ヴァーレントゥーガはいかにメディアミックスの題材たるか 後編

 

こんにちは。

 

前編では、

特に以下の2点について確認してきました。

 

ヴァーレントゥーガというゲームが、

 日本(だけの、と言える保証はありませんが)の

 メディアミックスの系譜を端的に示すこと。

 

ヴァーレントゥーガはリアルタイムストラテジーゲーム

 さらに、それ自体ゲームでありながら、

 事実上ゲームエンジンとしても機能している。

 

②さらにそれを膨らませるものであること。

 

前回はその内容面やコンテンツ面を

中心に見てきました。

 

これに対し今回は、

特に形式面に着目して、

考えていきたいと思います。

 

もう少し具体的には、 

ヴァーレントゥーガのゲームの形式

(ゲームシステム及びとりまく環境)が、

いかにメディアミックスと整合し、

何を作り上げているのか。

 

これを考えていきます。

 

順番としては

ヴァーレントゥーガのゲームシステムは

 どのようにリアリティを持つのか

 

・ヴァーレントゥーガは

 歴史シミュレーションを生み出すことで

 何を作りだしているのか

 

という順で見ていきます。

 

 

ゲームシステムとリアリティ

 

改めて前回のおさらいになります。

 

ヴァーレントゥーガとその派生ゲームは、

(商業戦略としてのメディアミックスを意図的に展開してはいないものの、)

結果的にメディアミックスに見れれる特徴が

色濃く現れていることを確認しました。

 

具体的な特徴として、

様々なメディアの情報を参照していることや、

・逆に様々なメディアを跨いで発信していること。

・世界観ないしキャラクターを中心として

 断片的な要素が全体を作り上げること。

を見てきました。

 

今回は、これらの特徴が、

ゲームの形式とどう影響しあっているか

どのような鑑賞のしかたを促しているのか、何を作り上げているのか等)、

これを見ていきたいと思います。

 

ゲームの形式といっても

複数の切り口が考えられますが、

ここでは以下の2点に

焦点を絞りたいと思います。

 

シミュレーションゲームであること。

 

・ヴァーレントゥーガの派生作品が

 制作されるさいの慣習

 

まずこの節では、

シミュレーションゲームであることによって

問われていること・生み出されていることを

見ていきましょう。

 

シミュレーションゲームということは

何かをシミュレーションするのであり、

そうすると当然、

(リアルであるほど望ましいかどうかは措くにせよ)

どれくらいリアルかが問われます。

 

言い換えると、どれくらいのリアルさかに応じて

楽しみ方が変わってくると言えます。

 

また、何をリアルにしたいかに応じても

楽しみ方が変わってきますね。

 

国家間の闘争から、個々の建物のドアの開け方まで

全てのものをリアルにするのは非現実的ですし、

なおかつそれをやることでかえって

ゲームの楽しさを妨げる恐れもありますから、

何をリアルに再現するかについては

絞り込む意義があります。

 

このあたりは『ビデオゲームの美学』が詳しいです。

 

また、末筆ではありますが、

私の昔の記事でも少し触れました。

a16777216.hatenablog.com

 

ここでは、

前回に引き続き『きのこたけのこ戦争・IF』

を通じて、

幾つかの観点から、

断片的な要素を基にどのように・どんなリアル

作られるのかを見ていきましょう。

 

具体的には、

・断片的な要素の集合にもかかわらず

 作られるリアルがあるという、

 消極的な側面。

・断片的な要素の集合であるがゆえに

 作られるリアルがあるという、

 積極的な側面。

この2点を考えています。

 

消極的なリアル

 

まずは前者についてです。

シミュレーションに限らず広く

ビデオゲームにおける「対象」を考えると、

断片的な要素からも一定のリアルが得られる事が

推察されてきます。

 

少し導入が長くなってしまいますが、

その理由に至るために、

「対象」についての参考になる議論を

四方対象』から見ていきましょう。

 

