異なる立場だから、物語は立体的になる アニガサキ 2期5話・6話感想

こんにちは。センケイです。

色々な種類の遊びをしているうちにすっかり出遅れておりましたが、いよいよ推しの登場にもなった上に、壮大なスペクタルが2話続けて描かれたために、流石にこれは書かねばならぬと思い、今回は参加させて頂きたく思います。

 

特に素晴らしいと感じられたのは、A・ZU・NA の3人が環境に適合する能力、そして環境を構築していく能力です。

個人的にはその能力の高さは、3人がそれぞれに「ゲスト」であったからこそ一層はっきりと際立っていたのではないかと思います。

今回はその「ゲスト」、あるいはそれぞれ集団の境界に位置する3人の「マージナル」さを通じて、感想を書いていきたいと思います。

 

分かりやすいところで見ると、優木せつ菜は5話の壇上においては、野獣役という形で人外を演じており、その意味では人間をマジョリティーとしていると思しき物語世界の中で、ゲスト役を演じていたわけですね。そして、ゲストであったからこそより一層手腕が問われることになり、それが彼女たちの真価をありありと見せた。これが今回の私の見立ててです。

 

それでは参りましょう。

まずは、ゲストという概念について見ていくところからやっていきます。

 

 

「ゲスト」であることの災難と、積極的な意義

 

ここで使おうとしている「ゲスト」という言葉で念頭に置いているのは、『よそ者/ストレンジャーの社会学 』という本が用いている「よそ者」「ストレンジャー」あるいは「マージナル・マン」という概念です。ただし、特に前者2つの「よそ者」「ストレンジャー」という表現は差別的に読めるため、ここでは一貫して「ゲスト」という表現を用いることにします。

 

これらの概念、つまり「ゲスト」とは、どうのような人のことを指すのか。

主に、既存の集団を離れて新しい集団に移った人や、複数の文化圏の間で生活している人のことを指すのが、妥当そうです。

 

例えば、マージナル・マンという概念は、第一人者ストーンクィストによれば、こうです。

[…] マージナル・マンは、二つ (かそれ以上) の世界の間で心理的な不安定性にさいなまれる者である

同書 65 P。 Stonequist The Marginal Man (1937) の引用より。

ストーンクィストは、その典型的なタイプのひとつに人種的な混血を上げてはいますが、必ずしもそのタイプだけではないことを指摘しています。文化自体がマージナルな状況にある人々として、移民およびその第二世代や、植民地化された地域の住民などを挙げています。

A・ZU・NA の3人の中で言うと桜坂しずくは、高咲侑を含む他の3人が1期9話で親しく買い物をしており相互に仲が良かった点を思い出すと、文化的境界に近い位置付けかもしれません。それに複数のサークルに属している点からも境界的ですね。

 

さて、不安定性という言葉が出たように、この本では、マージナル・マンの苦労や課題について紙幅が割かれています。が、個人的に面白いと感じているのは、マージナル・マンの積極的な意義について書かれているところです。

したがってマージナルな人間が彼自身の問題を解決しようと試みる実践的な努力は、意識的であれ無意識的であれ、状況自体を変えることへと彼を導く。

同書 74 P。やはり Stonequist (1937) より。

 

出自が周囲と異なっていたり、所属や参照している文化が複数あったりする場合、それ特有の苦慮は恐らく避けがたいものです。ときには、自分自身のなかで複数の文化が闘ってしまうということもあるでしょう。

しかし、複数の文化のコンフリクトに対して彼 (女) たちが自分をうまく適応させようとするとき、そこには生産的な意味もあるというわけです。「新しい多文化的な社会を築き上げる歩みを進めるものともなっている」(同書 75 P。) と。

 

また、ゲストとしての苦慮、例えば移動してきた先のしきたりが「決して外部者が容易にアクセスし理解できるようなものではない」(同書 97 P。) という困難が (ときには演技上のささいなものであるとはいえ) あるからこそ、3人の能力の高さがよりはっきりと描かれたのではないか。こう思います。

 

