自分が心の動きを振り返ったり、フォロワーさんのご感想を拝見したりしていると、スーパースター!! には以下のような傾向があるんじゃないか、と思えてきます。
スーパースター!! は、身に起こった体験に訴えかけてきがち、と。
スーパースター!! の感想はドキュメンタリーの様相を帯びるといっても過言ではないのかもしれませんが、ともあれ、この第10話はあまりにも自分の経験に訴えかけてくるようなものでした。なので、今回も文を書かざるを得ません。
改めて考えてみれば、自信が出るっていうのがどこからやってくるのかはよく分からないし、難しい問題だなと日々思うところです。
さて、自信と一言で言っても、自尊心、自己肯定感、自己効力感など、いくつか互いに異なる言葉があります。
この10話における自信は、「自分にはできる」という感である、「自己効力感」が近いのではないでしょうか。
自己効力感という認知は大事なもので、『メタ認知で〈学ぶ力〉を高める』では、「「自分にはできる」と考えると、やる気が出る」とあります。
いやでも簡単に出せるなら苦労はしませんね笑。同書では、「自己効力感を高めるには、「うまくいった」という過去の成功体験が役に立ちます。」とありますが、平安名すみれは、まさにこれがないために、自己効力感を持てずに来たのかもしれません。
大好きなタイプの本を間接的になじる感じになってしまったので、擁護しておきますと、『メタ認知で〈学ぶ力〉を高める』ではさらに、「小さなことの積み重ねが大切」「自信のない人にとっては特に、必ず成功する小さめの目標を立て、一つひとつ達成していくことが大切」と、とても実践的な対応策があります。
スクールアイドルの一員になることや、センターでなくても1つのライブを完遂することは、これに相当していたのかもしれません。4話にてスクールアイドルを「やりたいと思ったときから、きっともう始まって」いたのかもしれません*1。
(よく見たら背景の書き込みや木漏れ日の反射など、画のクオリティが凄いですね)
さて、『メタ認知で〈学ぶ力〉を高める』を挙げたついでにもう少し拾っておくと、あせるすみれの気持ちが逆効果になっているような知見も得られます。
例えば、「評価ばかりを気にすると学習における新たな挑戦意欲が低下する」。いや、まったくもってその通りです。分かる、分かりますよ。
でも、自分が評価されないとき、抜擢されないとき、希望の場所に行けないとき、なぜか (自分だけが) 他の人のようにはいかないとき。そういうときって、ど〜〜しても評価を気にしてしまうではないですか。
本当は自分を伸ばすことに着目すべきでも (←も同書の受け売りです)、こと、抜擢されるような物事については、余計に人と比較したくなってしまうのではないでしょうか。
自分の努力をよそに他の人も密かに努力していたり、あるいは何か謎の偶然が弾みとなったりして、いずれにしても自分が把握していない何らの働きで、自分は枠から外れてしまうわけです。
これからも上手く行かない気がし、それゆえ評価を気にし、なにかの弾みでいざ選ばれても、何となく恐れをなしてしまう。痛いほどシンパシーを感じてしまいます。
ここですみれの素晴らしいところは、役目に報いようと、事前に最大限の努力をして備えていること。自分にはこういうことは出来なかったな…。
やっぱりダメかもしれない。センターを撤回されるかもしれない。きっとそういう不安もあったことでしょう。今まで上手く行かなかっただけに、そう思ってしまう呪いは重いです。…それでも一縷の希望を胸に、肯定的になって、その肯定感を軸に一生懸命努力しているすみれ。すでにかなり胸に刺さるものがあります。
この時点でもう十分すぎる素敵さで、優勝!頑張ってほしいな、皆にその勇姿を知ってほしいなって。
だからこそ、そこからの展開はあまりにも辛くて。
葉月恋の加入を見届けた結ヶ丘は、恐らくは Liella! を応援している仲間であるはず。いやそうであるはずなのです。Liella! は学校の「結」、そしてそれに込められた想いを引き継いで付けられた名前。澁谷かのんらがそのようにするくらいに学校の皆はご縁がある。文化祭の準備も一緒に行い、Wish Song を祝福の目でもって見ていてくれていたではないですか。
その仲間からやめたほうが良いという声が出るというのは、あまりにも重い現実です*2。よかれと思ってそのような意見が出ているのです。
自分を信じることでメンバーや学校に貢献するか。周りの意見を採用することでメンバーや学校に貢献するか。今まで上手く行かなかった経験からか、すみれは自己犠牲を受け入れてしまいます。
身を引くことを決め始めたすみれにとっては、センターはもう過去の事実。もう少しで手が届いたはずの光。
