空間とは時間である…超かぐや姫!における「遠さ」という拡声器 原神との比較も添えて

このブログ記事では、『超かぐや姫!』、『原神』のメインストーリー空月の歌の重大なネタバレを含みます。

 

 

念のため少し下の方から記事を開始します。

 

 

 

 

 

 

 

それではやっていきましょう。

 

 

 

『超かぐや姫!』は大変素晴らしい作品でした。

これまで見に行っていなかったのはなぜなのかということを後悔しましたし、まだ間に合う限りは何十回でも見に行きたいと思った所存です。

 

ストーリー上特筆すべきところが多数あると思うのですが、僕が特に心打たれたのは、特に終盤の怒涛の展開です。

想像を絶する 8,000 年という遠さ、そしてそれによって生み出される人物の思いや涙がたいへん美しく感じられました。

 

この記事では、あえて月と地球との距離ではなく、代わりに太古と現代という距離によって話の骨格が作られていることに着目し、そのことを分析してみようと思います。

 

 

遠さこそが再会を輝かせる

 

まずこの作品を通して真っ先に連想されたのは、ソーシャルゲーム『原神』におけるコロンビーナをめぐるストーリーです。

いずれも今年に入って特に感動した印象深いストーリーであるため、余計にその類似性が頭をよぎりました。

 

バックボーンだけ書き連ねていくと相当類似点がありますが、手短に言うと、以上のようにストーリー上の骨格が酷似しています。

  • ある一人称視点の人物 A が、少女 B と出会い、やがて親密になっていく。しかし B のホームは実は月であり、最終的には月へ帰ることを決意する
  • ある事情からその後、少女 B は月どころか、数千年の過去という遠くへと流され、A との間を引き裂かれてしまう
  • 長い時間という苦悩や、肉体と精神が離れてしまう苦悩をも経て、ようやく B は A と再開することを果たす

個人的には、このように両作品のプロットが似たのは、必ずしも偶然ではないという気もしています (なお、公開されたのはいずれも 2026 年 1 月であり、いずれかがいずれかを参照したとは考えにくいです)。

 

『原神』のストーリー、空月の歌第6幕より。今まで協力してきた仲間たちと徐々に親密になってきた少女が、月へ旅立つ前のひとときを名残惜しくも楽しく過ごしている様子

 

これらのような、一人称視点の A が、月からの来訪者である B と親しくなる作品で、もし視聴者を泣かせるなら、どのような展開を考えるでしょうか。

 

まず思い浮かぶのは、この星と月との間の離別でしょう。

せっかく親しくなった少女 B には、できることなら月に帰らないでほしい。そのように A は、あるいは我々は願う。

 

あるいは言い換えるとその離別の痛みの大きさは、それはもし再会できたときの喜びの大きさといっていいでしょう。

そんな少女とまた会えたらどんなに良いだろうか。

 

さて、このような設定において、さらにこのような離別の涙、再会の涙を大きくするとすればどのような話がありうるか。

 

タイトルで書きましたが、「遠い」という表現は、空間と時間の両方に使うことができます。

 

言語には、「メタファー」というものがあります。

 

大雑把に言えば比喩のことです。

しかしメタファーという言葉はもう少し詳しい意味も兼ね備えています。

それは、「目で見て分かりやすい概念を使って、もう少しわかりにくい抽象的な概念のイメージを豊かにする、一連のマッピング」といったものを指します。

 

たとえば「怒りとは炎である。」

炎やその熱さを使って怒りの程度を表すたとえが、一貫して存在します。

比喩の例 分かりやすい概念 抽象的な概念
はらわたが煮えくり返る 煮えるような熱さ 怒り
烈火のごとく (怒る) 怒りの激しさ
(怒りが) ヒートアップする 熱が高まること 怒りの強まり

 

このように炎やその熱さを使うことで、怒りの激しさや高まりが、イメージ豊かに表現されるわけです。

 

同じように、「時間とは空間である。」

空間の長さや距離を使って時間のそれを表すたとえが一貫して存在します。

比喩の例 分かりやすい概念 抽象的な概念
長い 長さという空間の尺度 時間がしばらく続くこと
遠い未来 遠さという空間の尺度 しばらくの間その時間にならないこと
ともに日々を歩んできた 歩くことによる空間的な移動 日々を過ごすことによる時間的な移動

 

遠く離れれば離れるほど、離別の心の痛みは大きく。

だからこそまた近づくことのできた再会の喜びは、何事にも替えがたいものになるでしょう。

 

そのような離別の「遠さ」が、空間的な「遠さ」であっても時間的な「遠さ」であっても同じことがいえるはずです。

 

この物語が最終的に選んだのは、数千年という、とてつもないスケールの時間的な遠さ。

 

月という「遠さ」が、その作中における最大の離別の寂しさ、および最大の再会の喜びであるとミスリードしつつ、それを遥かに凌駕する「遠さ」で感情を突き動かす。

このような仕掛けを作りたいというモチベーションが、超かぐや姫!と原神、両作品の根底に流れていたのではないでしょうか。

 

