ラブライブ!化する社会で希望を見出すための Aqours 3rd LIVE レポート

こんにちは。センケイです。

 

今回も少し長い議論になりますので、

分かりやすさのため

最初に感想を言いますと。

 

・・・控えめに言って最高でした。

 

これから先どうしようという

自分の道筋の立て方そのものに影響した。

そう言っても過言ではありません。

 

そこで、

ではなぜこのように今回のライブから

希望を受け取ることが出来たのか。

 

これについて、

以下のような3つの観点を軸に

振り返ってみたいと思います。

 

・私たちは、周りを取り巻く資本主義と

 どのように関わってくらしているのか

 

・そのなかで彼女たちが果たす役目を、

 どのように解釈できるのか

 

・これを受けてどのように

 私(達)は生きていくことができるのか

 

それでは早速始めていきましょう。

 

自己充足的な空気に対するささやかな疑念

ときは 2018/06/09。

 

少し私の話になりますが、

ちょうどこのころ、

日々仕事もプライベートもかなり忙しく、

この日を楽しみにすることで・・・

何とか日々を乗り切っていた状況でした。

 

しかし、このライブの直前に

改めて色々考えており、突如、

この日をどのように楽しむべきか?が、

少し分からなくなってしまいました。

 

もちろん、こうした疑念を無視し、

ただ単にそのときを楽しめばいい!と

解決してしまうこともできたと思います。

 

しかし一方で、

この疑念とうまい調和が持てれば、

そのような力をライブから受け取れれば、

このライブの終了後も続く自分の糧へと、

より昇華できるのではないか。

 

そのように考え、

この疑念は一応心に留めることにしました。

 

ではこのような疑念が生まれた理由は何か。

 

1つ目は、

関心は近いけれどもアイドルライブは見ない

そういう先輩に、

 このライブの意義をどう説明したらよいのか

分からなかったこと。

 

もう1つは、

当ライブもまた、

良くも悪くも、資本主義による

一商品に過ぎないであろうということです。

 

少女たちの歌は閉塞した現代社会に
突破口をもたらすのか

 

特に後者。

この祭典が単に一商品に過ぎないなら、

私たちにとって希望をもたらす存在になるかの

分かれ目にもなってくると言えるでしょう。

 

それはなぜか。

 

直観的にはなんとなくイメージ頂けるよう

思いますが、

一応より深くこの出来事に立ち入るべく、

まずは資本主義に対する近年の見解を、

振り返ってみたいと思います。

 

個人的に興味があって読んだ書籍、

主に社会学関係の文献では、

「資本主義は外部を失った」という議論が

頻出しています。

 (『広告都市東京』

 『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』

 『他者の倫理学』『オルタナティブロックの社会学』など。

 文献一覧は最下部にまとめています。

 

これは、以下のように

まとめられると思います。

 

冷戦が終結し、別の勢力から

 批判を受けることが少なくなった。

 

非日常や相対的良さが隅々に浸透したため

 それらの特別感が形骸化した。

 

・資本主義に対する批判も

 商品として受容されるようになった。

 

 この状況を良いとみるか悪いとみるか、

この状況の原因がどの勢力に帰属するかは

結論を1つにすることが難しそうです。

 

が、少なくとも現代社会のこの状況が

閉塞感を抱えているということ自体は、

一定のコンセンサスを得ているのでは

ないでしょうか。

 

 これをコンテクストとして踏まえると、

この祭典がもたらす喜びの中心を

日常に対峙する非日常として捉えるのは、

あまり好ましくなさそうです。

 

逆にここに希望を見出すには、

それ以外・それ以上の価値を、

外挿される特殊なモノとしてではなく、

受け入れることが必要でしょう。

 

まあしかし、このような構えでいても

いざ実際にライブを目の当たりにすると

思考よりも先に身体がよく感受するもので。

 

以下の記述のほとんどは、ライブ後に

事後的に解釈した内容になりますが・・・笑。

 

それでは少しずつ見ていきましょう。

 

ところでこのライブが行われた会場が、

 象徴的な広告都市渋谷を開発してきた

 西武の本拠地であること。そして

 その球場自体にこれでもかと

  広告が散りばめられていること。

 これらの事実にも何かの因果を

 感じざるを得ませんが、

 これについてはまたの機会に。

 

一点透視法的な真理からの脱出と
集合知的アニメティズム

ライブが始まり、

サンシャイン!! 2期を象徴する曲として

一番に飛び込んできたのは

未来の僕らは知ってるよ」です。

が、これは最後のあたりに改めて

振り返りたいと思います。

 

さて 、ここで2曲目がリアル脱出ゲームの

テーマ曲であることからも、

いくつもの意味を感じ取ることができます。

 

が、これを読み解いていく上でも

ゾンビ論やタワーディフェンスについて

それなりに長いコンテクストを要し、

ここでの本論から脱線してしまうため、

機会を改めたいと思います。

 

つまり、ここまでの流れを踏まえたうえで

最初に深入りしたいのが、

「MY舞☆TONIGHT」です。

 

そのヒントは前述の

『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』

にあります。

 

この書籍では、

非日常が浸透しすぎて

外部を感じることが難しくなった

「それなりに愉しく幸福な絶望」に対し、

私たちの取れ得る手が

広く考察されています。

 

結論を先取りすると一つの回答として、

徹底してテクノロジーと身体を

接合することが挙げられています。

 

例えば映画で、

物語よりも美的側面を強調するような、

フォーマットそのものへの注視と

言い換えていも良いでしょう。

 

しかしもちろん、

このライブにおいてテクノロジーは

テクノロジーそのものが目的ではなく、

あくまで音を楽しむ手段として

そのフォーマット自体は影を潜めています。

 

この意味では、前述の著書が述べる希望に

素直に便乗することはできません。

 

しかしながら、

テクノロジーと身体との関わりに

徹底して向き合うという視点からは、

ひとつの方向性が示唆されます。

 

MY舞☆TONIGHT によって示される

調和という観点によって、

その可能性が示されてきます。

 

※なおMY舞☆TONIGHT が、

その背景にあるアニメ本編の中で

「調和」を示していることは、

下記の記事から理解することができます。

 

体育会系と文科系、光と闇といった

二項対立がこの2話前半で展開されますが、

どちらか一方を採択するのではなく、

全体を包摂するモデルを見出すことで

この回の解決へと至ります。

 

この解決方法は、まるで

西洋近代の二項対立≒一点透視的モデルを

克服しているかのようです。

 

テクノロジーとのかかわり方、そして

一点透視法的モデルに抵抗する手法は、

Thomas Lamarre というかたの邦訳著書

『アニメ・マシーン』に詳しくあります。

 

この著書においては、

一点透視法的である

「シネマティズム」という概念と、

これに対する

「アニメティズム」という概念が、

繰り返し出てきます。

 

著書の中では、両者とも

かなり多義的なのですが、

分かりやすい例で示すとすると。

 

シネマティズムは、

電車の先頭車両から前面を見、

正面に向かって突入していく、

カメラならではの視点であり、

 

アニメティズムは、

電車の横の窓から、

風景が過ぎさるのを眺める視点、

このように理解できるでしょう。

 

正面から突入していく描画を

2D アニメで実現するのは

従来なかなか難しかったわけですね。

 

しかしこれらの視点はこの事情に留まらず、

ものの捉え方そのものの観点をもたらします。

 

厳密な等号では結べないにせよ、

このシネマティズムこそ、

近代西洋的な見方であり、

純粋なリアリティの追求であり、

唯一の真理を根拠とする思想であり、

全体を俯瞰するパノプティコン的な

視点である。

そのように解釈できるのでは

ないでしょうか。

 

これに対してアニメティズムは、

各要素はあくまで各要素として、

一つに統合されずその役割を果たす、

そのような視座になるものと思います。

 

上の資本主義論、

例えば『広告都市東京』によれば、

全体を俯瞰するような視点は

もはや無効である、と導きだされます。

 

外部がない以上、

外部から資本主義全体を見渡して

メタな言及をすることができません。

 

一方、少し私の解釈も入りますが、

ルーマン 社会システム理論』などの

見方を導入していくと、

相対的な良さという

差異の連続で意味が構築される以上、

関係性の中でしか事実を定義できない。

 

そのような帰結が

得られるのではないでしょうか?

 

ここにおいて、単にシネマティズムを

否定し、アニメティズムに全振りしても、

十分な解決策とは言えないでしょう。

 

このあたりはハイデガーの思想あたりから

ひっくり返して考え、

西洋近代の功罪を見ていくことで

精緻な議論ができそうですが、

私の理解を超えているため

あまり深入りするのは避けようと思います。

 

ただ、科学的手法とテクノロジーが

西洋近代の合理論の上に成立している等、

いくつかの点で

直観的に明らかと言えるでしょう。

 

本論に戻りましょう。

 

ここでは 3D モデルに対して

セル画調のテクスチャーを重ね、

シネマティズム・アニメティズムという

2つのテクノロジーの融和が取られます。

 

さらにこのアニメ映像に対し、

実際の人物が踊りを重ねる。

 

アニメ映像と人物とを

同時に見ていることは困難ですから、

この意味でも、要素は要素のままという

アニメティズム的・分解投影図的な

表現がなされていると言えるでしょう。

 

そしてこの曲のフォーマットは、

まさしく西洋近代的な音楽に対し

東洋伝統という代替的な技法が

組み合わせて用いられている。

 

このように複数のレベルにおいて、

「調和」が重なっています。

 

ここまで視てきたように、

このように資本主義が不可能にしている

唯一絶対の視点・近代の欲望に対し、

全肯定も全否定もせず融和し、

集合知的な理解を提示する。

 

ここに1つの希望が立ち現れている、

そのように解釈できると考えます。

 

もちろん、東洋は決して西洋近代に対する

唯一のオルタナティブとは言えません。

特に、日本人の日本は特別だという議論に

多くの待ったが必要であることも

言うまでもないでしょう。

 

しかし、

こと『ハイデガーの思想』においては、

西洋近代的モデルに対する克服として

東洋 特に日本における存在・本質が

クローズアップされています。

 

自分が理解する限り、

理想が先か、その工程が先かという

この2つの存在論の一方を採択せず、

はじめから一緒くただったと見る

東洋的な見方が、

現代思想に一定のインパクトを

与えたようです。

 

ここまで見てきたように、

鳥瞰的な視点を失効した私たちに

取りうる選択肢として、

効果的なテクノロジーへの

向かい方として 、

鳥瞰図的な視点と分解投影図的な視点の

2つの視点の(多重の)折衷を

見出してきました。

 

ここからさらに、

「MIRACLE WAVE」

「Awaken the power」

「WATER BLUE NEW WORLD」と

大きく展開していきます。

 

これらを通じて見出される希望は何か。

1つずつ見てきましょう。

 

この先は単に解釈の問題にとどまらず

仕事への不安など実践的な効果も

見いだせると考えています。

 

潜在的な可能性と偶発的な将来の獲得

 「いま」という内部に対し、

それでもあきらめずに外部を希求するには

どうすれば良いか。

 

その解決手法を提示したのが、

「MIRACLE WAVE」

「Awaken the power」

の2曲だと思います。

 

ここで争点になるのが、

「いま」に対する時間的外部として

「未来」を採るかどうかです。

 

じゃあ未来以外の選択肢は何だというと

これは潜在的なさまざまな現在ですが、

また後述します。

 