それを最初に制しようとするのは、意外にも唐可可でした。
すみれに対して今まで当たりの強かった可可。その真っ向から否定してくる姿勢が、一転して応援に変わるところに驚かされました。
「誰が何と言おうと関係ありません!センターをやるべきです!」という言葉の頼もしさ。
その口調の強さからは、慰めや慈悲が感じられるわけではありません。でもだからこそ一層すみれに響くことになってくるとは、このときは予想していませんでした。
あとで分かるように、思いやり以上に勝利のためからすみれを鼓舞した可可。しかし、すみれが屋上に戻ったときの笑みはむしろ、勝利を目指して同盟するような機械的な関係ではなく、信頼感や愛情を表しているようにも見えます。
可可は少しずつ、すみれに対する個人的な信頼をも見せていっているわけです。
でも、だからこそかもしれません。
自分に気を許してくれるような可可が、もし自分が下手を打ったときには、帰らなきゃいけなくなってしまう。それはすみれにとって許しがたいことであったようなのです。
可可が受け入れてくれればくれるほど、かえって続けられなくなってしまう、そんなすみれの悲痛がありました。
二人の仲が良い、と、よく冗談では言われてきましたが、自分のことでお互いの足を引っ張りあいたくない…と、いつしかそういう間柄になっていたのですね。
相手を思いやろうとすればするほどかえって相手の思いから外れてしまう、そんな先代のあの2人をリスペクトするような出来事。
だからこそ、可可にとっても、すみれが自己犠牲から身を引くなど、よけいに受け入れられないこと。
誰よりも真っ先に追いかける可可。真っ直ぐで、暖かい場所に引き上げるその手を差し伸べる役は、8話ではかのんに譲られました。しかしここでは再び、可可が真っ直ぐさを発揮します。
同情ではなく、ふさわしいと思ったからという理由だからこそ、すみれは嬉しい。
それに、視聴者の私たちが心を打たれたあの練習風景も、可可に届くという形で、報われたのですね。それを知った可可がいて、いかにセンターに相応しいかという可可の言葉になって、すみれのところに帰ってくる。
でも、勝利のためだといって可可が説得することが、いくらすみれにとって嬉しいからといっても、果たして「勝利のため」という理由だけですみれは納得し、自信を持てるのでしょうか。
そう思う矢先、可可は「あなたのために」と言って聞かせるのです。ただ実力を評価しているというだけでなく、ほんとうは一個人として見ているということも、ここでついに告白されました。
実力が認められたから。それだけでも力になる。でも、あなただからという理由で推してくれるということが、いったいどれほど支えになることか。
可可からして、いかに実力に基づいたベストな人選をしたとしても、結果というのはあくまで水もの。それで必ず勝てるかはもちろん分からないし、視聴者の私たちも、今の時点ではまだ結果を知りません。この人選で確率が上がったとて、もし勝利できなかったら、はたしてこの判断をどのように振り返るのか。
そう思うと可可は、覚悟を持ってこの判断をしたのだと思います。3話のライブを終えてかのんが、結果がどうなるのであっても後悔しないと振り返ったように、ここでやりたい形のライブが披露できることを良しとし、決して後悔はしないという覚悟を。
そのやりたい形のセンターとして推されたことが、再びすみれを動かします。
時間は前後しますが、吹き抜ける風は、人物の感情を表すということが一般に言われていますね。可可が追いついたとき吹き抜けた風は、すみれのどんな気持ちをかたどっていたのか。それは、苦悩の中でもう一度芽生え始めた、諦めたくない気持ちでしょうか。それとも、可可が追いかけてきた嬉しさでしょうか。
そうなのだとすれば、きっとティアラを受け取るときに、その気持ちが最高潮になったはずです。ティアラを持ち去ってしまうほどの突発的な風は、実はその諦めたくなさを、あるいは仲間のいることの喜びを、表していたのではないか。そのようにも思えてきます。
もう一度芽生え始めたかすかな光を、そして、ぶつけてくれた仲間の評価と想いの両方を、決して逃すわけにはいかない。
うまく行きかけていたことがまたダメになりそうになったとき、思わず身を引いてしまうことも、それでも心のどこかでは諦めきれていないことも、失敗ばかりの自分はまた上手く行かないのではと怖くなることも。あんまり重ねすぎるのはもしかしたらすみれに失礼かもしれませんが…、それでも、どれもすごく分かる気がしてしまうのです。
決して、上手く行かない星に生まれついたわけではないのだぞ、と。自分を励ますかのように、すみれを応援したくなってしまうのです。
届いて欲しい。届け、届け…!