具体的には、

四方対象の序盤で詳しく説明・解釈される

フッサールの議論を参考にしたいと思います。

 

私たちが木を理解する方法は

幾つかありますが、

1つは、木を直接見る方法です。

 

このとき、木は見るときの時間や天候、

季節、周りの動物の有無によって、

時々刻々と姿を変えます。

 

言い換えると、このように木を見るとき、

いつも偶発的な要素が

混じり込んでいるということです。

 

では一方で、

時間や偶然の要素によって変化しない、

固定された木の特徴はあるでしょうか。

 

ここでは、「木」の仲間に属するありとあらゆるものを考えるのでなく、

 つまり木の集合を考えるのでなく、特定の木を考えることにしましょう。

  

背丈は何 cm。木の種類は何々。

堅い樹皮でおおわれている。などなど。

木にはこうした性質がありますが、

こうした比較的時間変化しない

「性質」を見ることが、

木を理解するもう1つの方法と

考えられます。

 

つまり、別の1つの方法として、

木の性質を分析する方法がある、

という主張です。

 

木は、こうした「性質の束」から

構成されていると考えることができます。

性質の束という表現は、『ワードマップ現代形而上学』より。

 

しかしこうした木の性質の束も、

やはり木そのものとは言えないでしょう。

 

以上をまとめると、

 

見るそのときそのときで変わる

木の偶発的な側面にせよ、

 

あるいは

木が持つ様々な性質の束にせよ、

 

どちらにしても、

木そのものを厳密に表すものではない。

 

このような理解が得られます。

 

逆に言えば、木の感覚を得るとき、

木そのものに直接アクセスできず、

断片的な要素の集まりを通じてしか

木に接せない、ということが

示唆されてきます。

 

これは、

マーク・スタインバーグさんの著書での

世界観やキャラクターの議論とも

重なってきます。

 

我々がハルヒを理解しようとしたとき、

 

あるカットにおけるハルヒ

瞬間的な表情を抜き出そうと、

 

あるいは

思ったことが本当になったり

キョンを一方的に巻き込んだりする

ハルヒの分析的な性質を

列挙してみようと、

 

そのいずれも、ハルヒそのものには

相当しないでしょう。

 

しかしながら、これらの側面を通じて

ハルヒという全体像の理解に

間接的にアクセスできる。

このように解釈できそうです。

 

主観ですが、これは自分のようなエンジニアの仕事にも役立つ見方に思えます。

 複雑で大きなシステムを開発しているとき、

 特定のファイルの特定のコードを覗き見たり手を加えたりしようと、

 システム全体を見たことにはとてもならないでしょう。

 システム全体そのものは、すべてを一度に視認することができないゆえに、

 我々の前に直接現れることはないと思われます。

 しかし、個々の部分的な側面が、アクセス可能なポイントにはなる。

 このように考えを携えることで、複雑さに向き合う業務をする必要のあるときに、

 より俯瞰的にそれを振り返れるのではないか、と考えています。

 

まとめると、

私たちはそもそも、

(瞬間的・継続的いずれかの)

断片的な構成要素をみて、

「それ」を理解していると解釈できます。

 

そうであれば、

一見ばらばらの勢力の集合が

全体として秩序をもつ「それ」として

理解できるのも、自然と言えるでしょう。

 

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きのこたけのこ戦争・IF より。様々な種類のユニット、地域、勢力が入り乱れている様子。

 

※↓ 2018/12/06 追記

 

ここまで挙げてきた、

断片的な要素でリアルが生まれ得る話は、

確かに、

ヴァーレントゥーガとその派生に限らず

何にでもあてはまる話ではあります。

 

しかしこのことは、

ヴァーレントゥーガとその派生の

魅力が成立するうえで

重要な意味を持ちます。

 

ヴァーレントゥーガとその派生では

多くの場合、

百数十人といった多数の人物が登場し

その一人一人に詳しい列伝があります。

 

一人一人にきめ細やかに

光が当てられているということです。

 