まず「MIRACLE WAVE」ですが、

ここでは新しい技能の獲得により、

与えられた「いま」の満足に対する

力強い抵抗が見出されます。

 

つまり現在可能ではないことを

可能にする過程を通じて、

時間的な外部が見出しうるのでは、

という観点です。

 

これも後述しますが、

今のところ機械に対する人間の優位性として

自ら選択し、自分や環境を改変していくという

能力が挙げられます。

 

この曲においては、

千歌役である伊波杏樹さんによって

実際にバク転が披露される

シークエンスがあり、

曲中に大きな反響がありました。

 

f:id:a16777216:20180708223353p:plain

出典:プロジェクトラブライブ!/サンライズ

新しいことを可能にすること。

自分≒内部環境を動的に構築すること。

 

これは機械に対する抵抗のみならず、

単に人間である我々が自生するためにも

重要な動きになります。

 

自らの構築と改変は、

オートポイエーシス的な挙動と

言い換えていもいいでしょう。

 

これを1つの希望とするならば、

作中のアニメだけではなく

技能獲得を現実空間に持ち込むという

リアリティ・身体への回帰を

まさしく体現した希望と言えるでしょう。

 

それも、必然的に当然やるべき課題、

すなわち唯一の最適解へ向かうのではなく、

選択肢の一つとして選ぶ点に、

強い自発性を読み取ることが出来ます。

 

このような決定の自由度についても、

 ゲーム研究やフロー、

 決定論や非決定論を交えた

 多様な議論ができると思いますが・・・

 まあ一旦深入りは後回しにしましょう。

 実践的な意義だけ、後で少し述べます。

 

前述の

『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』

においては、

単に不可能を可能にするという

時間的外部の導入だけでは

不完全だと述べられています。

 

そうではなく、

単に不可能を可能にするのでなく、

潜在的な可能性の1つを可視化すること。

 

この文脈において、

選択肢の1つのしての達成であることが

意味を成し得てきます。

 

この、潜在的な可能性の1つという観点は、

「Awaken the power」において

より強く引き出されます。

 

潜在的な可能性を見据えることは、

雇用のランダム性があまりに高く、

次に何を求められるか分からない

現代市場において、

大いなる意味を持ち得ます。

 

つまり、

偶然・突発的に求められたスキルに

即座に対応できるよう、

いろいろな自分の可能性を温存することで

リスク分散するという話です。

 

動的にリスク分散する生存戦略

過去にもいくつか書いたのですが、

今回のライブによって

かなり具体的なイメージが強まりました。

 

a16777216.hatenablog.com

 

いま・このときの追求と自己組織化的視点

 

人的資本の流動化によって

雇用が不安定になっていることは、

『認知資本主義』を待たず明らかですが、

そのような中で我々の知識・スキルは

どこに蓄積されるのか。

この読解が、上記の認知資本主義によって

恐らく本邦でも最も詳しく

述べられているでしょう。

 

例えば、 業務知識の蓄積場所も、

もはや企業内ではなく

プライベート空間に重きが移っているのでは。

あるいは、

ワインの価値がいい加減にならないためには、

一定の複雑なプロセスが必要なのではないか。

 

こうした私たちの生き方や勤労・消費の関係が

詳しく書き込まれています。

 

私たちは今や、

非常に複雑な情報を、

例えば一企業といった特定の権威のみを

根拠とすることなく、

多数のリソースから選び取る必要があります。

 

こうした中で、

ある意味では生きるヒントさえ与えてくれる、

そう思わされたのが

「Awaken the power」

「WATER BLUE NEW WORLD」

になります。

 

Awaken the power のサビは、

「セカイはきっと

知らないパワーで輝いてる」

という象徴的な文から開始されます。

 

パノプティコン的視点が失効しただけでなく

複雑性の高まりに応じて

唯一の真理・絶対の権威持ちづらくなった

我々に対し、

世界に対しての謙虚な姿勢を示しています。

 

安易な外部の導入を避け、

「眠るチカラが動きはじめる」と

 潜在的な現在に意識を傾けること。

 

これはまさに

『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』

によって示された、

一つの希望ではなかったでしょうか。

 

このように制限を受けた情報に対し、

「始まるときは終わりのことなど

考えてない」として

動的に情報を更新し対応する在り方は、

数理科学的にも合理性を見出せます。

 

特定の収束点を目指すのではなく、

新規情報に対し常に対応を続ける

強化学習

 

あるいは、

時間的・空間的な近隣しか見ず、

モリーを節約しつつも、

それでも全体としてはより複雑な

構造を作り上げる自己組織化。

これらがぱっと思い浮かびます。

 

そして、

この流動的な現代において

いかに自身を適合させるか。

そのヒントは、

「WATER BLUE NEW WORLD」

に引き継がれます。

 

自己物語の通時的構築

 

今がいかに好ましく、

それが重要であっても、

次の何かを探す必要があること

(例えば技術・場所・目標と解釈しました) 。

 

ここまで書いてきた強化学習的な

アプローチは何となく

これまでも認識していましたが、

この「WATER BLUE NEW WORLD」の

力強いメッセージ、

そしてそれを強化する曲調とダンスに、

新しい感覚を埋め込まれました。

 

自分の方針さえも変える程だったというのは

このことです。

 

自分も技術者のはしくれとして、

現在いい仕事をしていても、

常に新しい挑戦は考慮しなければなりません。

 

偶発的なきっかけにも便乗しつつ、

しかし今をなおざりにもせず、

次の展開に向けた鍛錬・学習が

肝要になるのだと痛感しました。

 

もちろんどの選択も偶有でしかなく

それが唯一の正解である保証はありません。

 

しかしそれでも選択し続けることは、

学習し続けるということでもあるでしょう。

 

だから「未来の僕らは知ってるよ

なのでしょう。

 

ミクロな目標だけに左右されず

マクロな目標・選択・一貫性を持つには、

自分の物語を持つことが重要、

という議論が

自己心理学の最先端』によって

なされています。

 

自分自身がどのような選択肢を好むのか。

自分の物語に立ち返ることで、

一貫した姿勢を思い出せるためです。

これこそ、1つの

根拠≒権威と言ってもいいでしょう。

 

また、自己の物語には

もう一つ意義があります。

 

唯一ではない回答に向かって動き、

例え後悔があったとしても、

そのもっと先の未来から顧みれば

新たに意味のある解釈が

できるかもしれない、

ということです。

 

そのようなささやかな

根拠と安心要素を胸に、

これからを挑戦できることが、

私(たち)にもたらされた

もう1つの希望と言えそうです。

 

そして実際、

挑戦をしなければならないでしょう。

あぐらをかきつつあったライフスタイル、

あるいは新しい目標に対する

過度の不安について、

ちょっとした反省を感じます。

 

テクノロジーと向き合うこと。

そのうえで二項対立を克服すること。

唯一の真理がないことを受け入れること。

その上で動的に対応しつつ、

自分の選択と可能性を受け入れること。

今を徹底して追求することで、

結果的に次の目標を浮かび上がらせること。

 

このように、まさに唯一でない方略により

複雑さと閉塞感の社会に対し

抵抗していける。

そのような概念を獲得できたと思います。

 

何万人もを魅了し、

一人一人の挑戦する意欲を掻き立てるライブ。

Aqours はもちろん、

他のあらゆる魅力的なパフォーマンス、

そしてそれらが人々を励ます事態が、

今後も続いていきますように。

 

それでは、ここまでありがとうございました。

 

 

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 @momorin_cloverZ  2018/07/08 最終アクセス

 

 

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2018/07/08 最終アクセス

決断は強化学習とともに これまでとこれから

こんばんは。

仕事も始まってからしばらくが経ち、

色々な決断が必要となる場面も増えてきました。

 

いろいろとご縁があって、

判断、決断、意思といったことを

考えたり、議論したりする機会も

最近多くありました。

 

そんな中で振り返ってみると、 

これまでは、人生を分かつような決断、

院進、恋愛、就職いずれも、

 

人がふつう選ばないようなとっぴな

(選択肢というより)選択の方法論で、

上手く納得できるように

進めてきました。

 

因果関係はさておき、

ともあれ結果的には今、

かなり充実した日々を過ごしています。

 

いっぽうで、

今も躓きが完全になくなるわけでもなく、

 

そしてこれまでも、

やはり様々な苦労や失敗がありました。

 

人に迷惑をかけてきたことや、

反省される点も多々あります。

 

これらを踏まえて、

判断や意思決定における

役に立つ手法やその理論化、

 

うまく行かないことの振り返り、

 

そして理論化していく上で

抑えなければいけない知識の

課題感、

 

そして最後にこれらを顧みて

今後の過ごし方について

考えてみようと思います。

 

以下のような構成で進めていきます:

 

・うまくいった自由な決断

・強化学習と意思決定

・これからさあ、どうしよう?

 

うまくいった自由な決断

 

どちらかと言えば友達も少なく、

非モテで、

目立った特徴も無く、

しかしそれをさほど気にしていなかった

自分ですが、

 

何かと難所を切り抜け、

不満の少ない日々に至っています。

 

勿論、

実家は勉強を後押しする環境であったり、

出会った人に恵まれたりと、

環境要因のおかげがなかったと言えば

嘘になります。

 

とはいえ、

そうした機会をふいにせず、

選択の中で活かしてこれたという自負も、

ある程度あります。

 

その中心にあるのが、

選択の自由だと考えています。

 

具体的には・・・

人間の認識の虚を突くことこそが、

自分の性格とうまくソリが合って

抜け道を見つけてきたのかな、と。

 

さて、この

「人間の認識の虚」とは何か。

詳しく書いていきます。

 

特に就職対象の人気を考えたとき、

それがべき則に従っているものと

仮定しましょう。

 

このとき、我々は

そのヘッド(人気)の就職対象と、

テール(不人気)の就職対象、

どちらに挑むのが好ましいでしょうか?

 

実は上の問の時点で、

既に罠があるということに

お気づきでしょうか。

 

べき則、つまり、ヘッドとテールの間は

グラデーションになっており、

当然中程度の就職対象が

それなりのボリュームをもって

存在しているはずです。

 

ふと気を抜くと、

つい両極端こそが目につきますが、

その二元論に陥ってしまう必要はないのです。

 

これはまた、

フリーさ・アウトローさという軸においても

言えるのではないでしょうか。

 

普通の企業への就職を、秩序の極に置き、

その反対の極として例えば

フリーランスやブロガー、お店の開業などを

考えるとしましょう。

 

さて、この軸においても、

その間を取るような

無数の選択肢が転がっているのでは

ないでしょうか?

