こんにちは。虹ヶ咲学園社会科学同好会です。
嘘です。
こんな観点から書かれた記事を読みたい!という一心で、なかでも特に社会学を参考にしながら文を書いてきましたが、それを面白いと仰って頂けることもときどきあって、とても嬉しく感じています。
まだうまく言葉でまとめられませんが何となく社会学は、多種多様な、かつ主体的に未来を切り開いていくニジガクとの相性が良いように感じています。
ただ私は、最大限誤りのないよう努力はしているものの、社会学の専門教育を受けてきてはいないので、私の記事が完全に正確さを保証できないことはお伝えしなければなりません。
そのことはなにとぞご了承いただきつつ、私が面白い!と感じたところを共感いただけたら、光栄の極みです。
今回も、能書きは長くせず、キャッチフレーズを言うくらいにしておきましょう。
今の時代は「家族」というものもある意味、難しいものになってきていること。そして家族は「ある」ものではなく「作り続ける」ものになってきていること*1。
また、以前の記事でも「ラインを描く」という言葉で触れましたが、信頼関係にとって大切なのは、今までとこれからの生きざまを一緒に楽しめる関係を持つこと*2。
そこでは、結びつくことだけでなく、「ほどく」という動きも起こるかもしれません。が、それは必ずしも悪いことではないでしょう*3。
『分解の哲学』は、ほどけることと、ときが進むこととの関係を探っています。
実際、何かが解体されることが新しい始まり/ステップになることも往々にしてあるでしょうし、それは時の流れを感じさせるものにもなるでしょう。
難しいからこそ渇望される、家族
現代という時代において、家族は良くも悪くも移り変わりやすいものになってきています。家族という基盤が、揺らいでいると言って良いかもしれません*4。
しかしそれでも、いやがおうにもひとりで戦うことが求められる時代でもありますから、最後の砦として、家族はますます渇望されてもいるようです。
難しくなっていると同時に、どうしても手放したくない間柄です。愛する相手と気まずくならないようにしようと、今までのやりかたを変えたがらないこともあるかもしれません。まるで腫れ物に触れるかのように。
近江遥とずっといい関係を続けていきたい。そのために自分の役割を果たすことは、近江彼方にとって今や生きがいでもあったことでしょう。
生きがいでもあり、またやり方を変えることも恐ろしかったに違いない彼方にとって、遥が朝食を手伝いたいという提案は、素直に受け入れられるものではなかったのかもしれません。
彼方は、相手の気持ちに気付かないでしまいます。
今や変化をいとわないスクールアイドル同好会として活躍する彼方も、家族のこととなると、なかなか新しさを受け入れるのが難しかったのでしょう。これも、上で書いてきたような家族というものの二面性を考えると、致し方ないことに思えます。
ましてや遥は、話を聞くだにかなり優秀なスクールアイドルであるようなのです。それを身内として応援すること自体、彼方としては誇りに思えたに違いありません。
逆に、にもかかわらず彼方自身スクールアイドルを続けていることが、よく考えてみると意外というか、私たちとしてはとても安心できることがらに思えてきます。
少し話題が変わりますが、『居るのはつらいよ』という本によれば、「いる」ということは意外と難しいことだそうです。
同書は、デイケアの職場を日記的に書いたものです。そこに来た人は、そわそわするような不安がなくなるとよくやく、落ち着いてただ「いる」ことが出来るようになる、と述べています。
私は、ボードを得た後の天王寺璃奈が、それでもなお同好会のみんなの前でボードを使わず過ごしているのを見たとき、これについてもとても安心してしまいました。
遥の前ではソトの顔としてボードを使いつつも、同好会のなかではウチの璃奈でいられる。
家族とはまた違う形で、それでもまるで家のように人が落ち着ける場、そして、そこで自分を出せていける璃奈が、とても奥ゆかしいと思います。
話を戻しましょう。
先ほど述べたように、やっぱり家族となると難しいのか。
