特別なあなたの顔、唇、そして絶妙な関係 アニガサキ11話感想

こんにちは。センケイです。

 

さて、スクールアイドルフェスティバルに向けて動く高咲侑と、上原歩夢から見た高咲侑とのギャップがますます大きいものになり、一言でうまく全体を捉えようとするのが難しくなってきました。

 

それでもあえて手がかりを探ろうとするなら、顔、あるいは関係性の多様さから考えるべきでしょうか。

 

今回はいつもと違い、「自分はこう理解した」という書き方というよりは、「こういう理解やああいう理解もあるかもしれない」と広げっぱなしになるかもしれませんが、それでも筆を進めていきたいと思います。

 

それでは第11話もよろしくお願いします。

 

 

顔から見る、他者のはかり得なさ

 

この11話においては、相手の顔をはっきりと見ることのできない描写が、幾度か登場します。

「顔」についての学術的な議論はいくつかありますが、はっきり見ることができないという描かれ方は、レヴィナスの議論に近いと思います。

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出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 11話/©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

レヴィナスに言わせれば、顔は決して自分の主観では理解しきれないものであり、法外な何かなのです*1

確かにそもそも、相手の顔をはっきりまなざすということは、難しいことです。なぜなら、相手が自分に向けるまなざしと、自分のまなざしとが交わり合うということですから。そこに現れる気まずさゆえに、顔をはっきりと見るのはそもそも難しいわけです。

 

これをレヴィナスに言わせれば、「他者のまなざしは、私のまなざすものに穴を開け、イメージを引き裂いてしまう」というわけです*2

 

副会長の理解を越えた中川菜々、副会長の全く知らない新しい側面を見せる菜々は、まさに画に穴が開いているかのように目を隠しています。

面白いことに、副会長が菜々を理解した (と思い込む) ときに限って、副会長の視野からもそのまなざしが見えるようになるのですね。

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出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 11話/©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

副会長に理解され尽くそうになった菜々はときに焦りを見せます。しかしここでは結局副会長は、菜々をほんとうに理解し尽くすには至りません。副会長は菜々を優木せつ菜本人ではなく、優木せつ菜のファンだと誤認します。

 

仮に副会長にその正体が本人だとバレた場合、卒倒するのはむしろ副会長のほうでしょう。

その意味で、やはり菜々という他者の顔は圧倒的で、「法外」なものに違いありません。

 

ところで、副会長は早くも、まだ会ったこともない (と思っている) せつ菜を「ちゃん」付けで呼びます。つねに敬語使いを維持しているだけに、意外な呼び方です。

そう思うとせつ菜は、あたかも近い距離に居るようにみんなに感じさせる、そんな人物 (あるいは人格) なのかもしれません。

 

そう思えば、侑がせつ菜に対して行なう「ちゃん」呼びも、「特別なあなた」への親しみではなく、「みんなにとってのあなた」、いわばキャラクターとしてのせつ菜に対する親しみなのでしょう。

みんなと近いせつ菜。しかしその近さが、歩夢に「特別なあなた」としての近さだと誤解され、それで侑との齟齬を生まれてしまったのでしょう。

 

いちキャラクターとして人と接することに慣れているせつ菜は、全人格で接し相手にも全人格を求める歩夢とは、やはり対照的です。

 

 「特別なあなた」の顔の意味

ここまで、他者の顔は法外なもので、決して主観で汲み尽くせないということを述べてきました。

 

さてでは、そのような意味の「顔」と、「特別なあなた」と言える親密さとの間には、何か関係があるのでしょうか。

 

実はレヴィナスは、「特別なあなた」と言える愛≒親密さの場こそが、「顔」の現れる場だと言っています*3

 

親密さを持ち込まない完全に公共な場では、他者は特別ではない誰かになってしまうでしょう。

これに対して、愛の場では他者は、具体的な「特別なあなた」として現れてくる。そのとき、他者は「わたし」の理解を越え、「わたし」の生活や自己理解を揺さぶってしまうというのです。

 

副会長にとって菜々がそうであったように、いやそれ以上かもしれません、侑にとっての歩夢は「特別なあなた」、特別な他者として現れたのでしょう。そして侑の地平を揺さぶったのでしょう。