しかし、そのようなミクロな丹念さが、

各作品ではもちろん、ミクロ・マクロ両方が整合するよう気が配られているといえ、

そもそも原理的に、

矛盾なくマクロな統一感を持つことが

可能なのでしょうか。

 

このことを一定程度保障するのが、

まさにここまで見てきた点でしょう。

 

言い換えれば、

マクロな統一感が

原理的に担保されているからこそ、

ミクロな作り込みという

ヴァーレントゥーガとその派生の

魅力がうまく現れるのだと

そのように考えられます。

 

※↑追記ここまで 

 

ここまでで、

断片的な要素の集合にもかかわらず

作られるリアルがあること

(消極的なリアルの保証)を

確認してきました。

 

ここからは、

断片的な要素の集合であるがゆえに

(積極的に)作られるリアルがあるか、

これを見ていきましょう。

 

再び余談になりますが、

 こうした断片的な要素によって全体を理解しようとする姿勢は、

 現代社会を理解する際にも応用が効きそうに思えます。

 例えば『フラット・カルチャー』では、

 現代社会において全貌を見渡せるような視点(超越的な視点)を持ちにくいことが

 再三強調されています。

 断片的な要素(という接触可能な他者)を通じて理解を試みることが

 まだしも可能なやり方である点で、

 ヴァーレントゥーガにおける世界の理解の方法は、

 現代の実世界の理解へもヒントを与えるかもしれません。

 

積極的なリアル

以下では、

断片的な要素の組み合わせとして、

よりミクロな、

銃状の携行品 vs. お菓子状の射出物

これについて考えていきます。

 

たとえばたけのこ型の銃弾を射出する

「Dew98軍用小銃」という技の射出物は、

〈銃弾〉であり〈たけのこ〉である、

こうした二重性を持って見えます。

 

一つの記号が2つのものを同時に表すという

一見特殊な表現を、

なぜ、私たちは自然に受け入れられることが

できるのでしょうか。

 

この答えは難しくないと思います。

 

きのこたけのこ戦争・IF は、

近現代の戦争の体裁をとっており、

また、「Dew98軍用小銃」は、

比較的速射できる遠距離攻撃という

用途になっています。

 

これらのことから、第一に、

まず銃弾であると理解できます。

射出物の円筒をとがらせたような外見と、

使用者である「親衛シュトース・トゥルッペン」の外見も、

理解を助けていると言えましょう。

 

 

さて、一方、

きのこたけのこ戦争・IF は、

お菓子同士の戦争であり、

その中でも「Dew98軍用小銃」は主に

たけのこの里を象徴する勢力によって

使用されます。

 

このことから、第二に、

射出物がたけのこであることもまた

すぐに理解できます。

 

なお、使用を通じて対象を理解するやり方は、

後述する『記号と再帰』において、

「である」に対する「する」の理解として

詳しく記述されています。

 

 

ここまで、

「Dew98軍用小銃」の射出物という記号が

2つのものを指し示すことを

見てきました。

 

ここで少し強引にこの事態を解釈してみると、

我々は、

実際の銃弾で戦われる(虚構の)

物語世界と、

お菓子によって戦われる(虚構の)

物語世界の、

2つを同時に想像している、と

考えることが可能そうです。

 

言い換えると、

一つの記号が2つのものを指すことに

対応して、

2つのドメインが存在している。

このように解釈するわけです。

 

ところで、

ゲーム化する世界』や、

ビデオゲームの美学』によれば、

こうしたドット絵(あるいは立体)の記号は、

〈たけのこ〉や〈銃弾〉など

物語世界内の対応物だけを指し示すのでは

ありません。

 

上記の2つの著書によれば、物語世界

そこにキャラクターの生活や肉体が存在すると、我々が想定している虚構世界

という意味の水準は別に、

ゲームメカニクスなるドメインも存在し、

記号はそのゲームメカニクス内の存在をも

同時に指し示すのだ、

このように理解できます。

ドメイン虚構世界、およびゲームメカニクスという用語は、いずれも『ビデオゲームの美学』より。

 

f:id:a16777216:20181205213514p:plain

 

