音楽ゲーム」のページの言葉を借りるなら、「音楽を題材にした全身で味わえる体感ゲーム」が増えた、とみるのが妥当でしょう。
また、スマートフォン向けゲームからゲーセンへの揺り戻しもあります。
例えば秋葉原のセガでは、登場人物がシンボル的な存在として掲げられているときも多くあり、コラボカフェも実施されています*8。
なお、ニコ動からの揺り戻しもありますよね。ボカロは『初音ミク -Project DIVA-』になりましたし、東方ボーカルアレンジのバンドとしても知られている「豚乙女」による楽曲提供も、筐体のある音ゲー全体に幅広くなされていますね。
さて、自分が理解する限りでは音ゲーは、家庭では気軽にアクセスできるゲームとしてが受容され*9、ゲーセンでは本気で挑む対象でありながらも、体験の幅を広げより多くの潜在ユーザーをとりこにしてきた。このように推移してきたのではないでしょうか。
その場におもむくことの意味を考える
辛いニュースなので見ないふりをしてきましたが、やっぱり意識してみれば、このコロナ禍において苦境に立たされているゲーセンも少なくないようです*10。
そんな中、応援したい気持ちも出てきますが、それ以上に、やっぱりその場におもむくことでしか得られない価値があるよな、ということが頭をよぎります。
こんな状況下ですから、大声でしゃべる事はやりにくい。その意味で、友だちができるという居場所としてゲーセンを見ることは、あるいは難しいかもしれません。
それでも、暗黙の了解、あるいはプレイを見たり見られたりするといったコミュニケーションが成立していると言えなくもない*11。
個人的には、自分と同じ趣味に打ち込んでいる人たちを見るとき、それに刺激されたり、自分はひとりじゃないなと実感させられたりもします。
それに、ある機会から都心のあるゲーセンを訪れたとき、そこには若者のかたがたの元気な姿があって、やっぱりここはなくなっちゃいけない場所だ、というのを感じた次第です。
ゲーセンでは、マスク義務付け、手指消毒、扇風機による空調やカーテンによる飛沫遮断など、多くの努力がなされていました。
それで、通勤路にあるゲーセンだけを利用することで偶然出会う人の幅をせばめたり、朝の人の少ない時間帯だけ訪れたりすることで、なんとか安全に気を配りながら時々足を運べたらな、と思った次第でした。
それにやっぱり、「全身で味わえる体感」や、あるいはより昔ながらの「楽器をモチーフ」*12にした体感、あるいはサウンド、臨場感は、現場でしか味わえない貴重なものだと思うのです。
もちろん、行ってみたときに既に誰かがプレイしていてぐぬぬと思うときも決して少なくはありません笑。でも、それがあるからこそ、1回1回のプレイの貴重さを感じられるようにも思うわけです。
再び、音ゲーを考える
最後に、コロナ禍でちょっと足を運びにくいからこそ、どうやって攻略するといいのか。これを考えてみましょう。
たゆたうように、それとなく
エンカウンターする潜在的な人数を減らすためにも、頻繁に通うよりは、少ない頻度で、いちど訪れたときに繰り返しやるのがベターでしょう。後ろに誰もいないのを確認して、よし、もう100円!
誰か既にプレイしていたら、諦める。そうすれば、密に人が集まるのをなるべく防げますし、バツの悪さも感じないですみます。
こころなしか、自分がプレイしているときに、やりたそうにしているかたが後ろに並ばないでくれることが多い気がしており、自分の醜態をさらさないためにも、助かっています。
今ではそれが暗黙の了解なのかもしれませんし、あるいは優しさだったのかもしれません。が、いずれにしても、誰かがやっていたら諦めて、お茶したり美味しいものを探したりしながら帰るっていうのがさわやかという気がします。
上を実現するためには、状況が許せば、平日の朝活がベストなのかもしれませんね。
自分を信じて、機械を信じて
頻繁に通えないということは、毎回、感覚を取り戻す事からやらないといけないということになります。
最初の100円分ではどうしても、テンポがずれたり、スネアを叩くはずがリムを叩いてしまっていたりと、もろもろの理由でめちゃくちゃ乱れます。
でもこうやって原因を書いてみると、もし自分が乱れている理由をすぐに察知できるなら、なんとか立て直せるはずだと思えてきました。
「おや、何かがおかしい」と察したとき、もし慌てて沢山の原因の候補を思い浮かべてしまうと、原因が特定できるまでに2秒かかるとしましょう。この2秒は音ゲーにとって致命的です。
これは半ば自分に対してのエールですが、2つの候補だけに賭けましょう。
機械はカンペキに作動していて、接触が悪くはないはずだ。調子のいいときの自分なら、一瞬体力ゲージが減っても、すぐに回復できるはずだ。
マズい箇所があるとしたら、テンポか叩き方かのどちらかだけに違いない。
実際、テンポさえずれておらず、かつ自分に自信を持って叩けていれば、万が一多少の接触不良があっても (後からもう一度同じゲーセンを訪れる限り、接触不良だと思っていたのはだいたい自分の勘違いによるものでした)、致命的にはならないことが経験上多かったはずです。
結局一番恐ろしいのは、自分や機械を疑い始めたがために、テンポや叩く箇所のズレを、修正できないでしまうことです。
音楽なんですから、リズムにノらないとダメなのです。
もちろん、他に人が現れない限り、200, 300円目から本気出すのも重要な判断ではあります。曲としても、最初から9曲とか12曲とかやるつもりで、最初の3曲程はほんとうに肩慣らしからやり直すのはいいアイデアかもしれません。
しかしいずれにせよ、上で書いてきた実践は、無駄にはならないでしょう。
(実際、ようやく感覚が戻って6台の曲が1つ2つ出来てきたので喜び勇んでいたら、また明くる日に肩慣らしにやったはずの5台前半の曲、それも昔散々 ADVANCED でやった曲の BASIC 版ですらパニックになってクリアできず、そうこうしているうちに誰かが来て…ってなり、これには流石にしょんぼりしました笑。こういうフラストレーションを抱えないために、頑張れ私!)