 

一応補足すると、

能力的あるいは身体的に、

ヘッドの企業、あるいはフリーの活動に

充分な適性があれば、

その道を阻む理由はないと言えましょう。

 

しかし、自分、あるいは

自分とにたタイプの人間の場合はどうか。

 

そのように考えていったとき、

 

羨ましがられるような名企業ではなくても

自分に合っており、

楽しく誇りを持ってできる

業務内容のところや、

 

フリーではないけれども

半ば社内ベンチャーのようにできるところが、

 

少なくとも自分の場合・・・

開けてきました。

 

これはその手法にも言えることでしょう。

就活サイトを使うでもなく、

かといって SNS 上で知名度を上げるでもない、

さまざまな中間的な(もしくは別次元の)

選択肢があるというのが、

自分の場合やはり見えてきたのです。

 

もちろん、

両極の象徴的な選択に適性があれば、

それをやめる理由はないという点は

変わりありません。

 

さて、

ここまでを一括りにして考えると、

「行動には常に一定のランダムさを持たせる」

とまとめることができるのでは、と

考えています。

 

ヘッドのものや、

何としてもなりたいもの、

あるいは王道の方法論を中心に、

ほんの少しブラしてやるのです。

 

何としてもなりたいものが独立なのであれば、

 これをヘッドとして一般の企業をテールとする、

 という見方もできますね。

 同様に、何としてもなりたいものが研究者である場合にも、

 研究者と非研究者の中庸の選択肢が存在しているという点で

 概ね同じようにこの議論が適用できると思います。

 私にとっては研究者もまた象徴的な憧れでありました。

 

 また、少し脱線しますが、

 このような二元論になりやすい構図には美点もあって、

 皆がそのように考えやすいからこそ

 虚を突けば倍率の低い所を狙い、

 成功率を高める可能性が高い、と言えると思います。

 また、別の観点から、

 実は成功率が高いんだけれども

 みんながやろうとしないがゆえにみんながやりたがらない、

 そういう自己循環になっている選択肢も

 案外多数転がっているように思います。

 そういうところこそ穴場ではないでしょうか?

 

このような選択肢の持ち方を

私が支持している理由は、

複数あります。

 

便利な強化学習の活かし方

 

 まだまだ勉強は途上ですが、

強化学習を学ぶようになってから事後的に、

自分の選択のやり方がこれに似ている点を

痛感し始めました。

 

一定のランダムさを加えながら、

就職先空間を探索し、

その結果の良しあし(合う合わない)を

都度フィードバックする。

 

これによって、下記の5つのトラップを

回避できると思います。

①期待と内実のギャップ

②望んだとおりにいかない挫折

③小高い丘に留まってしまう

登ったはずの丘が段々沈降してしまう

⑤似た失敗をする 

 

①期待と内実のギャップ。

 

高難易度にも関わらず果敢に挑み、

仮に思い通りにいったとしましょう。 

しかしそれが期待に添わないものであったら。

 

あるいは②望んだとおりに

それを手に入れることができないなら。

 

そのときに次の一手を失わない、というのが

強化学習の醍醐味という訳です。

 

高難度のそれを目指したという行動について、

その見返りの小ささあでれ、

その成功率の小ささであれ、

失敗に基づき低い評価に更新します。

 

そしてその低くなった評価よりも

まだ幾分マシな残った選択肢、

なければランダムに次の選択をあげる。

というわけです。

 

手に入ったもの≒環境を変化させるように

 働きかけるという探索もあり得ますが、

 これも強化学習の枠組みに近い対応と言えるでしょう。

 

③小高い丘に留まってしまう

④登ったはずの丘が段々沈降してしまう

 さて、こちらの2つは、

一度選んだ選択をランダムに破棄する場合、

現実では一定の時間的・社会的コストがかかるため、

直接あてはめられないところがあるため

やや慎重に議論する必要があります。

 

極端な例で、少なくとも言えるのは・・・

この選択を破棄するのに 10 のダメージがあるが、

今のままでは毎年 6 のダメージがある。

という場合は2年後を考え、

新しい選択肢を(例えランダムにでも)

生成する形が良いと言えるでしょう。

 

ところで、世の中には無数の選択肢があるため

1つ1つを評価し、そのつど破棄していくのでは

時間も足りないし身も持ちません。

 

そこで使える手法が「一般化」ですね。

要素の組み合わせが類似しているものは、

まとめて評価を上げ下げするのです。

これにより⑤似た失敗 を予防できます。


ただしその粒度をどの程度にするか?は

人類全体に残された課題、と

いったところですね。

 

ところで、

こうした「ほんの少しのランダムが適切だ」

という議論を支持する話題は、

もうちょっと色々あります。

 

1つは複雑性。

複雑性を測る指標はさまざまで、

統一的で唯一の指標があるわけでないことは

Wikipedia を見るだけでも明瞭なのですが・・・

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%9B%91%E6%80%A7

 

秩序 vs. 無秩序 の間、

すなわちランダムさが中程度のときに

複雑さが最も高まる、という見解が

(自分の観測範囲では)

普遍的に見られるように思います。

 

例えば人間の社会や建造物。

これは完全に規則的な結晶でもなければ、

完全にランダムな砂の模様のようでも

ありませんね。

 

もう1つは自由意志。

「どうしてもやりたい」ことだけをやる。

これって自由のようでいて、

その1つの選択肢に束縛されており、

実は不自由ではないでしょうか。

 

特にそれが本能による先天的な欲望の場合や、

反射的な欲望の場合、

(その人の歴史に基づく場合は後天的ですが、

 それが根深すぎて常に一択をとってしまうなら

 これもまた不自由の源と言えるでしょう)

ほとんど自分の意思が介在されていないような

状況になってしまいますね。

 

もちろん完全なランダムもまた

自由意志とは言えないでしょう。

 

もっとも、やりたいことに一意専心するためには、

 恐らくそのプロセスには様々な工夫、

 あるいは環境作りが求められるため、

 一つの目標を遂行すること自体は、

 全体的なプロセスとしてみれば

 多くの自由意志が介在されるように思われます。

 この辺の境界線を見極めるには

 かなりの文献が必要になりそうですので

 深入りしないようにしますが、

 少なくとも、このようなプロセス全体への専念が

 反射的な不自由でないことは明らかでしょう。

 

さて、こうした自由意志の議論については

古くからかなり多くの研究があるようです。

 

ここで上で述べてきたように、

こうした自由意志についての人文科学の議論が、

どうも複雑性といった定量的な議論と

近しい部分を持つように感じられます。

 

これこそかなりの文献や論文に基づき

追求していきたい1つの課題ですが、

今回はいかにも伏線、という雰囲気を残し

このあたりで留めることにします。

 

また、ランダムさの中庸とは無関係ですが、

心理学の議論も抑えたいところです。

 

不安などのネガティブな感情は

判断を冷静にし、分析的にするという

適応上の効果があるようです。

 

が、どの選択をしたから失敗したのか

理由が分からない状態に、

学習性無力感が生じやすいようです。

 

これはやや解釈を一般化すると・・・

適切なフィードバックを得られる選択がなく

学習自体ができなくなってきたときに

生じる、と言えないでしょうか。

 

 

この仮定を受け入れるなら、

精神衛生を健康に保つために、

(ランダムさはともあれ)

次の選択肢が無くなってしまわぬよう

常に手を打っていくのが

良いのかもしれません。

 

これからさあ、どうしよう?

さて、ここ最近はうまく力を出せるよう

所属、自分自身、そして接し方を

工夫してきたと思います。

 

それとの正の相関は明らかではないですが、

少なくとも公私充実しており、

これまでの中で今が一番いい、

という状態が続いてきてはいます。

 

しかし、この荒れ行く時代、

安寧秩序を破るような影は

いつでも忍び寄ってきます。

 

仕事の経験も多少積もる中、

年齢とともに新たな難題も

それなりに群生しだし、

今を脅かし始めています。

 

永遠にお湯というお風呂は無く、

何かを変えなければ

居場所と言うのは沈みゆく、

そういうものなのでしょう。

 

これからいったいどうすれば。

 

見出しで引用している

映画のワンシーンのように、

 

大きな発展を感じるような

前向きな驚きと拡大ならいいのですが、

 

しかし実際急速に拡大するのは

実力に比して求められる量・質や

それについて考えふける自分、

そんなものばかりですね。

 

さてこれを受けて、

打てる手としては。

 

やはり選択を広くとらえ、

さらにこれまでよりはもう少し

広い観点から見てみる。

 

目指すべき(良いと思われる)状態の

再定義。

「得意」「不得意」とラベルしている

カテゴリの仕方の再編。

 

そういったところでしょうか。

 

このように学習の枠組みをより広くすることは、

 元来の強化学習のでは未対応かと思います。

 そういう意味では機械学習を考えるうえでも

 興味深い点になりますね。

 

自分は勿論、環境も、

変え続けることが必要と思われます。

 

環境を移ることも選択肢だし、

移らないなら移らないで、

今の居場所を変化させる。

 

環境を何も変えない、という手は

あまりないでしょう。

 

外部環境から受信するだけでなく、

自分に合うように外部環境を調整する、

それがシステムだ、

といったところでしょうか。

 

しかし一方で、

常に自分や環境を変える努力が必要なことは

嬉しいこととも思います。

 

勉強や自己鍛錬が単なる趣味で終わらず、

それを役立てる機会にあふれており、

言い換えれば勉強もまた

それが故に一層はかどる構造です。

 

そして不安定な環境であるからこそ

創意工夫の意義も高まります。

 

それに、極限状態であるからこそ、

通常では繋がることのなかったような

コミュニティ、

目的、

そして新たな自分の在り方が

生まれる。

というのが、

様々な物語が示唆するところであります。

 

直近では例えば・・・

tojinomiko.jp

yorimoi.com

 

言ってみれば時代そのものが

不安定であることが、

常に成長に意義を与え続けており、

いい機会とも言えそうです。

 

また誤解を恐れずに言えば、

こういう状況こそ、

自分のような・・・定型的でない人間が

より力を発揮しやすいように思います。

 

不得手な題目が突如増えることもあり、

時として自信を失いかけることも

ありますが、

今となってはそれが一過性のものであると

もうわかっているため、

いい機会だと思って受け入れるだけです。

 

このように、

メタな意味での環境を大事にしつつ

やっていこうということで。

 

今回はここまでにしようと思います。

 

こうして自伝的にすること自体に

メタな意義があるという狙いもありますし、

またこのように解釈し直す

「認知的再体制化」の効果も

知られているところではありますが、

これらはまた別の機会に。

 

実用性のあることを考えると

学術からは離れていると思えるし、

バランスが難しい所ですが・・・

少しでも面白い話になっていれば

幸いです。

 

それでは、

ここまでありがとうございました。

 

 

参考文献

 

強化学習

強化学習

  • 作者: Richard S.Sutton,Andrew G.Barto,三上貞芳,皆川雅章
  • 出版社/メーカー: 森北出版
  • 発売日: 2000/12/01
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自己組織化-自然界の法則に学ぶ未来のエンジニアリング-

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中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

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しかめっ面にさせるゲームは成功する 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン

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ルーマン 社会システム理論 [「知」の扉をひらく]

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  • 作者: ゲオルククニール,アルミンナセヒ,舘野受男,野崎和義,池田貞夫
  • 出版社/メーカー: 新泉社
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感情心理学・入門 (有斐閣アルマ)

感情心理学・入門 (有斐閣アルマ)

 

 出版社ページ

 

 レーベルページ

 

複素関数の中の小さなゲーム 開発日記

こんにちは。

 

いきなりですがごめんなさい、

SNS 等でもお知らせしましたが

以前の記事に誤りがあったため訂正しました。

 

 達成型(♦)、探索型(♠)、交際型(♥)、殺人型(♣)

について、

誤:サットン=スミスの分類

正:バートルの分類

 

------------------------------------------

 

さて。

冬は手が寒くて PC がはかどりませんね。

 

そうはいっても世の中には興味深いことが

尽きないので、

1つ1つ進めていきましょう。

 

今回は、以前こっそりと公開したゲーム、

"The Defense on Complex" について、

つまり複素関数をギミックにした

ゲームについて、

少しその背景を振り返ろうと思います。

ゲームのリンク(無料ホームページレンタルです):

http://kyotorisuu.toypark.in/contents/game/leaf/

 

数学から感じるミステリアスな魅力

最初に言っておくと、

私はどちらかというと物理の人で、

かつ、その中でも大学院ではそれほど、

地に足着いた知識を固められては

いませんでした。

 

なので数学と言ってもまだまだ

山のふもとの方にいる状態で、

語れることも限られています。

 

ですが、

その入山口から少しばかり進んだ所で、

早くも謎めいた魅力に

エンカウントしました。

 

(といっても高校時代の数学は辛く、

 そこに辿り着くだけでも

 小から数えて10年以上ではありました。)

 

さて、その道の先に何があるのか

まるで予想もつかないが、

しかし大いなる何かを記述できそうという

予感だけははっきりと感じる。

 

その「枠組み」というか、

気付かずにいた空間そのものの歪みを

明かしてしまうかのような所?