人が一生で決して経験し得ない規模の遠さ。

いってみれば、現実に経験し得ない形で、涙の倍率を捏造している (いい意味で) わけです。

 

そしてこの、日常を遥かに超えるスケールによる揺さぶりこそが、これらの作品に共通する魅力になっているのではないかと思うのです。

 

 

さて、最後に、なぜ空間的距離ではなく時間的距離で二人が引き裂かれる必要があったのか。

これを、「星降る海」の歌詞やそれを歌う感情にも思いを巡らせつつ、考えてみましょう。

 

現代社会でこそ意味を持つ時間的な隔たり

 

現代社会のような通信技術が十分に発達した社会では、相手との会話や一体感、同じ空間にいるという臨場感において距離が障害になりにくくなります。

だからこそ、これとは違う種類の距離が必要だった。

 

 

思いを寄せる人物のがいたとして、電子の海では、そうした人物とほぼ光の速さでやりとりが可能。メタバースから見守るヤチヨの立場なら「距離なんてないのかな」という近さで (今でこそやっと、ではありますが…!) 寄り添うことができるわけです。

 

ましてやこの作品の描く少し先の未来では、同じ空間にいるという実感がヴァーチャルリアリティーによってかなり深められています。

自在に動かせる身体、相手の手を引いて走っていくこともできる密着感。さらにライブの始まる前のサーッと空気が引いていく感じのような、同じ場を共有する一体感。

(ライブの演出は今の時代の我々さえその臨場感のおこぼれをもらえるほどの優れたものでしたね。)

 

メタバースはこのような近さの実感を提供するテクノロジーであり、このような空間をを介している限りはヤチヨも、「どんな時もきっとどこかで 見守っているからさ」という形で、常に彩葉を気にかけてやることが可能なわけです。

(あるいは soitan さんの分析にあるように、ツクヨミの他のプレイヤーたちにも寄り添う姿勢を示すことがパフォーマーであるヤチヨの責務だといえるかもしれませんが、彼らへの寄り添いもまた、メタバースによって可能になっていたといえるでしょう。)

 

通信技術を持ってすれば、月とて遠い存在ではありません。

光の速さなら 1.3 秒。スマブラで通信対戦するなら、ガノンドロフの魔人拳1個分の遅延で済むくらいかな。

 

奇しくもこの 4 月、月と地球を結ぶ高速通信が実証されています。この 2026 年においてはもう月の人と地球の人が、同じメタバースを遊ぶことも難しくないかもしれません。

www.itmedia.co.jp

このように社会が縮み、 (空間的な) 距離の作り出す寂しさが小さくなってきた現代。

そこで超かぐや姫!に登場したのが、時間という種類の距離です。

「距離なんてない」。このような時代で本当に離別の苦しみと再開の嬉しさを強めるのは、「幾千の時」という時間的な距離に他ならないでしょう。

 

 

しかも太古に遡るということは、まだ「きみ」が存在さえしない時間の中で想いを巡らせることしかできないということ。

会えないなりにも、同じ空気を吸っているのだ、同じ星を見ているのだという実感さえ得ることが許されないわけです。

 

「きらきら輝く星」を見て、こんなにきれいなものをきみに見てほしいという想いを、どのように抑えつけてきたのか。その心ちぎれるような思いは想像を絶します。

そんな中、幸いにして星々の輝きは「太古から」今に向けてが残り続けると確信できます。このようなことだけがヤチヨの僅かな希望だったのかもしれません。

そう思うとこの歌詞からは、なけなしの希望でヤチヨがなんとか自分の心を保ってきたさまも、想像されてくるような気がします。

 

通信技術で埋められることのない、きみのまだ存在さえしない時間を果てしなく過ごすこと。これこそが感動の大きさ、「恋 (こひ)」(対象が離れているため、なかなか思いがかなえられず、逢いたい、見たいなどと切実に心が引かれる気持ち((weblio古語辞典より))) の大きさを作り上げるに違いありません。

 

そして「星降る海」が温かいのは、ついに今こうして同じ時間の中にいるということが、いかに近く、有意義であるのかということを痛いほど (本当に痛いほど) 知っているヤチヨが、その想いを奏でているからなのかもしれません。

 

 

まだ書きたいことが幾つかありますが、長くなりすぎる前にこのあたりで一度閉じておきましょう。

次に書こうとしているテーマとして、「強さと儚さ、環境になるという非-推し活的側面」「現代的、アンチ「幸せに暮らしましたとさ」」とか「「目標」と「親密さ」が、互いにその質を高め合う」といったテーマを計画しています。

 

今回詳しく書けなかったコロンビーナに対する感想や、さらに『パリに咲くエトワール』との比較などもこうした切り口から行なえればと。

 

それではここまでありがとうございました!

また、電子の海のどこかで。