なお、今回は詳しく書きませんが、外の環境や文化から新たにメンバーをいっそう迎えつつある同好会を考える上で、この「ゲスト」の見方は良いガイドラインとして繰り返し使えるのではないかと思います。

 

 

リアルタイムに行為をデザインする巧みさ

 

ゲストだからこそ、状況自体を変える力がある。上の節ではこのことについて述べました。

しかしもちろん、状況自体を変えることは簡単なことではありません。それがたとえ舞台というシミュレーションの場であっても。なぜなら、「行為の規則」をデザインすることになるからです。これが難しい理由については、後述します。

なお、しずくが舞台のシナリオを考えたことは、これは状況を変える行ないではありませんが、やはり「行為の規則」のデザインという大変高度なことであったと言えるでしょう。これもまた彼女の能力の高さを示すとともに、なかなかシナリオを完成できずにいた理由にもなっているように思います。

 

しずくはこの他にも、鐘嵐珠が侑に対して批判的に語った言葉を受けて、舞台のデザイナーたる自分の位置を「自分のやりたいことを周りに重ねていた」と卑下してしまっていました。これを受けて、第5話のハイライトたるドリームランドが開幕されます。

出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期5話/©2022 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

初めに先陣を切ったのはせつ菜です。早くも演技慣れしている様子を見せ、役柄上はゲストたる野獣という役を、すでに主体的にこなしていっています。

上の1カットはかなり情報量の多い箇所です。その主体性に基づき、セリフを覚えていないとする上原歩夢に対して、勢いで乗り切ってしまおうと誘導している一幕です。せつ菜自身セリフをあまり覚えていないのに対応していけるという、その自信を示すと同時に、自分たちで行為をデザインしていこう、デザインしても構わないという示唆を行なってもいます。

まずはせつ菜の、「行為をデザインする」という行為を歩夢に働きかけるという、メタレベルでさえ主体的でいる姿勢に驚かされます。場を定義しているという意味では「performative (行為遂行的)」な振る舞いとしても興味深いですが、これはまたの機会に。

 

このことを受けて、歩夢には火がつきます。歩夢ははじめセリフを地声で話すような姿勢であり、他の二人と比べると演技慣れしている様子ではありませんでした。歩夢はこの点においてゲストであったと言えるでしょう。

しかしそのマージナルさこそが舞台に大きな動きをもたらしていきます。

出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期5話/©2022 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

進行している舞台のプロットに素直に従うなら、せつ菜演じる野獣の姿をスティグマ――周りから押し付けられた不名誉な烙印――だと解釈し、解決へと動いたことでしょう。

しかし歩夢はプロットの流れ以上に、一人の人物である野獣と向き合うことに専念します。「野獣さんのままでも、いいんじゃないかな!?」と。

全体の筋書きよりも、人と人との関わり合い、そして役柄以上に自分の性格ならばこのように判断する、という点で舞台からの視点のずらしがあります。このようにして、舞台に対してゲストであった歩夢は、その僅かな刹那のうちに状況自体の改変をし、結果として物語を先に進めてしまえたのです。

 

ここも非常に情報量の多い箇所です。

「〜のまま」という言い方からは、野獣を固有名詞でなく、着脱しうる役割の名前としていることが伺えますが、人物だけでなくその役割に対して「さん」をつけ敬意を払うことで、野獣という役割が悪いものではないという説得性を高めています。

さらに「どう見えるかなんて気にせず」という言葉からは、野獣が自身の姿をスティグマだと考えていたことを認めていることが分かります。視点をずらしてはいるものの、既存のコンテクストを決して無視しているわけではない。状況を瞬時に察知して、その上で「行為の規則」を生み出していっているのです。

 

ここで生み出された行為の規則は、自身のやりたいことと能力、役割、そして背負っている物語をうまく接合させ、それを活用するという規範です。

さきほど「行為の規則」のデザインが難しいと述べたのは、そうしたルールやマナーが、常に守られる厳密なものでなければ、かといって完全にランダムなものではないためです (『組織・コミュニティデザイン』27 P。)。