スーパーマリオブラザーズにおける

〈マリオ〉のドット絵の場合、

スクリーン内に登場す、操作対象のマリオと、

パッケージのイラストなどにより肉付けされる

マリオ世界の人物としてのマリオ、

これら2つのものを二重に指し示します。

 

さて、「Dew98軍用小銃」に戻ります。

 

これの射出物の場合、

ゲームメカニクス内の存在を加えると、

指し示すものが三重になるという

興味深い事態が起きます。

 

スーパーマリオブラザーズにおける

リアリティを再考してみましょう。 

 

例えば、

マリオはゲームメカニクス上で、

炎やトゲにやられてしまうという

環境からのフィードバックを受けます。

 

このことは、

マリオが人であるという虚構世界上の設定と、

矛盾なくかみ合います。

 

このように、マリオの場合、

指し示される2つのもの、

2つの意味の水準が、

お互いに助け合ってリアリティを生みます。

 

ではこれが三重になる、

きのこたけのこ戦争・IFの場合は

どうなるのか。

 

直感的には、

私たちは画面の奥に、

近現代の戦争とお菓子の戦争という

2種類の架空の世界を、

同時または交互に感じている、

このように考えられます。

『意識と脳』には、私たちが矛盾する2つの描画を

同時に知覚できないとする例がいくつか挙げられています。

このため、可能性としては同時ではなく交互のほうが

あり得そうに思えます。

しかしいずれにせよ、これを明確に答ることは主題とは関係なく、

またかなりの調査コストが必要になってしまうため(そもそも可能でないかもしれません)、

この程度でとどめておきたいと思います。

 

もちろん、指し示される3つのものは、

お互いの理解を助け合います。

 

上で書いたように、銃状の武器は、

直感に反せず、

ゲームメカニクス上で、

銃さながらに攻撃手段として使用できます。

 

お菓子世界を想像する際は、

お菓子世界の戦争や武器については、我々が他の作品を通じて理解している情報はあまりありませんが、

実際の戦争の世界の想像を借りることで、

たけのこは銃のような武器だというように

武器の理解が促されます。

 

対して、実際の戦争を想像するときは、

お菓子世界の想像を借りることで、

お菓子としての集団意識があるものとし、

戦う動機の理解が促されます。

 

このように、

きのこたけのこ戦争・IFは、

それぞれのドメインにおいて

厳密に記述・可視化されない内容を

お互いに補完しつつ、

複数のリアリティを同時または交互に

体験させていると言えそうです。

 

さて、ここで

また別の視点からも

リアリティについて考えてみましょう。

 

戦術フェーズの画面がクオータービューであり

厳密なパースでないこと。

このことも、リアリティを作る

能動的な意義を見出すことができます。

 

まず、クオータービューであることで、

おびただしい数のユニットや物体を

1つの画面で一度に把握しやすいこと。

 

プレイヤーのカメラから見て

遠くのものが小さく見えたり、

物体が手前のものの裏に隠れたり

しないことは、

一度に表示可能な情報量の大きさを

担保するでしょう。

もちろん、裏に隠れるという現実への忠実さが

 可能にする面白さもありますから、このことの好悪は、

 どのようなゲームプレイが目指されるかに依存します。

 

これにより、

現実に近いというリアリティとは別に、

ゲームプレイの質としての

リアリティが得られているものと

考えられます。

なお、後述しますが、ビデオゲームの美学では、

 目的とする表現に対する正確さや、書き込みの細かさについて、「写実性」という表現を用いています。

 

また、『アニメ・マシーン』では、

こうしたクオータービューについて、

一点透視法が暗黙のうちに仮定してしまう

視野の限られた近代論からの脱却の余地を

また別の狭い視野に入り込んでしまう虞へ注意を促しつつも

説いています。

 