(今改めてそのワクワクを言葉にすると

 このような表現になるでしょうか。)

そこに、惹き込まれたのでしょう。

 

大丈夫、おぼえてる。名前は… 二葉のリーマン

 

さて、複素関数については

入門書くらいは分かるようになり、

量子力学のための特殊関数などを

習っていたときのことです。

 

どうも複素関数では、

その平面上を1周回ってきても

同じ場所に戻らない場合

あるんですってね。

 

積分路などの詳しい議論については

ここでは深く立ち入らないことにします。

 

が、ともあれ

原点の周りを一周回って

戻ってきたつもりでも、

裏面に行ってしまうという事態が

あるわけです。

 

とにかくこの複素関数というのが

2次元を2次元へ写像するわ、

直角から直角にすることが

不思議と重要視されるわ、

積分の定性的な意味もいまひとつ

つかみきれないわで・・・、

 

しかし、謎が多いからこそ

魅了される側面もあるでしょう。

 

積分や直角、2次元という、

あるていど既知の道具で

説明されるからこそ、

 

かえってその未知の組み合わせに

幻惑されるのかもしれませんね。

 

しかし!これだけの謎に

満ちているにもかかわらず、

幸い、2次元上に描けるのです。

(少なくとも、基本的な構造が。)

 

絵に出来るというだけで、

分かりやすさは全然違いますよね。

 

であればこの謎めいた性質を

少しでも描いて表現したい。

 

裏面に行ってしまうという事態も

含めて。

というのが初動でありました。

 

遊びの定義における固定と自由

さて今回も例によって

 『ルールズ・オブ・プレイ ㊦』より

引用していくと。

 

遊びとは、

固定した構造の中の自由な動き、

と広く定義されるという形です。

 

このうち、この複素関数には

・固定としての構造の良さ

・自由(抵抗を含む)の魅力

の、双方がありありと感じられます。

 

順を追って書いていきます。

 

前回書きましたように、

数学や数理科学は、

色々な設定値およびその影響が

定量的に設定でき、

ゲームの題材として適切と思われます。

a16777216.hatenablog.com

 

( 一方でデジタルゲームのほうは、

 人の頭の中では覚えきれない、

 あるいは同時に処理しきれない量の

 中間値などを保持できるため、

 数理科学を表現する媒体として

 適切と思われます。

 

固定されたルールを持っている点で、

ゲームの要請を

デフォルトで満たしていますね。

 

今回は、通常の直線だけのグリッドでは

表現しえない、歪んだ2次元を

描けるという点で、

数学によって従来の固定されたルールが

拡張され得ます。

 

 複素解析という数学の一分野が

固定されたルールを生成するのに

有効である、ということを確認しましたが、

一方、面白さへの貢献はどうでしょう。

 

これは例えばカイヨワの4分類では

「イリンクス(めまい)」に近いと

思われますが、

イリンクスの説明としては

身体感覚が主に強調されているため、

ここでは関連性の推測にとどめます。

 

ここで言いたかったのは、

方眼紙のように規則的な

正方格子では表現し得ない、

歪んだ操作感がもたらしうる魅力です。

 

しかし、ここまでの所だけであれば

単に操作が難しいだけのゲームに過ぎず、

「二葉のリーマン」が手続きとして持つ

特殊性も、ほぼ反映されていません。

 

そこで、多少安直ではありますが、

「裏面」に行ってしまった場合には

登場人物の性質が変わるように

してみます。

f:id:a16777216:20180203181003p:plain

パックマンをヒントにし、

条件を満たしたときのみ、

ここでは互いに裏面にいるときのみ、

敵勢力を撃破できる設定にしています。

 

ホントは複素積分の直感的な意味とか、

微分可能の何たるかとか、

やりたかったですが・・・、

今はまだ断念。

 

さて、これでゲームの骨格が整いました。

しかし、これでほんとに面白いでしょうか。

 

これがゲームであるために・・・

単に敵から逃げれば死なないのなら、

上図のように苦労して

敵勢力を撃破する必要があるでしょうか?

 

いつも引用しているイェスパー・ユールの

6分類を用いるまでもなく、

努力が結果にいい影響を及ぼすことで

面白くなるのは当然と言えましょう。

 

ここでどうせなら時流を生かし、

ゾンビ論の議論を反映してみましょう。

 

『メディア・コンテンツ論』の岡本健さんや、

『新世紀ゾンビ論』の藤田直哉さんの

議論を踏まえ、

ゾンビ映画のフォーマットを一般化して、

「攻め込まれている拠点を防衛する」

ととらえれば、

 

映画の他にもマンガ・ゲームに一貫し、

相当数の作品が該当する、

近年の流行りと言えるのでは

ないでしょうか。

 

これも安直な援用にはなりますが、

拠点に攻め入られたらアウト、

というルールを追加します。

 

これで、努力して敵を妥当しに行く

積極的な動機が出来ました。

 

かくして、曲がりなりにも、

数学的背景、文化的背景を参照しつつ、

ゲームとしても動機を持てるものに

なったのではないかと思います。

 

数学へのコミットメントとしても、

・2周しなければ戻ってこれない

・歪んでいても直角が直角のママであれば、

 元の空間に復元できる

という、ほんらい直感から遠い概念を、

体験のレベルにできたのではないかと。

 

2つ目のほうを補足すると、

 このゲームにおけるグリッドが

 ゆがみを持ちながらもそれぞれ

 直角に交わっているところに注目ください。

 ざっくり言えばこの性質のおかげで、

 上下左右キーで異なる場所に移動すれば、

 画面上でも対応するどこか別の場所へ

 移動することができ、かつ、

 画面上の位置に対応して、

 手元の上下左右で操作できる元の位置も1つに定まる。

 ということになっています。)

 

大学生の頃に感じたあの驚きも、

多少なりとも形にできたかなと。

 

今後の課題としては、

自分としても直感的な理解が難しく、

何とか表現したい積分値。

あるいは微分可能性

 

あるいは、集合・位相や体論など、

他の数学の基礎概念の体験化。

 

もちろん自分一人では

すべては着手できないため、僭越ながら

後続のクリエイターのかたが

現れるのに貢献できればと思います。

 

それではここまで、

ありがとうございました。

 

改めて、そのゲームのリンクです。

http://kyotorisuu.toypark.in/contents/game/leaf/

 

作り方は JavaScript と enchant.js ですね。

 

参考文献

物理のための数学入門 複素関数論

物理のための数学入門 複素関数論

 

出版社ページ: 

物理のための数学入門 複素関数論 / 有馬 朗人 神部 勉 著 | 共立出版

 

物理のための応用数学

物理のための応用数学

 

出版社ページ:  

<書籍紹介> 物理のための 応用数学(小野寺嘉孝 著)【物理学】

 

ルールズ・オブ・プレイ(下) ゲームデザインの基礎

ルールズ・オブ・プレイ(下) ゲームデザインの基礎

 

出版社ページ:

SBクリエイティブ:ルールズ・オブ・プレイ(下)

 

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

 

 出版社ページ:

half-real - New Games Order, LLC.

 

メディア・コンテンツ論 (シリーズ メディアの未来)

メディア・コンテンツ論 (シリーズ メディアの未来)

  • 作者: 岡本健,遠藤英樹,柿崎俊道,山田奨治,井手口彰典,岡井崇之,須川亜紀子,レーナ・エーロライネン,前田至剛,平侑子,増本貴士,鎗水孝太,山村高淑
  • 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
  • 発売日: 2016/06/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

 出版社ページ: 

メディア・コンテンツ論 - 株式会社ナカニシヤ出版

 

新世紀ゾンビ論: ゾンビとは、あなたであり、わたしである (単行本)

新世紀ゾンビ論: ゾンビとは、あなたであり、わたしである (単行本)

 

 出版社ページ:

筑摩書房 新世紀ゾンビ論 ─ゾンビとは、あなたであり、わたしである / 藤田 直哉 著

 

 

 

 

ブログのタイトルと、アニメに隠れたメッセージへの敬意

速いもので、

およそ月一でゆるゆるやろうと思って

ブログを始めて以来、

かれこれ1年ちょっとが経ちました。

 

ところでこのタイトルですが、

ブログを始めるまえに

子1カ月ほど迷った甲斐あり、

今でもなかなか気に入ったものに

なっています。

 

それで今回は、

このタイトルについて

振り返ってみたいと思います。

 

アニメ、とりわけ少女にもらったエネルギー

私は実際かなり後発隊なのですが、

 スクフェスを人がやってるのを見たり、

アルバムを借りて聞いたりしているうちに

 ラブライブにハマり

(元祖2期も終わって改めて1期の再放送が

 なされていたころのことです)、

 

以来仕事にせよ趣味の活動にせよ、

「こんな風に自分も頑張らなければ」と

奮起させられてきました。

 

この想いを多少なりとも

形にできないものか。

 

このような経緯より、

ブログのタイトルは上記にちなみつつ、

さらに対立概念同士をうまく並べることで

整合性のとれたものを目指しました。

 

まずは

格言などによく見られるパターンとして、

x のように p し、 y のように q しなさい。

という型で考えることに。

 

まずは対立軸の片方に、

スクールアイドルを髣髴とさせる

「少女」を置きます。

 

そして、対立するものとして

「機械」を。

 

これはもちろん機械学習を示唆しており、

個人的な機械学習への関心を

この場で適宜書いていこうというフラグです。

 

スクールアイドルと学習の射程

 

さて、では、機械学習を通じて我々は

何を理解すべきでしょうか。

 

これを包括的に括ろうとするならば、

「時間」「空間」といった

2軸がまず考えられるでしょう。

 

ちょうどこのころ

ベルクソンの入門書を読んでおり、

その影響も受けてのことです。

 

そしてラブライブを暗に示唆しながら

これを表現するのにうってつけなのが、

「いま」「ここ」

というわけです。

 

togetter.com

 

この momorin さんの感想まとめが好きで

よく拝読しているのですが、

そのまとめによれば

 

「スクール」アイドルであること、

つまり学校に所属している前提であるがゆえに

有限の時間のなかで取り組む必要があり、

かつそれが貴重であることが

読み取られています。

 

togetter.com

 

だからこそ「いま」「この場所」が

繰り返し問われるわけです。

 

そして「いま」「ここ」を起点にする、

つまりそれらを最重要視する事は、

機械学習の一種である

強化学習にも通じるでしょう。

 

であるがゆえに、

このブログのタイトルに含ませたいと

確信してきたわけです。

 

少女と機械とを通じて

我々が再認識するのは、

「いま」と「この場所」の重要性です。

 

類似性の危険と、対比によるアース

しかしながら、

機械と少女の類似性に着目しすぎると、

独自の隘路に入る危険もあります。

 

そこで、

隷属といった負のイメージとは

全く異なる、

別の共通点に焦点を合わせるよう

考えてみます。

 

そして、これはまぐれなのですが・・・

興味のおもむくままに「敢えて、

 一見逆っぽく組み合わせてみよう」

という試みをした結果、

 

ちょうど解消しあう形になりました。

 

つまり、

少女が機械のように隷属されるのではなく

機械が少女のように生き生きと、

そして主体的・創造的に振舞うさまを

表現できたと思うのですね。

 

「機械のように今を輝き、」

つまり機械だって「輝く」すなわち

人々との相互作用を通じる中で、

今を充実させてよいのです。

 

というか、

人間との相互作用を通じて

何かを見出すこと・・・

ありていに言えば「自己実現」を

定義するような機械が、

(1つの方向性として)

求められているのではないでしょうか。

 

そして、

文字通り物理的に発光する物体で

我々が最もよく見ているものは、

まさに機械ではないでしょうか?