身近なことでいけば、例えば出会いや別れの挨拶は、面と向かって行われるのが暗黙のルールになっていますね。しかし第2話でミア・テイラーがそうしたように、人物の性格や人物間の間柄によっては、後ろ向きに挨拶をすることも違和感を生むものではありません。例外的な振る舞いにも関わらず違和感がないのは、別れの挨拶だと分かる手の動きや言葉を一応示していることによるものでもあるでしょう。つまりランダムな動きというわけでもないのです。

出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期2話/©2022 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

このように、人と人のやりとりの間にある暗黙のルールやマナー、つまり「行為の規則」は、微妙で繊細なものだから、それをその場で構築していくのはかなり難しいはずです。

さらに先に述べたように、野獣役や舞台の初心者として2人がそれぞれ「ゲスト」である状況下であることから、何が「あたりまえ」のやりとりなのか?という梯子も外れているので、一層難しさが増しているはずです。

しかしそうした難しさの中でさえも互いに状況構築していくからこそ、2人、そしてこのあと加わるしずくの動きは大変素晴らしいものだと分かるわけです。そしてその相互の掛け合いという相互性こそが、まさに人と人とのやりとりという行為とマッチしているのが感じられます。相手をよく見て掛け合うという双方通行さが、「行為の規則」作りと絶妙にマッチしているのでしょう。

 

せつ菜、歩夢の巧みな状況構築能力によって順調にストーリーが展開されるも、少女の「気になること」に続くプロットが出てこなかったことで、一時的に話は立ち淀みます。

これを救うかのように、真打ちしずくが舞台に登場します。

舞台のデザイナーであったしずくは2人の掛け合いをみて、以下のように考えたのかもしれません。「行為の規則」のデザインとは、それぞれの主観が大事である一方で、「皆にとっての共通の主観」(相互主観性) でデザインすることが大事だ、と。

 

『組織・コミュニティデザイン』の立場に立つなら、デザインとは、外からの視点を一方的にもたらすものというよりも、皆にとっての共通の主観を大事にし、成員もデザインできる余地を残したり、中に入り込んで理解したりするもののようです。たとえそれが外からの視点を、ときには批判的に中に持ち込むものであっても。

 

先行する2人のデザインを尊重して、自ら中に入って発展させるしずくの筋書きは、さらにまた洗練されたものになっています。しずくはせつ菜を野獣に変えた魔女役として登壇し、変身の意味付けを膨らませます。

出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期5話/©2022 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

野獣になったことが必ずしも否定的な解釈でなくなったことを受け、大変ウィットに富む形でしずくが導入したものは、野獣化によってせつ菜が優しさを取り戻したという物語です。

先に述べたように、しずくは2年生たちの仲良し集団から見ると、一応「ゲスト」の位置付けに読めます。ここでもまた情報量が多く、2つの目論みが両立されます。第一に、仲良しという視点からだけでは発想しにくい、敢えて鬼になって強制的に姿を変えるという汚れ役の引き受け。そして、野獣になったのは良いことであるという、既存の流れへのリスペクトです。

 

この先もさらに、単位時間あたりかなりの量のリスペクトの掛け合いや、相互を理解しようとする試みが見られます。3人のスピード感に圧倒され、追いつくだけでいっぱいいっぱいという不思議な恍惚を感じたのは、私だけではないでしょう。

しずくはさらに、止むに止まれず登場させられたたくさんの野獣について、新たな解釈を与えます。大勢の野獣もまた元は人間であった、と。

出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期5話/©2022 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

歩夢はさらにこの着想をリスペクトして膨らませます。元人間であったならば、歌うことを通じて皆を救おう、と。

せつ菜もまたそのシナリオをリスペクトしつつも独自の優しさを発揮し、魔女役のしずくを歌うメンバーの一人として勧誘します。歩夢、せつ菜の、役柄上とはいえしずくを一人にはさせないというケアの精神が感じられる場面でもあります。しずくの「私もですか…?」は役割上の驚きなのか本人の驚きなのか判別が付きません。

 

舞台というデザインも人と人との関わり、ひいては社会のデザインなのであって、個々人の自由さがより良いものを生んでいくということ。第1話にて大きな脚本を1つ努めたしずくではありましたが、とどまることなく大きな学びを得ていきます。