このためか、いっそう画に穴が開いたように、その顔が不可視のものになっています。

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出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 11話/©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

これまでも、みんなの居場所としてあり続けるために、高い公共性を維持してきた同好会。

スクールアイドルフェスティバルの準備が始まり、その公共性はさらに高められる必要が出てきたことでしょう。

同好会、とりわけその中心人物である侑は、他校をも巻き込むために、「特別なあなた」ではない他者、「みんなのあなた」としての役割を発揮しなければならなくなったのだと思います。

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出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 11話/©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

ただし、これまでの同好会でもそうだったように、ほんらい、公共性と親密さは必ずしも相反するものではありません。

実際、侑の発言からは、歩夢を特別な存在だと思っていることがうっすらと感じられます。上で見た画も、個人的には、歩夢を特別視していることを示唆しているように思います。

しかし、侑が歩夢に見せる姿と、歩夢の理解との齟齬からか、歩夢は侑が「特別なあなた」を見せてくれなくなったと受け止め、わだかまりを抱えていきます。

 

 

唇に見られる多様な関係性

 

さて、この11話を受けて、歩夢から侑への感情は恋愛感情ではないか、とか、恋愛という言葉だけでは言い尽くせないまた別の特別な感情なのではないか、あるいはその間を取るような感情ではないかといった議論が、盛んに行われていたように思います。

 

個人的には、間を取るという考え方を支持したいと思います。そもそも関係性の感情にはいろいろなものがある、としつつ、完全に恋愛になる感情とまったく恋愛にならない感情の間にも、いろいろなレベルの恋愛観があるものと考えてみたいです。

 

関係性についての多様さのヒントになるような話を参照しつつ、同時期のアニメの描かれ方とも比較して、関係性を考えてみましょう。

 

以前書いた日常よりの記事でも参照した、2020年1月のある対談イベントが、特にいろいろなヒントを与えてくれると思います。

wezz-y.com自分は実際にこのイベントに参加したのですが、そのとき特に印象に残った言葉があり、幸いそれが記事にも書かれているので、引用してみましょう。

そもそも友達の中にもいろんな関係性があるのに、それが「友達」という一つの言葉にまとめられがちでしょう?家族・恋人・仕事関係の人以外のそれなりに仲良い知り合いは全員「友達」になってしまう。そこに違和感がある。 私は、「友達との関係性に名前をつける」というのをやってみたりしてる。

 確かに、友達や恋人といった名前だけでは、ほんとうは色々あるはずの関係性をうまく表現できないでしょう。

きっと、関係性というのは、名前にされていないだけで、色々な形があるはずなのです。

 

そして、恋愛と恋愛じゃないものの間の境界についても、以下のような議論をされています。

「惚気る」って行為は恋愛の特権かなって私は感じてる。でも、別に友達との関係性や友達の可愛い一面についても惚気たっていいはず。

 友達だけど、のろける。こういうのもアリなんだと考えてみれば、恋愛と恋愛じゃないものの間にも、無数の関係性があっておかしくないように感じられてきます。

 

 

さて、恋愛か恋愛じゃないかをめぐる境界の中にもいろいろな関係性がありうる、ということを確かめるべき、同時期放送中の他のアニメ含め、描画のされかたに着目をしてみましょう。

流石にあらゆるアニメを把握できてはいないので、ちょうど追っていたものに偏ることをご容赦ください。

 

その前にまずは、アニガサキの描写も改めて確認してみましょう。

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出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 11話/©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

こと口元の描かれ方については、線は簡素に書かれていますが、その輪郭ははっきりとした唇の形になっており、下唇のハイライトによってさらに形が強調されます。

 

ここで、ラブライブ!に関する記事も多数寄せられているユリイカのアイドルアニメ特集号からも、ひとつヒントを探してみましょう。

 

泉信行さんの記事によれば、美少女の描画のなかで形の情報量が増えるとき、それは他者一般ではない特別な他者、その人しかいない他者を表しているといいます。

 