 

 

では、

「定義」のほうはどうでしょうか。

 

これこそまさに

機械の得意ワザに見えるし、

機械がモノを理解するのに

必須の概念と言えます。

 

が、実際にモノゴト、

言葉や概念を定義するのは、

これはむしろ少女ではないでしょうか。

 

資料をきちんと当たれていませんが、

女子高校生を中心とする少女によって

日々新しい概念、価値観、括りが

定義されているのは

周知としていいのではないでしょうか。

 

また、少しラブライブに戻りましょう。

 

その前に1つ、

ベルクソン=時間と空間の哲学』に

基づく考え方ですが。

「前よりも果物が甘くなった」とき、

変化したのは果物のほうか、

それとも自分の味覚のほうか。

 

こう考えていくと、

案外モノの定義というのはいい加減で、
(その分柔軟性が高いとも言えます)

その内容がすっかり変わってしまっても

同じ名前で呼ばれ続けるわけですね。

 

三宅陽一郎さんの先日の講演

テセウスの船という話題がありましたが、

修理のたびに船の一部ずつパーツを入れ替え

ついには船の100%が入れ替わったとき、

それでも・・・

その船は同じ名前で呼ばれますよね。

 

ようやくラブライブに戻りますが、

ユリイカのアイドルアニメ特集号にて。

目まぐるしく変わりゆく秋葉原の街を

「この街」と呼ぶ彼女たちが、

ついにはニューヨークのことを

秋葉原と似た)「この街」と

呼び始めるわけです。

 

「いま」「ここ」をこの街として定義し、

その定義は彼女たちが移動することで

越境し拡張されるわけですね。

 

この意味でもまさに「少女」によって

「いま」「ここ」が「定義」されます。

 

長くなりましたが、

このように趣味全開でスタートした

「機械のように今を輝き、

 少女のようにここを定義せよ」、

今後もよろしくお願いします。

 

ここまでありがとうございました。

 

鉄道ゲームの考察も近々したいですが、

そのためには美の起源なども

やはり学んでおきたく・・・

なかなかモノを述べるのには

時間をかけないといけませんね。

 

参考文献

ベルクソン=時間と空間の哲学 (講談社選書メチエ)

ベルクソン=時間と空間の哲学 (講談社選書メチエ)

 

出版社ページ 

 

高瀬司 (2016) 「スクールアイドルの輝きの向こう側へ 『けいおん!』から読む『ラブライブ!』」, 下記 pp. 149 - 167

出版社ページ 

 

@momorin_cloverZ 【ラブライブ!1期】8話感想まとめ。―いまを生きている(Live)ことを全力で愛する(Love)こと 2017/01/22 最終アクセス


@momorin_cloverZ 【ラブライブ!2期】1話感想まとめ。―『奇跡』だって叶えてみせる 2017/01/22 最終アクセス

 

三宅陽一郎 明治大学「ゲーム研究の新時代に向けて」講演資料(上)2017/01/22 最終アクセス

自然科学を堪能できるゲーム

こんにちは。

先日のアドベントカレンダー

数学とゲームの接点について

意外と反応をいただいていたので、

 

 

その延長で、自然科学全般をゲームで体感?

できるかについて考えていきたいと思います。

 

社会科学については

以前のこの記事が近しいかと思うために

一旦見送ります。

 

a16777216.hatenablog.com

 

 

さて、 まずは有名どころから。

直近の典型例と物理シミュレーション

 

どうも自分は流行りをスルーする癖があって

未プレイである点が今悔やまれますが、

これ。 

store.steampowered.com

 

 

宇宙船の物理シミュレーションだけでなく、

試行と失敗を繰り返して

目的へと到達していくらしい

このゲームは、

そのプロセスまでも含めて、

自然科学的と言えるでしょう。

 

下記のような橋の建造ゲームもあるようで、

こちらもよく目にしますね。

store.steampowered.com

 

さて、ようやく1つめの

既プレイゲームです。

store.steampowered.com

 

競って素早く要塞を作り、

兵器をバシバシ打ち合うこのゲームは

まさに「男の子ってこういうのが

好きなんでしょ?」と言わんばかりですが

 

デフォルメされた司令官たちは愛らしいし、

それに↑のようなプロトタイプ論はまあ

言葉遊びにとどめておくとして、

ともあれ性別を問わず

楽しい時間を提供してくれるゲームと言えるでしょう。

 

f:id:a16777216:20171213222814p:plain

 

魔法陣グルグルにおける

 アラハビカ防衛戦なんかでは、

 あっこういうのに混ざりたい・・・と

 思わされたものですが、

 そういうワイワイに混ざれるかはさておき

 防衛設備の建設と砲撃とを合わせ持つ展開には

 (これに物語ができ、介入できるなら尚更)

 心踊らされるものがあります。

 

そしてなんとこれら3ゲームとも

日本語対応!

 

このように言うと

意外に感じられるかもしれませんが、

 

Steam でゲームを探していると、

比較的よく耳にするゲームであっても、

英語版しか手に入らないことのほうが

多いように思います。

 

 

さて、少しマイナーなところまで

掘り下げてきました。

 

物理というのは、その法則が比較的明確なためか、

(単に動きの再現に用いられるだけでなく)

ゲームのルールの中核に来ている場合が

比較的多くありますね。

 

スマホ・無料で比較的手をつけやすいものには

こんなものもありますし。

gigazine.net

従来のテトリスでは基本的には連鎖というものが

ありませんでしたが、

こちらは難しい反面一度連鎖が生じ始めると

それなりに続くことが多く、

なかなか爽快です。

 

宇宙との組合わせではこんなものも。

store.steampowered.com

 

円軌道を描くには地面に対して水平に

速度を持っていなければならない、

なんてことも直感的には忘れてしまっていました。

それを感じさせてくれるのも

宇宙の舞台ならではと言えますね。

 

 

さて一方、サンドボックスがらみにおいては

物理シミュレーションのゲームが

かなりの数あるようで、

まだプレイできているものも少ないですので

物理についてはぼちぼち終わりにしようと思いますが、

 

最後に1つ。

ここまで挙げたのは現実の物理法則

モデルになっているものでした。

 

DiGRA の 2015 年の大会で、

尾田欣也先生という方の講演で

印象に残っている言葉があり、

それは

フィクションにはフィクションの物理法則がある、

という内容のものだったと記憶しています。

digrajapan.org

 

架空の法則であっても、

その法則の中で閉じ、

一貫性と整合性が担保されていれば

(現実とはパラメーターの異なる)

物理法則として意味を持ちうるわけなんですね。

 

そのような法則とともにゲームを考えることには

大変な魅力を感じます。

 

 

ところで思い出してみれば、

特有の物理法則を持っている直近の例も

存在しますね。

www.jp.playstation.com

 

このシリーズでは、

主人公キトゥンとその周辺の重力を、

好きな方向へ変更することができます。

 

1のほうはプレイしましたが、

決して設定の奇抜さにとどまりません。

 

広大で(2ではさらにその2.5倍とも!)、

重力が操れることともマッチするマップ構成や、

アメコミ風のストーリー進行など、

それぞれの要素が調和しており

ゲームとしての完成度も感じました。

 

自然の/とのインタラクション

 

さて、では、

生命や化学、地学などの自然科学を

堪能できるゲームはあるでしょうか。

 

古典的な名作としてシムアースやシムアントは

言わんやですが、

 

閲覧注意(蟻の絵がリアルのため)の

下記のようなゲームが発売されていることが

目に留まります。

Empires of the Undergrowth on Steam

 

あるいは、生態系のコントロールという

意味ではこちら。

 

store.steampowered.com

 

ここでは、「成る」「生じる」「自生する」

という意味での自然に当たるのは、

むしろ人間のほうですが笑。

 

(このような「自然」の定義は、木田元さんの

 反哲学史精神の哲学・肉体の哲学より。)

 

生命、資源、あるいは人間が

ときには自発的に生み出されて相互作用し、

その多寡のバランスが影響し続ける点は、

 

(生態系の本質的な部分が、ゲームを

 面白くするためのルールに組み込まれていると

 言えそうですし、)

 

シムアースの良さを継承したゲームとも

言えるのではないでしょうか。

 

(ところで、

 自然に繁殖するものを管理するという視点でいくと、

 実は鉄道ゲームや街づくりゲーム、会社経営ゲームこそが

 生命シミュレーションに近しいかもしれませんね。)

 

さて、広くライフゲーム的なゲームについても

議論の余地が大いにありますが、

過去にも多少述べましたし、

ここでは深入りしないことにします。

 

 

さて、ゲームからは少し脱線しますが、

生命の定義については下記の1話が

示唆を与えてくれます。

anicobin.ldblog.jp

 

2017年秋放送中のこのアニメ、

どの話数においても内容が示唆的ですが、

 

この9話では特に生命の定義について、

ほとんど誰でも直感的にわかるように

豊かな映像とともに説明してくれます。

 

そして、

「生命とはなにか?」という問いへの

回答を考えるという遊びへと、

初心者から上級者まで誰でも楽しめるように

いざなっています。

 

自身を維持するものを生命とするのであれば

都市もまた生命。

 

ゲームの話題に戻りましょう。

 

上のようなことを考えてみると、

ゲームというのは、人工物の中でも比較的

人工生命の先端にあるように

思えてきます。

 

予想だにしない動きを自発的にすることに、

商売というモチベーションがある。

このため人間はその開発と研究に力を注ぐ。

そしてプレイヤーの行動という教師・情報源が、

サーバーの稼働中に常に与えられます。

 

一方で、人間から学習しないほうが

 強い AI プレイヤーになったという

 悲しい事例も聞きますが・・・

 より情報が抽象的であったり、

 あるいはランダム性を含んでいたり、

 情報の一部が非公開であったりする環境では

 機械のオリジナリティに人間がいい影響を

 与えられるかどうか。

 今後の研究や制作の動向が気になるところです。

 

これを一段階大きく括って、

遊びと知性の関係を考えることもまた

非常に興味深いところですが

ホモ・ルーデンスという言葉もありますし)、

これはまた別の機会に。

 

今後も、自然、あるいは生態系のメカニズムを

取り込んだようなゲームの出現があるか

引き続き着目していきたいと思います。

 

作者やプレイヤーの意図を超えて

結果やバランスが自然に生じるというのは

構造としてきれいだし、

適用・応用への期待がたかまりますね。

 