もちろん彼方が実際にやることが多く、忙しいためでもあるのでしょう。しかしいずれにせよ、彼方は遥の前でつい、「いる」彼方よりも、「する」彼方を選んでしまいます。
ほどけのある間柄
全力で頑張り続けたはてに、彼方はついに突然、眠りについてしまいます。
しかしこれもよく考えてみれば、遥と彼方にとっての大事な一歩に思います。ずっと遥の前で「する」をしてしまっていた彼方が、不本意とはいえ、やっと「いる」ことをさらけ出すことができたのです。
そして、彼方のことが心配で耐えかねた遥は、スクールアイドルをやめることを宣言します。大胆ではありますが、大変勇気と思いやりのある決断です。
横顔のりりしさから、その決意の固さが伺えます。
これは一見すると問題が起きてしまった場面のようにも見えますが、しかし、二人にとってむしろ大きな前進でもあったと思います。
ほどけることもまた、関係性のうちの大事な要素のひとつ。今までの固定された二人のやりかたを変え、新しいやり方を模索していくには、大切なステップであったに違いありません。
『分解の哲学』で引用されている大野晋さんの仮説を借りるなら、「解 (ほど) き≒解 (と) き」こそ、時を進めるものと言えるかもしれません。
ここから続く一連の時間は、彼方にとっては大変、あるいは遥にとってもまた、苦しいものであったかもしれません。しかし、それは乗り越えていくために大切な、成長痛であったのかもしれません。
言葉や態度で表せば表すほどすれ違う思い。
彼方が「大丈夫」といったり、大丈夫さを見せるために一生懸命になったりすれば、それは「大丈夫じゃない」というメッセージになってしまいました。そして彼方が「もっと頑張るから」と言えば、それは余計に心配させるメッセージになってしまいました。
この場では、重い空気が流れていきます。
しかし、きっかけこそ鋭利なものであったものの、のちに素晴らしい関係性が見え隠れしていきます。
遥は、「ケンカしたくてやめるわけじゃないから」と、意見の違いがかならずしも仲違いではないことをはっきりと宣言します。
意見がはっきりと言えて心理的安全性のある、「いる」ことのできる家庭に向かって、確実に歩みを進めていっています。
しかしそんな遥も、このときにはまだ、相手の気持ちに気付ききれていません。遥が夢を叶えることが彼方にとって夢だということを、気付かないでしまっているのです。
これが彼方の心配の種として残ります。
思わず彼方もまた、スクールアイドルをやめようと考え始めてしまうシーン。
エマ・ヴェルデはここでもまた、多くを語らずに人に気付きをもたらします。「それは本当に、彼方ちゃんが望んでいることなの?」とただ問いかけることからは、嫌味のないいたわりが感じられます。
彼方がやりたいことを純粋に突き詰めて考えるとき、そこに、相手も同じ考えに違いない、という答えがあったのですね。
朝香果林や、続くみんなの言葉を受けて、彼方の中である決意が固まっていきます。
なお彼方はこのとき、朝食を手伝いたい遥のことも回想しています。その当時は受け入れられなかったことでも、記憶には鮮明に残っていたのですね。
二人の生きざまを楽しみあうこと
ほどけと結びとの行き来によって、関係性は強くなるものなのでしょう。彼方は歌というかたちで、二人の新しい結び目を作り上げていきます。
『ライフ・オブ・ラインズ』によれば、歌の chord や chorus は、いずれも結び目と同じ語源を持つようです。
遥をセンターに抱えるヴィーナスフォートでのライブを目前にして、ステージに現れたのは姉の彼方。
同好会の他のメンバーが駆けつけただけでも喜びの声をはなった遥にとって、彼方が来てくれたばかりか自分に向けた歌を歌うなど、遥にとってどれほど心にしみたことでしょう。
曲中で映し出されたものは遥の心象風景なのか。そうだとすれば、いかに彼方の心の中に遥がいたのか、いかに彼方が遥を大事に思っているのか、ここでありありと感じられたはずです。
そしてそれは歌詞にも現れます。