そもそもといえば社会人である身、なかなか足を運ぶチャンスは多くはありません。
一回一回のプレイを大事にするために、(Yes!) 自分を信じて*13、やっていきましょう。
目的に即したシミュレーションを
下の階に響かないようにしつつ家で練習するのもいいアイデアです。とりあえず自分のふとももなどを叩いておけば響く虞は限りなく削減できるでしょう。
しかし怖いのはこれを過信しすぎて実機とのズレを大きくしてしまうことです。
ふとももを叩くのはいわばシミュレーション。
実データで学習する代わりにシミュレーションで学習するとき、一番気をつけないといけないのは、シミュレーションでの学習結果を実データ反映できるようにすることです。
シミュレーションとリアルワールドとのズレは常に意識しなければなりません。
右手と左手の動かす順番、あるいはスネアとハイタム、ロータムの3つくらいの位置関係なら練習できても、より全体的な位置関係の慣れについては、別の工夫を考えたほうが良いかもしれません。
あとがき
ほとんど個人的な話ではありましたが、いくつかのできごとをきっかけに、これは何か書き残しておきたいと思い、文章にしました。
まずは、上で述べたようにあるときゲーセンを訪れて、「あっ、ゲーセンって良いな」と思ったこと。
そして、上で思わせぶりに書いた曲 Utopia ですが、なんと実はこれが予測に反して現役機に生きており、それで気持ちがときめかされたこと。
当時歌詞に救われたある曲、めちゃ評判の曲というわけではなかったけど、今でも難易度が上がって生き延び続けてたのが有り難かったな。
— センケイ (@a33554432) December 4, 2020
それを毎日のように聴いたり遊んだりしつつ、予備校でもゲーセンでも仲間ができてお喋りしていたのは、あれは青春だったのかもしれない。
予備校仲間もゲーセン仲間も疎遠になって当時を思い出す機会が減ったものですから、あの頃を思い出すきっかけはほとんど無くなっていたのでした。
しかし、奇しくもこの出来事が橋かけをしてくれ、あのころ過ごした時間が自分の中でふいに蘇ってきたのです。
気づいたら自分の中で大きなウェイトを占めていた、音ゲーを大事にしていきたい。
音ゲーと出会ってきた、ゲーセンを大事にしていきたい。
そして、その中で出会った、巡り合うこと1つ1つ意味があるんだっていう考えを大事にしていきたい。
今まででは考え難いような2020年になりましたし、これから先どうなっていくのかも分かりません。それでも、起こってしまったことは、それぞれ何かしら意味のあるものだと思って、足がかりにしていきたいものです。
時には起こるネガティブなことも、反省できることは反省しつつ、避けられなかったことは、それでも何かを見出しつつ。そしてもちろんポジティブなことも。
それでは、ここまでありがとうございました。
また、音楽と触れ合うどこかで、お会いしましょう。
*1:今だから思うのは、人と一緒にゲーセンに行く機会があるなら、ギリギリできる曲を B や C で越すよりは、もっと簡単な曲を A や S で越すほうが、多分まだしもサマになるだろうな、ということです。
*2:The Least 100sec という有名曲です。
*3:今まで注意深く書いてきたように、性別はかんたんに二分できるものでもありませんが、今回は便宜上男性、女性という二分にて議論します。
*4:こちらも、時間的、地理的、その他もろもろのつ都合でライブに来れない熱心なファンもいらっしゃるはずですから、便宜上の表現になります。
*5:潜在的にゲーセンやライブ会場に来たい女性がいらっしゃっていても、歴史的経緯で男性が多くなっているために、様々な理由で参加しにくくなっているという可能性もあります。遠からずの事例ですが、『ポスト〈カワイイ〉の文化社会学』では、ロック市場への女性の参加のしにくさについて説明があり、参考になります。
*6:2015年の μ's の劇場版や、2016年のファイナルの LV では、ライブとアプリの中間の敷居の高さなのか、目視で男性が 70% ほどであったと記憶しています。
*7:見ようによっては、音ゲーが巡り巡って東京ドーム公演を行なうアイドルグループに繋がった、とも読めます。ここでもなかなか興味深い議論ができそうですが、またの機会に。
*8:スクフェス AC については、最終バージョンアップのお知らせもあり、現時点では判断を保留することにしましょう。
*9:もちろん、かなり繰り返し練習する必要のある高難度の曲もあります。
*10:例えば、ゲーセン閉店相次ぐ コロナで苦境、セガは運営撤退 - ITmedia NEWS。
*11:『ひとり空間の都市論』は、ネットカフェにおける暗黙の儀礼について議論しています。