今や鉄板、情報系とゲーム

ここ最近、

ゲームでプログラミングが学べるという話を

よく聞くようになりました。

 

しかしこうした学習目的だけでなく、

ゲームとしての面白さを重視したであろうもので

プログラミングに近しいものが

多いこと、多いこと。

 

Steamではド直球で、

「プログラミング」というタグがあるほどです。

 

これを書いている今、タグのリンクが

なぜかうまく機能していないので、

代わりに検索結果のリンクを張ります。

http://store.steampowered.com/search/?term=%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0

 

プログラミングの面白さ自体が、

ゲームに近しいところがあるのでしょうか。

 

これは以前、『ハーフリアル』における

ゲームの定義を、

私が分かりやすく感じる言葉で書いたものですが、

 

1. ルールを持つ。

2. 結果が明確で、かつ結果を変えられる。

3. それぞれの結果に、良い・悪いなどの意味が与えられている。

4. 努力が影響を及ぼす。

5. 人が結果をまじめに受け止める。

6. 現実に与える影響を、自由に着け外しできる。

 

この6つのうち、6.以外の5つが

プログラミングにも共通していそうですね。

 

ゲームというのはそもそもプログラムなので

構造上近いのはある意味当然かもしれませんが。

 

その改題解決のプロセス自体にも

共通の面白さがあるかどうかは非自明ですし

発見があります。

 

パズルに特化した面白さの考察については

 『パズル本能』という本がありますが、

まだ読めていないので、

ともあれそうした関連性の指摘がある点だけ

挙げておきます。

 

まとめ

ゲームによって自然科学が学べるような

ものだけでなく(もちろんそれも重要ですが)、

 

ゲームとしての面白さを追求するために、

自然科学の特長がうまく活用されているものが、

多数あるのを見てきました。

 

典型的には物理や情報、

そしてときには生物(学)の知見・性質が

面白い・好ましいルールの実現に役立つのは

嬉しいとともに興味深いことです。

 

しかし必然のようなところもあります。

 生態系等の場合、

 現に持続可能性を実現しているモノゴトに

 横たわる法則であるからこそ、

 それをゲームに適用したとき、

 あっさり決着がつくようなアレなゲームでなく、

 最後まで誰が勝つか分からないような

 白熱したゲームにできるポテンシャルがあると、

 そう言えるわけなんですね。

 いい法則というのは自然界にたくさん落ちているので、

 使える材用としては申し分ないのかな、

 という側面がありそうです。

 

これにはいろいろな有意義さがあって、

第一に、

長い歴史の中で人間が見出してきた知見が

科学や、実用性(つまり技術?)だけでなく

遊び(つまり文化?)に用いれるのは、

一度で二度おいしいことだし、

創作の地平線と多様性を推し進めるうえでも

十分なリターンがあります。

 

第二に、

学習目的というよりは

純粋に楽しむために手を付けたゲームから、

自然科学を直感できるチャンスがある、

ということです。

 

さらに考えうる良さとしては、

「ゲームの空間内の自然科学」というのが

研究になる余地が垣間見える点ですね。

 

ゲームにおいて(ゲームを楽しくするために)

独自に定義される、

現実と異なる自然法則が、

もし非自明な現象を生み起こしたら

どうなるか。

 

研究に役立つとしら勿論嬉しいし、

個人的には、

そうしたことの生じる可能性自体に

大きなワクワクを感じてしまします。

 

ゲームの中でやはり(楽しさという)必要に

かられて AI 研究も進んでいると

見受けられますから、

こちらについても期待が膨らむところです。

 

長くなりましたが、

そのような期待と伏線を残しつつ、

今回はここまで。

ありがとうございました。

 

参考文献

※労力対効果を鑑みて、この埋め込み形式を試してみます。

反哲学史 (講談社学術文庫)

反哲学史 (講談社学術文庫)

 

 出版社ページ:『反哲学史』(木田 元):講談社学術文庫|講談社BOOK倶楽部

 

精神の哲学・肉体の哲学  形而上学的思考から自然的思考へ

精神の哲学・肉体の哲学 形而上学的思考から自然的思考へ

 

 出版社ページ:『精神の哲学・肉体の哲学 形而上学的思考から自然的思考へ』(木田 元,計見 一雄)|講談社BOOK倶楽部

 

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

 

 出版社ページ:half-real - New Games Order, LLC.

 

ゲームと数学の接点と応用

こんにちは。

 

数学も専攻ではなく、

またゲーム研究についても門外漢の私ではありますが、

 

趣味としてそれぞれ少しずつ触れている身という

自分のスコープから言えることを、

書いていこうと思います。

 

ざっくり下記のような形で進めていきます。

 

数学と(デジタル)ゲームの共通点を挙げていく


ゲームを数学に応用する

ゲームを数学に積極的に応用する

 

数学をゲームに応用する

数学をゲームに積極的に応用する

 

まずは こちらから。
その近しさから、どのような応用可能性があるかの
直感の枠組みを組み立てていきます。

数学と(デジタル)ゲームの共通点を挙げていく

 

数学とデジタルゲームは、
自分の感覚としては通底するものが多くあるように思います。

まず思いつくのは、

ルールが厳格であり、

その「マジックサークル」の内側で完結するように

活動すること。

あるいはもうすこし細かく、

ゲームの面白さの分類に寄り添って

分析するとすれば、

 

(面白さの分類も選択肢は多いですが、)

例えば以前にも用いたサットン=スミスによる分類

(※申し訳ありません、上記誤りでした。)

リチャード・バートルによる分類

達成型(♦)、探索型(♠)、交際型(♥)、殺人型(♣)

を用いるとすると。

両者には少なくとも達成の喜びがあり、

(数学は難易度が十分高く、そのプロセスにも面白さがあって
 楽しめますね。
 あるいは全国の強豪プレイヤーとの切磋琢磨との競争。)

探索の喜びがあり、

(目の前の問題をどのような道具立てで解くか考える際、

 今知っている定理だけでは事足りず、

 あらたな学習を要する局面が容易に想像できます。)

 

また交際の喜びがあります。

(たとえば「~がく徒のつどい」という催しでは、

 オリジナルは数学であったかと思います。

 あるいは仕事に活用するために学ぶ意義が大きいためか、

 協力して理解を深めるような交流会が

 十分多いように思います。)

 

殺人型は分かりませんが・・・

無理やり紐づけるとすれば、

両辺で相殺して消える項を発見する際などは

打倒に近い快感がありそうですね。

 

いっぽうで数学の特質のほうに

改めて寄り添うと、どうでしょう。

 

素人目線から思い当たるのは、

「~とは何か」を問い直す作業における類似性、

といったあたりです。

 

ドラクエのカジノを筆頭に、

ゲームの中にミニゲームが登場するような場面も

今や当たり前になりましたが。

 

この「ゲームにおけるゲーム」という視線は

「現実におけるゲーム」を相対化しうるわけです。

 

現実で当たり前に施行されている法や政治というのが、

(ゲームの「魔王を倒す」というルールから逸脱して

 脇道にそれてしまう行為の是非を通じて)

問い直されうるわけですね。

 

どこまで整合性良く当てはまるかはありますが、

数学における「数の集合」「集合の集合」を考えて

「数とは何か」さらには「集合とは何か」を考える点は

直感的には類似性がありそうです。

 

これらを踏まえて、

(といっても、

 書いてる自分としては事前に一応の小ゴールはあるのですが)

それぞれの応用可能性を探索していきましょう。

 

ゲームを数学に応用する

ゲームで学ぶ数学・・・というものが最近では増えたかと思いましたが、

ぱっと調べてみても

そう人口に膾炙してもいなさそうです。

 

なので、楽しむためのゲームだが

結果的に数学を学べる(た)ようなものを挙げてみましょう。

 

自分をサンプルにすると偏りはするので恐縮ですが、

 

まずはシムシティ

 

元祖シムシティにおいて、

できるかぎり高速で街を発展させようとした場合、

最初の所持金 $20,000 のうち

いくら残していくら使うのが良いでしょうか?

 

$20,000 全て使うのが良いですね。

 

途中で港や空港といった大規模・高額な施設が必要になることを

近似的に無視し、

常に残金 $ 0 前後になるよう投資すれば、

税収は人口に比例しますから、

 

町の人口 x の増加分がほぼ

\dfrac{dx}{dt}=x

となって、人口が

x=e^t

で増えることが分かります。

 

人口数千人の town のころなんかは

50万人に到達するのに無限に時間がかかるかのように

思ってしまうのですが、

実際には急速に増えて行くので大丈夫。

 

あるいはぷよぷよ

 

相手に降らせられるおじゃまぷよの数は、

どう見ても連鎖の数の比例ではありませんね。

 

このようなところから、

「雪だるま式に増えるってどういうことだろう?」

とか、

 

「二次関数『ふえる数がふえる』に比べてバイバインは、

『ふえる数がふえる数がふえる数が・・・』ってなってるから

これはとてつもないのでは?」

ということを

ぼんやり考える様になったりならなかったりしますね。

 

ゲームという、興奮、あるいはありありと現前する描画を通じて

数学で初めて触れるような感覚を

先取りする形になります。

(なにしろ現実では、ここまで理想的な指数関数や N 次関数(N ≧ 3)も
 そう多くはないでしょうから。)

 

ゲームを数学に積極的に応用する

さて、ここまでのところだと、

「ゲーム」のところを他の言葉に置き換えても

成り立ってしまうようにも思います。

 

ゲームならではの、

ゲームにしかできない数学への貢献とするには、

どのような形がありうるでしょうか。

 

下のような例については、

残念ながら自分が知るかぎりでは

数学における同様の事例にめぐり合っていませんが・・・

 

生化学の分野においては、

問題をゲーム化することによって

論文執筆に至る結果を見出しています。
www.afpbb.com


ゲームのなかの可能な選択肢を、

数学の一部の手続きと等しくなるよう対応させることも

可能と思われるため、

このような応用は十分に考え得ます。

 

下記でも少しだけ、

そのほかの展望について触れます。

 

数学をゲームに応用する

 

これはゲームを攻略するにせよ、

ゲームを作るにせよ

言い尽くせない応用があると思います。

 

 さきほど挙げた、

 常に予算ゼロぎりぎりまで投資すれば

 指数関数的に成長できる

という考えは、

ボードゲームならカタン

対戦ならいたストなど

経済的な要素のある多くのゲームに適用できますね。

 

賭け事や格ゲー大会などにおいては、

相手に(残予算や実力の)差を付けられているときほど

リスクの高い戦略が有効であるといった

自然な帰結も出てきます。

 

いっぽうでゲームを作る場合はどうか。

 

この場合はなおのこと数学からの応用が重要で、

近年では画像処理の計算量が大きいことからも、

その計算技術が重要となってきていることが分かります。

 

ここでは詳細には立ち入りませんが、

かの有名メーカー NVIDIA などの計算技術によって

ゲームの一端が担われているとも言えるでしょう。

 

computational-chemistry.com

www.4gamer.net

 

あらためてこうした記事を参照してみると、

ゲームのための、あるいはゲームに応用できる基盤が

幾つかの数値計算にも活用されており、 

 

広い意味で、ゲームから数学への貢献を

感じることが出来ます。

 

数学をゲームに積極的に応用する

では、数学から学べる計算技術というよりは、

ゲームのルール自体に、

数学の概念を適用できないでしょうか?