形の詳しい描写を伴うことで、侑が唯一無二の存在として描かれる。侑がそのような存在として描かれることは、歩夢の立場を考えても、作品のこれまでの流れを考えても、納得できるものです。

 

魔女の旅々』においてある関係性が接近する場面では、アニガサキと近しい唇の描かれ方がなされています。

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出典: 魔女の旅々 11話 / © 白石定規・SBクリエイティブ/魔女の旅々製作委員会

ネタバレ防止を考える以前に、場面の状況が複雑で説明が難しいため、詳細は割愛します。しかしエッセンスだけ述べるなら、魔女の旅々におけるここでの関係性もまた、歴史のある、唯一無二の関係性といえるものです。

 

さて、アニガサキの侑と歩夢の関係性も、幼馴染としての唯一無二の関係性でした。

ここで見てきた顔の描かれ方はいずれも、形の情報量を増やして「特別なあなた」を強調しているという意味で、その関係性と整合しているのです。

 

ところで、魔女の旅々では、唇が着色され、色彩と線に力の入っているカットもまた現れますが、色彩と線については以下で述べていきます。

 

 

続いて今度は、『安達としまむら』における描写を見てみましょう*4

形よりも、色彩に力点が置かれています。

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出典: 安達としまむら 5話 / ©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会

ここで、色彩の情報量は、線の情報量の一種だと思うことにしましょう。

実際しまむらの顔の描かれ方は、まぶたなどを見ても総じて線の情報量が多いため、これはあながち間違った解釈ではないでしょう。

 

さて、泉信行さんによればこのように線の情報量が多い場合、思い入れの強さ、あるいは美しさを表しているというのです。

 

ネタバレしない範囲で言うならば、安達としまむらの関係性は、確かに出会いも偶然で、しまむらが安達に対して何気なく「何で私なの」、と述べるような間柄です。

少なくともこの時点ではまだ、唯一無二というよりは、純粋に美しいと思い、そして純粋に思い入れを込めるような側面が強いのかもしれません。

だからなのでしょうか、形で唯一さを強調する以上に、色彩や線で美しさと思い入れとを強調しているように思えます。

 

さて、魔女の旅々について改めて言うとすれば、唇の色彩が急に強調されるカットは、こちら側からみて急に美しく見え始めた、ということを表現しているではないでしょうか。

また、安達としまむらにおいても唇の着色の強さが変化していきますが、これも同様の意味を持っているのかもしれません。

 

 

さて、このような形や線の解釈がシチュエーションに一致しているのも、もちろん偶然という可能性もあります。

ただここで言いたかったのは、恋愛を彷彿とさせるような幾つかのカットを抜粋して比べてみると、その描かれ方は一枚岩ではなく、そして、変化するものでもある、ということです。

それはいずれにしても、関係性に多様なパターンがあり得ることを示唆しているように思えるのです。

 

恋愛と恋愛じゃないもののすきまに、多種多様な間柄の可能性がある。さらにそれは、そのときどきに応じて形を変えていく。そのように考えてみるのが、むしろ面白いのではないかと思うのです。

 

ラブライブ!特集が行われた同人誌である『アニバタ Vol.15』においても、「恋になりたいAQUARIUM」について、恋愛とも恋愛でないともはっきり示されないからこその良さがあるとする論考があります。

 

はっきりとは示されないそのスキマのありうる間柄について、ああでもない、こうでもないと思いを巡らせる時間を大切にしたいですね。

 

 

いずれにせよ、特別なあなただからこそ、お互いが見えない、理解しきれないようになってきている侑と歩夢。

 

二人だけの仲はどうなってしまうのか。そのお互いの大事さを確かめあえたとしても、それが同好会やフェスティバル全体のなかでうまく着陸できるのか。

 

少し期待できるところがあるとするならば、歩夢もまた少しずつ、「侑の知らない歩夢」として過ごすことを楽しみつつあるということ。

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出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 11話/©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

もし、お互いに、自分の知らない相手の喜びを喜ぶことができたなら。その関係性はまた一歩進むことができることでしょう。

 

二人、そして同好会のこれからに、ますます目が離せませんね。

 

 

あとがき

 