語弊を恐れずに言えば、同書の著者は、

西洋で伝統的に培われてきた視点に対して、

オルタナティブな視点になりうる、

そのポテンシャルを感じているのでしょう。

同書では、分解の英語である exploded に掛けて explosion = 爆発に触れ、

 軍事テクノロジーに魅了されたアニメとの関係を議論していきますが、

 やはりここでは深入りは避けたいと思います。

 

※ ↓2018/12/06 追記

 

このことは同書において、

アニメの動画の様々な側面を通じて、

繰り返し強調されます。

 

カメラによって厳密な立体を再現する

「シネマティズム」に対し、

多数の平面が重なり、

相対的にずれていく動きを作る

「アニメティズム」が、

決して劣ったリアルでないことが、

様々な角度から論じられます。

 

 

一点透視として中心に向かうのとは異なる

焦点が一か所に留まらない動きが、

テクノロジーや社会に対する

モノの見方を提供するというわけです。

 

アニメが技術的に受ける制約が、

P24 で「積極的な無意識を生産する制約」

であると、端的に要約されていますね。

 

※↑追記ここまで

 

 

以上を2つにまとめます。

 

シミュレーションゲームという形式が、

 ヴァーレントゥーガに何を求めるのか。

 → 典型的には、リアリティ

 

②ヴァーレントゥーガの派生ゲームである

 きのこたけのこ戦争・IFが、

 この要求に対し(やはり形式を通じて)、

 どのように応えているのか。

 → 第一に、

   人間の理解の仕方を考えるに、

   必然的にリアルになる理由がある。

 → 第二に、虚構世界の多重性や、

   クオータービュー&多数の平面の機能が、

   特徴的なリアルを作り出している。

 

これらのこと確認してきました。

 

一方で、

ヴァーレントゥーガとその周辺をとりまく

環境のほうはどうでしょうか。

 

これについても、

ヴァーレントゥーガやその派生ににおける

形式を通じて考えたいと思います。

 

歴史シミュレーションと慣習

 

ヴァーレントゥーガとその派生の、

物語あるいはフィクションとしての

形式はどうでしょうか。

 

あたかも本当にあった歴史のように

架空の歴史が描かれる、

架空の歴史のシミュレーションとしての

ゲームが多いように思います。

 

なお、現実の歴史の再現度としては

グラデーションがあります。

 

各国家やその配置が現実と対応して、

現実の歴史に酷似しているものから、

架空の地形と架空の国名による

フィクションの割合が高いものまで。

 

これはさておき、いずれにせよ、

歴史のシミュレーションとしての

形式がこのように確立されていること、

その意義について考えたいと思います。

 

 

まず思い当たるのは、

メディア・コンテンツ論』で

述べられている

フォルム論という考え方です。

 

ここでは探偵小説・推理小説

例にとっていますが、

具体的な登場人物というより、

推理小説であること自体が

その作品に価値を与えている、という

考え方です。

 

ヴァーレントゥーガの派生ゲームが、

歴史シミュレーションであること

それ自体によって、

どのような価値が生じるのか。

 

これを考えるために、

再び『ビデオゲームの美学』の、

リアリティに関する議論を

参照していきましょう。

 

同書では、シミュレーションゲーム

リアリティの指標として

「写実性」が取り上げられます。

 

この指標は、(着目する構造について)

より正確で、

情報量が多く、

同じ対応関係であることを

例えば、発電所や電線の見た目をした物体が、現実と同じく、都市のインフラを支える機能を持つことなど。有契性。

示しています。

 

ここにおいて、写実性の高さのために、

「慣習」に従っていることも重要だと

指摘されています。

 

慣習とは、

例えば RPG において

HP がゼロになったら戦闘不能という風に、

典型的な動作として

期待される枠組みのことです。

 

ヴァーレントゥーガの派生作品として

例えば歴史シミュレーションという

一定の慣習があることが、

そのゲームのリアリティに貢献する形で

価値を持つと言えるでしょう、

 