 

ゲームは(多くの場合デジタルな)ルールの集合体で出来ていますが、

その設定自体に、

集合論や、解析といった

数学独自の尺度を導入することは可能でしょうか。

 

この問いに答えるべく、

(非常に粗削りですが)以前、ゲームを1つ作りました。

https://pbs.twimg.com/media/DFBRG9BUQAAoqCI.jpg:large

 

 

複素関数においてよくある、

「原点を中心に1周回ったつもりが実は裏側に行ってて、

 元に戻ってくるには2周必要だった」、

このギミックをなんとか活用したかったわけです。

 

というわけで象限の裏・表が一致のときと不一致のときで

敵を倒せるか、敵にやられるかが異なるように

ルールを設定しました。

 

(desmosを使って2葉になってる事がよくわかる

 アニメを作ろうと思いましたが、

 時間も迫ってきたので断念)

 

では既存のゲームはというと、

(日本語のドキュメントも少なく全貌をつかんでいませんが、)

下記ゲームなんかは生態系を作るゲームのようで、

狭義の数学には当てはまりませんが

広く数理科学の概念をルール化した、

挑戦的なゲームと言えるでしょう。

store.steampowered.com

 

 

下記については未発売のため

感触も不明で、

こちらも説明を見る限りは数学というより物理よりのようですが・・・

期待が持てるタイトルです。

store.steampowered.com

 

 

数理科学、とりわけ自己組織化まで話を拡張すると、

その旨みが生きているゲームは数多くあると言えるでしょう。

 

 

また、ゲーム攻略においては

ペアノ曲線をフォーマットとすることで

クリアを少しでも容易にしようとした持ちネタもありますが

すでに結構な文字数になりつつあるので、

 

目指したんだけれども部分最適にとどまってしまった状況だけ

画像で貼って残したいと思います。

Factorio というゲームです)

f:id:a16777216:20171205222523p:plain

 

ハルスベリヤ叙事詩2という名作戦略ゲームにおいても

偶発的な現象がいくつか(起こるべくして)

起こっていて面白いなと思ったところですが

こちらもまたの機会に。

 

まとめと展望

このように、数学と(デジタル)ゲームは一定の共通性を持ちつつ、

互いが互いに貢献するような側面も

幾つか見られつつあります。

 

個人的には、

とりわけ学習理論や自己組織化といった範囲まで含めれば

幅広く研究できる箇所もあるように感じます。

 

こうした観点から、

具体的な数学的概念あるいはゲームを通じて

論述が進まないかなあと願望するところです。

 

自分個人としても、

論文を書くところまで行くのは

素養としても現状としても

なかなか着手が厳しい状況ではありますので、

せめてこうした議論だけでも

初心者ながら進められればと思うところです。

 

直近の目標としては、

数学的な概念や自己組織化がうまく生かされたゲームの事例を

もう少し集めるあたりですね。

 

それでは、

ここまでありがとうございました。

またどこかで。

 

参考文献

藤井雅実・沢野雅樹編著『人はなぜゲームするのか―電脳空間のフィロソフィア (キーワード事典)』,1993, 洋泉社 

 ↑今や古本でないと入手できないと思いますが、
 ゲームが現実を対象化するような側面、意義を思考の枠組みとして考えることができ
 得るものが大きい1冊と思います。

イェスパー・ユール 『ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム』松永伸司訳, 2016, ニューゲームズオーダー

ケイティ・サレン, エリック・ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ(下)』山本貴光訳, 2013,  SB クリエイティブ

シミュレーションゲームは現実の何を切り取るか。システムか?

こんばんは。

風呂敷を広げたままにしていたため、

そろそろたたんでいきます。

 

現実のどのよう題材なら、シミュレーションゲームに出来るのか

これについて考えていきます。

 

前提として「シミュレーションとは何か」も

どこかで考えなければなりませんが、


これに立ち入っていくと相当な資源と文献調査が

必要と思われるので、

一旦「シミュレーションゲーム

に焦点を絞りたいと思います。

 

そもそもなぜ

シミュレーションゲームについて考えるのか。

 

まず、そのゲームの種類が非常に多様で、

「これ」という定義を与えるのが

いかにも難しそう

という点が興味深いです。

 

また、学術的な手法としての

「シミュレーション」との位置関係も

気になるところです。

 

それに。


ミクロを犠牲にしてマクロを詳細にするのか。

その逆なのか。

あるいは大雑把でいいから、

様々なスケールを同時に表現しようとするのか。

 

こう考えると、

現実を理解する切り口とも相乗効果がありそうで、

いっそう興味を惹かれます。

 

今回は、

このような流れで進めていきましょう。

 

・何が、シミュレーションゲームの題材に出来るか

・その理由と、ここから生まれる価値

・舞台設定などについて

 

 

シミュレーションゲームとは、システムだ?

「システム」であれば、

シミュレーションゲームの題材に出来ると考えられます。

 

 

結局、2つ前の記事に戻っちゃいましたが・・・。

a16777216.hatenablog.com

 

ですが・・・シミュレーションゲームを、

可能な限りこぼさずに包含しようとすると、

こう区切らざるを得ないのではないでしょうか。

 

シミュレーションゲームによって扱われるモノ。

その、

他の種類のゲーム、アクション、シューティング、

パズル、RPG・・・などとの大きな違いは、

 

必ずしも思惑通りに動かないこと。

個々の要素の和だけでは理解が困難であること。

 

つまりシステムの定義の通り、

「要素の集合とその相互関係の全体」

であるわけですね。

 

我々はゲームに登場する「システム」に対し、

直接操作することはかなわず、

「相互作用」「対話」する。

 

そのような接し方になるでしょう。

 

 

(※「対話」というと、

 社会や都市といった巨大なものでなく単一の何か、

 ワンダープロジェクト J とかシーマンなんかが

 思い浮かびますが、

 これらもやはりシミュレーションゲームでした。)

 

ところで、このように大風呂敷を広げたため、

大急ぎで事後的にシステムを復習していました。

 

そして復習すればするほど・・・

「システム」の中には、

シミュレーションゲーム」を良質にするような性質が

見事に備わっているということが、

改めてよく感じられました。

 

まずは安心する限りです。

 

(※もっとも、仮説に基づいて調べている以上、

 仮説を支持する見方ばかりに着目せぬよう

 気を付けねばなりませんが・・・。)

 

ポイントは少なくとも3つあります。

 

・自分自身を存続できること。

・多数のやりとりや規則によって構成されていること。

世界よりは単純だが、しかし一定の複雑さが残ってること。

 

なぜシステムであり、そしてこれが何をもたらすのか

 

さて、システムというからには、

そのゲームによって扱われる「何か」は、

自分自身を「存続」できなければなりません。

 

言っておいて、

少し大げさすぎたか・・・とも感じましたが、

シミュレーションゲームの題材の多くは、

実際にこれを満たしています。

 

シムシティやシムアース、シムアントといった

古典的名作でさえも、

自己完結した存続の動きを見せますね。

 

もちろん存続といっても、

それらは単に状態を維持するだけではありません。

 

自分自身を維持するために必要な自分のパーツを、

自分自身で賄うことをやってのけるのです。

 

ルーマン 社会システム理論』では、

生命とエンジンの比較がなされています。

もちろん、生命のほうがよりシステムとしての性質を満たす、

 という文脈です。

 

「エンジンは、それが機能しているうちは、決してその構成部分(例えば、キャブレター、クランクシャフト、連接棒、点火プラグなど)を再生産したり修復したりすることはない。」

 

このような「継続的な生産過程」こそが、

システムの典型例である生命に求められています。

 

ただし、「生命」にある重要な性質の1つ

開放性(そのときどきの環境とのエネルギーや物質の交換)」

は、

ゲームにおいては乏しいと考えられます。

 

人間の場合、常に食料から材料を得続けることで、

その姿をほとんど変えないまま・・・

数年後にはほとんど体の材料が入れ替わっいたりもします。

 

しかしゲームの場合、「外」とのやりとりは、

ファンコミュニティのリクエストで新要素が追加でもされない限り、

プレイヤーしか窓口がないと言っていいでしょう。

 

こじつけるなら、我々プレイヤーが(外部の)「環境」だと

言うしかないですが・・・

これについてはまた紙幅を取って考えたいと思います。

 

保留して話題を進めましょう。

 

次は、シミュレーションゲーム

多数の要素ややりとり(相互行為、相互作用)でできていることについてです。

多くの場合、これは明らかでしょう。

 

ただ、上で挙げたワンダープロジェクト J シリーズ等では

単独の登場人物と向き合うため、

一見、多数の要素で構成されているようには見えません。

 

しかしながら実際には、

彼らの中のパラメーターは密接に関係しており

(知性を高めれば、多くの場合運動能力が下がるなど)、

多くの要素の集合体であることが分かります。

1作目のピーノの場合、ステータス画面で明示されているため

 一層明確に可視化されます。

 

www26.atwiki.jp

 

そして3番目のポイントとも関連しますが、

このことがゲームの「難易度」「自由度」「予測不可能性」を

作っていると考えられます。

 

個人的には、これこそがまさに

シミュレーションゲームの「面白さ」だと考えています。

 

ゲームは「世界」よりは単純であるため、

コンピューター上に実現でき、

かつルールが十分に把握しやすいものになります。

 

しかし一方で、一定の複雑さがあるために、

ここにさまざまなものが生まれる余地ができます。

 

まず、人間の認識の限界を超えています。

多くの場合、ルールに関する情報だけからでは、

ゲームの「必勝法」を見出せません。

少なくとも、攻略のための最適な手順を、

1つだけに絞り込めません。

 

1つだけに絞れてしまっては、

淡々とそれを実施するだけの作業に堕してしまいます。

 

RPG との比較でいけば、

RPG が、繊細に作られたイベントを順次放っていくことで

作業になるのを防ぐ「進行型ゲーム」なのに対し、

シミュレーションゲームでは、ルールから生じる現象の多様さによって

作業になるのを防ぐ「創発型ゲーム」と言えるでしょう。

 

(進行型・創発型ゲームの概念は、『ハーフリアル』より)

 

もちろん、重なる部分や兼用される部分はあり得ます。

 

将棋のように敵味方の情報がすべて開示されており、

かつランダム性を排したゲームでさえも

すぐに必勝法が見いだせない点は、

計算複雑性理論なども検証したいところです。が、

これも今回割愛することにします。

 

さて、「創発型ゲーム」と「システム」の共通するところとして、

複数の攻略法が取れる、という点が考えられます。

 

ルーマン 社会システム理論』によれば、

「システムは、複雑になればなるほど、変転する環境の要求に適合した反応をするための、より多くの可能性をもつようになる。」

 

世界より単純とはいえ、ある程度の複雑性を持つことで、

(最適な攻略法はともかく、)まあまあの、妥当な攻略法

いくつもの選択肢から選べるようになります。

 

特にこれがルールや手段の組み合わせから選べる点が、

シミュレーションゲームの見どころと言えるでしょう。

 

(これに焦点を絞った場合、

 今度はパズルゲームとの差が課題として残るため、

 これもいずれ考えなければなりません。)

 

そして、多くの要素から構成されているがゆえに、

こちらのアクションに対する応答も、

予想を超えた複雑なものになりえます。

 

我々プレイヤーの打ち手にだけではなく、

コンピューターの応答にも創発が生まれる余地がある、

と言えるかもしれません。

 