出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期5話/©2022 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

互いに異なる同士だから、作り上げられるもの

 

シナリオを作るさいに型にはまらないよう気をつけなければならないのだとしたら、役割を演じるほうもまた、型にはまらないように気をつけなければならないでしょう。

しかし型にとらわれない発想の切り替えは、他者の力なしでは難しいところがあります。

 

今にして思えばせつ菜が演者たり得たのもそれもそのはずで、日頃からもう一人――どちらが主であるかは分かりませんが――を習慣的に演じていたためでしたね。

 

複数の文化圏に属し、それぞれで異なる役割を持つ中川菜々=優木せつ菜は、文字通りのマージナルな人物であったと言えるでしょう。うまくやれれば双方の視点を生かして「多文化的な社会を築き上げる」ことができるように感じられます。しかし、いずれか一方の視点に依って立つなら、型にはまるリスクもまた持ち合わせていたのかもしれません。

文化祭とスクールアイドルフェスティバルの同時開催は、両方の視点から考えることができるチャンスであったと同時に、ことなる人格が自分の中に同時に居合わせ、それでいて両方を同時には出すことができないという重圧にもなっていたことでしょう。

 

同好会、そして中川菜々=優木せつ菜の身に迫る危機。応募が殺到した結果、文化祭と同時に行なうには、とても会場が足りないという状況が訪れます。

両方の役割を同時に出すわけにはいかない彼女は、片方のみ、ここでは菜々の型として、文化祭のみを優先するという決断をしようとします。

出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期6話/©2022 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

以前に Aqours を通じて書きましたように、分かってはいても、自らの力だけで型から抜け出すのは難しいものです。特に、出来ないことがある、上手く行かない理由があるという、ネガティブかつドミナントな物語が立ちはだかっている場合には。

 

第5話においてしずくが救われたように、そうした物語や、役割に押し込められた発想から救い出してくれるのは、やはり他者の力です。

歩夢もしずくも一度はせつ菜に救われた身。掛けるべき言葉は、いやというほど分かっていたのでしょう。

出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期6話/©2022 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期6話/©2022 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

2期5話と6話はそれぞれ、独立して際立ったトピックも多くそれ自体1つ1つ面白いということもあって、初見時にはそれほど両話の繋がりが出ていないようにも感じられました。

しかしこのようにして、せつ菜に救われたしずくがせつ菜を救い返す様子などを見ていくと、なるほど深いところでの繋がりが見えてきます。

せつ菜は結果的にしずくと全く同じ形で学びを得ていくのです。デザインは外からアイデアを持ち込むものではあっても、それと同時に、中に入り込み、皆で共にデザインする必要があるものだ、と。

なおしずくは、舞台というしずく固有の興味からこの学びを得たのでした。これを思い出してみると、互いの興味が異なっていたからこそ支え合えたのだという点もまた興味深いです。これも他者同士の助け合いにおける重要な要素の1つかもしれません。

出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期6話/©2022 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

そして5学校の共催という形でどうにか文化祭・スクールアイドルフェスティバルの合同開催を決行に持ち込むことができた彼女たち。

そして合同開催という形態が中川菜々=優木せつ菜にもたらしたものとは。学校行事においてはゲストであるスクールアイドルと、フェスティバルにおいてはゲストである生徒会長。どちらの実施にあたっても自分のうちの半分はその文化とコンフリクトしえた彼女も、晴れて同時開催され始めた今となってはどちらの姿もゲストではあり得ず、自分の中に半分のコンフリクトを残す必要がありません。

…そのことだけでも、十分だったのかもしれません。

しかし恐らくは、生徒会長としての立場が皆に救われた感謝と、スクールアイドルとしての立場が皆に救われた感謝、その両方の感謝を、救ってくれた全員に伝えたかったのかもしれません。