自分のぬくもりで彼方は「強くなれた」と告げる。一生懸命になりすぎている彼方だったけど、実は無理して頑張っていたのではなく、嬉しくてつい頑張っていた、ということなのでしょう。
この彼方の本心が、遥の胸に強く突き刺さったに違いありません。
お互いがお互いの本心を分かって、自分を犠牲にしないようにしても、それでも忙しさ自体がなくなるわけではありません。それはもしかしたら、大変な道になるかもしれません。
そんな中でも一緒に生きざまを刻んでいこうと誘う彼方に、遥は想いを抑えられなくなります。
そんな遥と、この先に未来を前に、彼方はこうも歌います。
「叶えていけるきっと 信じてるから」
叶う、とははっきり言わないところに、かえって意志の強さが感じられます。
たとえ簡単なことじゃなくても二人で一緒に乗り越えていこう、あなたは大切な人だから、という想いが、「信じてる」という言葉からあふれ出てきます。
あるいは、たとえ叶えられなかったとしても、それでも二人の生きざまはなくなりはしないよ、という決意と包容なのかもしれません。
そしてその包み込む歌声は、遥の頑張りや意志、そして変化へ歩みを進めることを受け入れるものでもありました。
ずっと温かい家族でいたくてやりかたを変えられずにいた彼方の姿はもう、そこにはありません。
一緒に新しいやり方を探りながら、自分たち姉妹という関係を作り続けていこう。そんな信念が感じられてきます。
それに、ライブという形を通じて、姉妹という関係は閉じられたものではなく、みんなの中の姉妹という関係になりました。このことが、姉妹という結びつきをより、しなやかで頑健なものにしたことでしょう。
食べることは受け入れること*5。
たとえうまく行っていない卵焼きでも食べるという形で、すっかり彼方は妹の頑張りを受け入れるようになりました。
そして遥かもまた、料理を教えてもらうという形で、姉の頑張りを受け入れています。
不安定な時代、家族や姉妹のありかたも難しいという時代ではあります。しかしそれでも、どのように姉妹をやっていけば良いのかについて、より良いものを探し続ける二人なら、きっとこの先も大丈夫でしょう。
歌を通じ、そしていつくしみを通じて、相手の頑張りやそのやり方を尊重していく彼方と遥。
そして、 一緒に刻んでいくスクールアイドルとしての未来、姉妹としての未来を、ただ「信じてる」と歌う彼方。
お互いの生きざまを大切に受け入れていくそんな二人に、私たちが心をときめかされないはずはないのです。
あとがき
今回もありがとうございました。
すっかり遅くなってしまいましたが、書くことを通じてその意志の強さがほんとうにあたたかいなと改めて感じて、書いてよかったなとしみじみ感じています。
改めて感じたことといえば、こうした「生きざま」を刻むような話を本で読んでいて、桜坂しずくの「やがてひとつの物語」の歌詞がいかに染み渡るものであるかを痛感いたしました。
人の生きざまを楽しみ合えるということは、物語を重ねることだと言っていいのかもしれません。
「やがて」ということは、それは今すぐには実現し得ないことも示唆しています。
久々にスクスタの話をしますが、あのような展開を受けてうまく物語を中須かすみと重ねられないしずくが、いつか物語を重ねられたら…と信じているとしたら。
所属というものが揺らぎやすい今の時代だからこそ、信じるということはますます美しく感じられますね。
次回 (もう今日ですか!) はそんなしずくの回がやってくるということで、楽しみでたまりませんね。
それではまた、「いる」ことの出来るような場所かどこかでお会いしましょう!
*1:『リスク化する日本社会』。
*2:『ダイエット幻想』や『ライフ・オブ・ラインズ』。
*3:『ライフ・オブ・ラインズ』や『分解の哲学』を参考にしました。
*4:『リスク化する日本社会』。
*5:『食べることと出すこと』は、病気やアレルギーで特定の食べ物が食べられなくても、それでも壊れない仲のたいせつさを書いています。しかし同時に、そのような場合でなければ、相手の用意したものを食べることが相手を受け入れる意味にもなると、同書は仄めかしています。