…転がり落ちるように、やっとのところで手を届かせるすみれ。
キャッチした後のここ、本当に好きな場面です。
この場面で、もしアニメの登場人物としての優等生だったら、感動的で、可憐で、涙を誘うのに最適な表情をしていたかもしれない。でもそんな見せ場の場面で、ついヘラヘラとしてしまう。ここぞ!というところでほんのちょっとサマになりきれないでしまう。
それがすごく共感できるところがあって、愛おしくて、僕はここで一層泣けてしまったのです…。
葉っぱまみれで、表情もほころんでいても、それでもそれが輝かしくて、本当に良かったな、と。
ライブシーンでの堂々たる出で立ちは、これまでのいきさつを全く感じさせないものにも見えますし、逆に、そのいきさつが出で立ちを強いものにしているようにも見えます。
いずれにしても、すみれはもともと能力の高い人物であったし、エンディングテーマでは段上から降りてくるような強キャラのニュアンスがありました。
それでもやっぱり弱いところはあって、それを乗り切ったことでいっそう強くなったとか、皆の力のおかげで自分の中の悪循環に打ち勝ったとかを思うと、改めて心くすぐられるところが多々あります。
それでなくても、完璧で、見る私達をあっと言わせるステージ。ただでさえ心震えるところに、さらにそんな文脈が乗ってやってくるところが、ラブライブ!だな、良いな、と、心のダムが壊れるのを喜ぶ時間になるわけですね。
作中の審査員や観客?も、僕たちと同じように文脈を共有していれば、余計にこのステージを好きになるかもしれません。
今回も「かげきしょうじょ!!」から引くとすれば、その第 12 話にて「私は教師として平等に評価をしていきたいと心がけているが、でもね、教師だって人間です…!」というモノローグがあります。
同じくらい実力の高いグループがしのぎを削り合うなら、感情への働きかけが、審査員の最後のひと押しになることがあってもおかしくないはず。
裏にドラマが有ったことを感じさせる最後の一幕。詳しいところまではあらわにされなくとも、ひょっとしてこれが、審査の結果の最後のひと押しをするのかもしれませんね。
あとがき
7〜9話について感想が書けていないので、理想を言えばここまでの流れをさらう文も書けたら良かったのですが、今回の主題と直接繋がらない、あるいはそうする自分の文章力がないというのがあり、一度断念します。すみません。
まだうまく言葉がまとまっていませんが、上記3話も大変素晴らしいものなので、折を見て何かしら書けたらと思っています。
余談からいくと、瀟洒だった恋が9話にて意外な弱みを見せる場面も名場面でしたね笑。もっと言えば、個別の能力では弱点がなくても、社会との関係性の中で弱みが出てくるというのは興味深い描写です。
今回の10話も、ラップというテーマが現れることですみれの強みの固有性が際立つという形で、社会が人の強さを生むという興味深い構図でした。
不安定で、強みや弱みも移ろってしまう世の中。だからこそ、一瞬現れたチャンスを掴む点で、すみれに学ぶ点が多々あるなぁというのを教訓として改めて感じました。
それではまたそう遠くないうちに、何らかの話数でお会いしましょう。
ここまで、ありがとうございました!
*1:ご存知、「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」5話のセリフです。
*2:ここで現象の賛否は議論しませんが、何となく、作品のプロットや設定に対するユーザーの批判と重なるところも感じ、現代的なテーマという感もあります。