菜々を救ったスクールアイドルたちへ。菜々を救った学校や生徒会のみんなへ。せつ菜を救ったスクールアイドルたちへ。せつ菜を救った学校や生徒会のみんなへ。

そしてそのカミングアウトこそは、まさにマージナルな人物として、これ以上ない効果をもたらす形で、状況自体を変える力を発揮したものと思われます。

それはきっと、スクールアイドルにとって文化祭がいかに大事であり、学校にとってフェスティバルがいかに大事であるかを皆に染み渡らせるメッセージとして。

そして恐らく生徒会長としてもスクールアイドルとしても皆から人気であったであろう人物からの、最高のタイミングのサプライズとして。

出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期6話/©2022 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

しかしその自分自身をエンターテインメントにするという勇姿に続くのは、一人で演じるものではなく、皆で築き上げていくものでした。このことにも、観衆は大いに驚かされたことでしょう。まるで一人ではできないことがみんなではできる、と、体現するかのように。

A・ZU・NA の最高級のアクトが始まります。

 

ここにおいても見事なのは、どこまでいってもこの3人が互いにゲストなのだという点です。耳をそばだてて聴いてみると、ソロパートはあまり噛み合っていないのです。

せつ菜は進む先を、一つに決まっているものだとしているし、歩夢はたくさんの可能性と向き合い、それを不定のままにしているように見えるし、しずくは幾多の扉を、同時に共存させているように見えるし、バラバラです。リズムや登場する楽器さえ、3人それぞれのパートで大きく異なっています。

しかしそれでも、皆で共通の主観を見ている。「思い切って全部チョイス」するなら、どのやり方とも整合性が取れるわけです。

出典: ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 2期6話/©2022 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

なるほど考えてみれば、開かれた可能性への働きかけ方がバラバラだからこそ、互いに場面、規則、世界を作り合ってこれたのではないでしょうか。

5話の舞台も、選択肢の拾い方の違いが、立体的な動きを作っていたとも受け取れます。せつ菜は突き進み、歩夢は可能性を発見し、しずくは複数の解釈を両立させてきた。

 

そしてついに到達できた6話での合同開催。せつ菜の突き進む意思、歩夢の可能性を探す意思 (「まだできないって決まったわけじゃないでしょ」)、しずくの両立させる意思 (2つの事柄の両立が争点)、どれを欠いてもこの場に至ることはきっと難しかったでしょう。

 

 

中川菜々=優木せつ菜の2人。そして上原歩夢と桜坂しずくを含む3人。互いに「ゲスト」であり、異なるものを見ているからこそ、2人や3人が「共通の主観」を持つときに、世界の可能性を開き、無理だと思われたことを成し遂げるとともに、見たこともないような舞台、そして公演を作り上げてしまう。

そしてそれに際して、同好会や、学校のみんな、他校のみんなの力も大きい。

能力の高さやネットワークの強さ、その結果として生まれてきているもの。どれをとっても大変に洗練されたものであり、参ってしまいますね。

 

 

それではここまでありがとうございました!

今期入ってから少し出遅れましたが、ようやくひとかたまりの文を書くことができました。ここまでにも唸らされる箇所はたくさんあったのですが、やはり推しの登場という力は頭一つ抜けていますね。とはいえ他のメンバーの話もホントは丁寧に書いていきたいのですが。う〜む。

それにしてももう1つ気になっていたのは、3人はそれぞれ一時的にはライバル的な関係になる箇所があったのに、それでもなお結束してきたのはどのような点からだろう、という点です。

歩夢はせつ菜やしずくに一時的に妬きつつあったわけだし、しずくとせつ菜は旧同好会では反りの合わないときがあったはずです。

このヒントは、競争して高め合う点にあるのではないか、という仮説を思いついたところではあったのですが、ここまででかなりの分量になったため、機を改めて考えたいと思います。

嵐珠の登場といい、一度は競争をやめた同好会においても宮下愛と朝香果林が競争を通じて結束を深めた事例といい、同好会のキーポイントになってくるでしょう。

コミュニティとしての同好会やフェスティバルのあり方、その中での競争の役目。またタイミングを見て理解を深めてみたいですね。

 

それではまた、土曜の夜か、可能であれば江東区調布市にてお会いしましょう!