複雑性なものの表現について少し脱線すると、

 Total War シリーズ、Wargame シリーズ、後述の光の目といった

 いくつかの戦略ゲームでは、

 次にどこを攻める/守るかという戦略パートと、

 どのようにその局地戦を戦うかという戦術パートという、

 2つの異なるレベルが描かれています。

 複数のレベルが階層的になったものをメタシステムと呼んでいいかについては

 やや慎重になる必要がありそうですが、

 なるべく単純に表現しつつもより現実の本質を適切に表現していくうえで

 非常に重要と言えるでしょう。

 

このように、シミュレーションゲームは、

一般的なシステム(生命、社会、法、経済、学問など)と

多くの共通点を有しており、

 

それゆえに幾つかの面白さが

必然的に担保されてきます。

 

すぐには必勝法を見いだせない難易度。

 

選択できる攻略法の多彩さ。

(そもそも攻略が目的ではない場合さえもあります。

 この場合、『ハーフリアル』の狭義の「ゲーム」からは逸脱しますが・・・)

 

そして敵の NPC さえ時に創発してしまうような予測出来なさ。

 

 

さらに有難いことに、

「システム」は現実のいたるところに遍在していますから、

題材には事欠きません。

 

具体例が出遅れましたが、

刑務所もシステムであるからにはゲームになるし、

store.steampowered.com

 

緊急の電話への対応もまた、システムであるからには、

ゲームになると言えそうです。

store.steampowered.com

 

ここまで、システムが持つ(ローカルな、要素同士の)

ルールの性質が、

シミュレーションゲームと適合しているであろうことを

考えてきました。

 

しかし、シミュレーションゲームの題材として選ばれるには、

単にシステムであるというだけでなく、

どのような表現、絵柄、世界観であるかについても、

一定の条件がありそうです。

 

『ハーフリアル』でいうところの、

ルールに対する「フィクション」の部分ですね。

 

シミュレーションゲームの舞台設定

ゲームに適した舞台、世界観。

戦略ゲームなどについては、

RPG やアクションと同様の基盤を有しているように見えます。

 

つまり、中世や近現代の戦争、

あるいは宇宙戦争などが典型的で分かりやすく、

なじみもあります。

 

中世と近代の間である「近世」なんかも、

ハマるとなかなか乙です。

 

銃の登場によって諸兵科のバランスが変わりつつある時代に、

魔法までもがバランスする『光の目』。

 

freegame-mugen.jp

 

 

 

こちらはグラフィックや戦闘の進行に限らず、

消耗戦の様相もリアリティがある

南北戦争のゲーム。

※2017/09/26 追記

 これはどちらかというと近代ですね。

store.steampowered.com

 

では、アクションや RPG にはない、

シミュレーションゲーム特有の舞台は何でしょうか。

そしてその共通点は。

 

一方、単なる「シミュレーション」にはない、

シミュレーションゲームに特徴的な舞台とは何でしょうか。

 

いずれも、先に一般化のほうから考えましょう。

 

他ジャンルのゲームにないものとしては、

 1.「システム」であることによって想像が促されるもの

 2.拡大再生産

 

「シミュレーション」にないものとしては、

 3.ルールの理解を促すもの

 

これら両方ともになく、シミュレーションゲームだけに特有のものとして、

 4.(社会で)生き抜くための本能を刺激するもの

 

 が考えられます。

 

システムであるという「ルール」、

つまりゲームに登場する人物やオブジェクト同士が

どのようにやりとりするか。

 

この基盤であることによって一層活き活きとするような

絵柄・世界観こそが、

適した舞台設定と言えるでしょう。

 

なお、この議論と次に述べる議論は、いずれもハーフリアルの

「ルールの理解を促すフィクション、フィクションの想像を促すルール」から

概念を拝借しています。

 

まずは、さまざまな種類のオブジェクトが一斉に動き、

お互いに影響を及ぼしながら、

それぞれ適した仕事を思い浮かべてみます。

 

この事実がぴったりとはまり、

このゲームシステムであるがゆえに活きる題材とは?

 

すると自ずと、

蟻の集団、軍隊、ロボットの集団などが

連想されてきます。

 

ロボットの集団を操作してタワーを作るゲームも

結構前にありましたね。

http://mukou.sakura.ne.jp/reviews/hr2.html

 

このように、舞台が蟻や軍人、ロボットの集団であるとき、

集団行動のありさまを

リアルなものとして感じ取ることができます。

 

オブジェクト間のやりとりについて、

もう少し詳しく見ましょう。

 

例えば上記の光の目。

このゲームの戦略性を広げるルールとして、

遠隔攻撃を受けたときに後方に押し返される

「ノックバック」効果があります。

 

しかしそうした強力な遠隔攻撃使いも、

移動力が高く高速で間合いに入り込んでくる集団に

蹂躙されたりする。

 

しかしそこで、横に隊列を組んだ

近接攻撃の前衛がいたら・・・?

 

このようにオブジェクト間のルールに似つかわしいのは、

やはり、遠隔攻撃=銃兵、移動力=重騎兵、

隊列=槍兵であったりしますよね。

 

このルールとフィクションの相性の良さにより、

近世の戦いが非常に生き生きとしたものとして描かれます。

 

今度は、集団の動きとはまた別の視点を考えます。

Civilization のような文明開発、シムシティのような都市開発は

なぜ市販のゲーム足り得るのでしょうか?

 

これは、拡大再生産が快感であるから、と

説明できるように思います。

 

これもきちんと定式化するには

欲望の理論をきちんと理解する必要があり、

障壁が大きいですが・・・

一旦は深入りせず、実際の流行から間接的に示唆します。

 

Cookie Clicker が、

(恐らく・・・批判的な意味も込めて、)

拡大再生産のよろこびを純粋な形で切り出し、

結果、一世を風靡したこと。

 

4X というジャンルが、

Wikipedia の一項目になるほどまでには

浸透しているということ。

 

これらの事実は、

一度投入した資源がさらなる富を生み、

その富をさらに投資の拡大に使うという雪だるま式の拡大が、

人類にとっていかに快感であるかを示唆しています。

 

流れで、上のリストの 3.に入っていきましょう。

 

「あなたはこの都市の市長です」とか、

「あなたはこの文明の指導者です」と言われれば、

何をすればいいか、それだけであるていど明確になると思います

(滅亡や衰退でなく拡大を目指すのがスジですからね)。

つまり、

その舞台がルールを分かりやすく説明しているとも言えます。

 

もうすこし立ち入り、

開発→収入増加→さらに開発 という

拡大再生産を実装するルール(≒システム)を思い浮かべてみましょう。

これを直観的に理解しやすくする・・・

つまり馴染みあるものの中から探すとすれば、

やはり都市や文明といった題材になるでしょう。

 

あるいは、

生命のような謎の何かでも良いかもしれません。

 

store.steampowered.com

 

舞台が都市、文明、生命(のようなもの)であること自体が、

拡大再生産を促すように作り込まれたルールの

適切な説明書になっているわけです。

 

 

あるいは要素に着目するなら、 

(1.と重なる部分もそれなりに現れますが、)

各要素がロボットであれば製作や運搬をしてくれそうだし、

銃を持っていれば離れた相手に攻撃できそうだし、

ニンジンの姿の生物なら引っこ抜くことができそうだ、と。

 

このように見た目が自ずとルールを説明します。

 

上記のような要素の見た目や、

あるいはその背景(ビルや宇宙船、城塞都市)などが協力し、

どのような働きをするシステムなのかを

一掴みで理解するよう促しています。

 

このまま滑らかに 4.に進みましょう。

 

・部隊に適切な指示を出せるよろこび

・戦争を勝利に導くよろこび

これらは、社会を生き抜くために備えられた感覚であると

想像できます。

 

ところで、

 戦略ゲームが好きであっても実際の戦争を快く思わないことについては、

 論を待つまでもないですね。

 

もちろんこれらだけでではありません。

政治的・経済的な成功を収めること。

 以前にも少し触れたりしています。

a16777216.hatenablog.com

 

施設を順当に運営すること。

(こちらはまだ未プレイですが・・・)

store.steampowered.com

 

こうしたタスクが与えらえたとき、

社会の中を生きる存在としての知覚が刺激されると考えられます。

 

<面白さ>の研究』の言葉を借りれば、

「社会感覚」あるいは「マキアベリ的知性」が

刺激されると言った形ですね。

 

つまり、「個体は、他社の意図を汲み、コミュニケートを試み、ときには協力したり、他者を出し抜いたり、さらには、特定の他者と協力して、第三者を出し抜いたりすらしなければならない。」

 

このような本能が人間に備わっていると仮定するならば、

我々プレイヤー社会の中の登場人物、あるいは社会の指導者になるとき、

その興亡に感情を動かされるのは当然と言えるでしょう。

(つまりゲームになります。)

 

考えてみれば、

(シミュレーション屋としてはやや自虐的になりますが、)

気象や電子の軌道といったシステムは、

シミュレーションによって扱われることはあっても、

ゲームとして扱われることは少ないように見えます。

 

 

まとめ

それなりに長くなってしまいました。

 

シミュレーションゲームに適した題材とは何か。

 

・それはシステムであり、

 多数の要素ややりとりで構成され、

 

・システムの構造が舞台のリアリティを高めるか、

 あるいは舞台がシステムの勘所を分かりやすいものにし、

 

・拡大再生産のよろこびか、

 あるいは社会の中を生き抜く感覚をもたらす。

 

これらを良く満たすのは、

もう語るまでもないかもしれませんが、

戦争をはじめ、

都市、文明、交通、生命、経済、政治、工場、企業、施設、感染、・・・

というものたちではないでしょうか。

 

交通については個人的な思い入れが強いので、

また別途切り出して考察したいと思います。

 

 

システムであることはゲームにとって意義のあることで、

創発や予想不可能性を自然に促すために、

面白さを担保しているように思います。

 

個人的には、

システムがゲーム化されることにより、

 現実の理解を促すという意義も感じられます。

 

1つのシミュレーションゲームはたいてい、

社会全体の1つか2つだけの側面に着目しており、

社会全体よりも物事が単純化されています。

 

(想像するにこの単純化はかなり技術を要すると思われ・・・

 面白いゲームからは匠の技が感じられます。)

 

こうした単純化は、

人間の限られた理解力、あるいは

コンピューターの有限の計算能力の中で、

世界を適切に理解できるよう促すものだと考えています。

 

 

一方、題材、世界観、映像といった舞台設定は、

やはりこのルール≒システムの面白さを最大限引き出すようなものが

好んで選ばれるでしょう。

 

良質のシステムであっても、

理解が難しかったり、直感に反していたりすると

その本質(そのシステムのうまみは何なのか)に

スムーズに到達しにくいですからね。

 

残された課題はまだいくつかあります。

文中でも、

計算複雑性や、欲望、開放性の議論について

保留にしておりました。

 

そのほかにも、恋愛シミュレーションの位置づけについては

ここでは考察出来ていません。

 

まだ調べられていないそうしたものに、

徐々に立ち入っていきたいです。

 

いっぽうで、

この文が多少でも肥やしにして頂け、

世の中的にこうした考察がより活発になったらいいなあと願うところです。

 

 

それでは、

ここまで、ありがとうございました。

 

参考文献

ゲオルク・クニールほか『 ルーマン 社会システム理論』 舘野受男ほか訳, 1995, 新泉社

イェスパー・ユール 『ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム』松永伸司訳, 2016, ニューゲームズオーダー

都留泰作『<面白さ>の研究 世界観エンタメはなぜブームを生むのか』 2015, KADOKAWA/角川書店