はたして、その公共性と愛は折り合いがつくのか。

実はレヴィナスの話には続きがあって、彼は、他者の顔は現れる場所こそ親密さの中だけれども、その「位置」は「公的な次元」にある、と言ったらしいのです。

 

特別なあなたが乞うてくるまなざし。しかしそれに応えることは、結果的に皆に役立つものになっていく。私が理解する限り、レヴィナスはそのように考えていたようなのです。

 

アニガサキにおいても、歩夢という特別なあなたの願いに応えることが、普遍的な正義になっていくのでしょうか。そうだとすれば、これまたなかなか同好会が社会の縮図になっているような感じがしますね。

 

 

また、言いづらいことですが、11話終盤の描写についてはいちおう、ちょっと心配だ、ということだけ言わせてください。

その描写は確かに大変技術巧みなもので、かくいう私もかなり心を動かされた手前、「あれはちょっと…」と否定する資格を持ち合わせていないと思います。ただ、心配だけはさせて欲しい、そのように思った次第です。

 

では何についての心配か。

ご存知のようにこれまでアニガサキは、人間関係のリアルや、あるいは自分の特性に悩む少女たちが努力して解決していく姿を描いてきており、これは多くの方に希望を与えるのではないか、と思えるものでした。 

特に、少女たちのお互いの助け合いに見られる連帯が描かれたり、自分の特性が理由で不利な状況にあった少女の問題解決が描かれたりしている点で、なるべく多くの人が、性別や年齢を越えて、勇気をもらえるような作品になっている。このように考えられます。

それは、特定のフェティシズムに寄せた官能的な表現が少ないことによって、いっそう補強されてきた側面だと思います。

そうした今までの流れと比べて、方向性が変わってきたことについての心配があったのです。

 

もちろん、官能的な表現がそれすなわち良くないというわけではありません。それはどのような人々から期待を寄せられているか、これに依るでしょう。

しかしアニガサキの場合、ほんとうに幅広い層の人から期待を寄せられていてもおかしくない。そして希望を与える可能性が高い。そういうアニメとして歩んできていると思います*5

 

そんななかで、期待を寄せてきたファンが、押し倒すカットなどを通じて、あるいは過去のトラウマを思い出すようなことがあるかもしれない。そのような懸念が頭をよぎった次第です。

前に述べた『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』から察するに、過去にトラウマを持つようなかたは、きっと少なくはないのです。

 

杞憂であればよいのですが、一応考えておきたかった点でした。そういう考えもあるのか、と、念頭に置いて頂けたら幸いです。ファンの皆がいろいろな解釈で作品を見ることをしていけば、もしトラウマを持つようなファンのかたがいらしても、そういうかたにとっての居心地が改善されていくのではないか、と思いますから。

そしていずれにしても、このアニメが誰しもにとって希望になるアニメに、これからもなっていきますように。

 

 

さて泣いても笑っても、従来どおりの13話構成であれば、残すところあと2話分となってきました。

楽しみでしょうがない一方で、終わりが来てしまうことが寂しくそしてちょっとだけ怖くもあります。

しかし時間は流れるもの。それでも巡ってくるからには、全力で楽しみたいですね。

 

 

それでは、今回もありがとうございました。

めくるめく季節とラストスパートで、またお会いしましょう。

*1:ドゥルーズ

*2:同書のこの文は、レヴィナスを引用して書いているものではありませんが、恐らくレヴィナスの考えを噛み砕いて説明したものと考えられます。なお、太字化は私によるものです。

*3:さいきんの私の記事ではおなじみ、『モダニティの変容と公共圏』より。

*4:あれ、チョイスが近江姉妹…?

*5:なお、ライブ会場等では見えにくいですが、最近書いた音楽ゲームの記事で引用しましたように、2015 年時点でのスクフェスのユーザーはほぼ男女同数で、あえて言えば女性のほうが多い、という報告がされています。コミックマーケットでも近年、ラブライブ!は男女両方向けと分類されており、有り難いことに、実際に性別を問わず愛されているシリーズと見ることができるでしょう。だからこそ、性別を越えて皆が肯定できる描写の仕方は、重要になるものと考えられます。