あるいは、下記のように

もう少し端的に考えられるかもしれません。

 

「ヴァーレントゥーガというのは

こういうメディアだ」、という定義を、

派生作品自らが再帰的に行うことで、

ヴァーレントゥーガの意味合いが

改めて規定されている、と。

 

実際、

歴史シミュレーションという形式は、

ヴァーレントゥーガの

ゲーム形式に意味を与える際、

相性のいい構造と言えます。

 

ヴァーレントゥーガにおける、

多数の勢力が群雄割拠し

戦争や外交で国力を高めていく仕様は、

まさに歴史そのものと

言えるでしょうから。

 

ヴァーレントゥーガの面白さを

相性良く引き立てる味付けとして、

「ヴァーレントゥーガでは

 歴史シミュレーションができる」

という自己言及が生まれたと思えば、

自然に思えてきます。

 

というか、シミュレーションRPGSRPG)という分野が、

 実在の武具や戦争をファンタジーの源泉とし、

 単にこれに実在の中世・近世からイメージとしての中世・近世へと

 フィルターがかけられてきたのだすれば、

 それは当然だとも思えます。

 とはいえ、武具や街道の風景といった外見の問題だけではなく、

 シナリオとして、さも実際の歴史にありそうな出来事を

 創造的に埋め込んでいく着眼点は、

 やはり代々の SRPG には無かった点と言えるのではないでしょうか。

 

さて、

自分自身を再帰的に定義する、という性質は

他にも面白い問いを呼び起こします。

 

たとえば『記号と再帰』によれば、

再帰的に自分自身を規定するという性質は、

典型的には記号(例えば言語)に見られる

性質です。

 

ここで、

ヴァーレントゥーガは記号なのか?

という問いも浮かび上がってきます。

 

ここで直接この問いに答えるには、

さらにかなりの分量が必要に思えるため

一度避けておきます。

 

代わりに、

再帰的に自分自身に言及することを

積極的にやっている事例として、

「むなしい努力」があることを

記したいと思います。

 

ネタバレは避けますが、

同『メディア・コンテンツ論』によると

作品あるいは作品群が自分自身に

メタな言及をすることには、

「ときにそれ自体の根拠を揺るがせ」る

効果があるとされています。

 

根拠を危うくする一方で、

前向きにとらえるなら、

その作品形式としての

すそ野を広げる効果があるとも

考えられるでしょう。

 

他にも例えば、『理論で読むメディア文化』ではふなっしーが、

 それまでのゆるキャラの在り方を問い直すものとして分析されています。

 

※↓2018/12/06 追記

 

自分が比較的長時間触れたものに

限られますが、

もういくつか具体的に、

ヴァーレントゥーガを照らし返すような

ゲームを挙げたいと思います。

 

「問題外のシナリオ」は、

光の目から

きのこたけのこ戦争・IFに続く

一連の系譜を受け継ぐ、

正統後継的な作品ではないかと

思います。

 

一方でこの作品では、

魔法にかなり重点が置かれます。

 

歴史シミュレーションを土台にしつつも

幻想的さを強めに出すことで、

史実に魔法が入り込んだ場合

何が起こるかをより真っ向から想像した、

「IF」を問う作品ではないでしょうか。

 

あるいは、

「銀の剣、黄金の翼」は、

web ページに明記されているように

ガンパレード・マーチ

二次創作にあたるようですが、

ここで注目したいのは

この点ではありません。

 

注目したいのは、

このゲームに撤退戦のシナリオが

あることです。

 

シミュレーションゲームの多くは、

自陣営がより強く、大きく、豊かに

成長する傾向を持つことで、

面白さの一種を実現していると

思います。

 

その意味では本来作るのが難しい、

撤退を強いられる戦い。

しかし、目標に向かって工夫し尽力するという意味では、

 撤退戦もまた、ゲームにされるべきであったテーマではあるでしょう

これを具現化している点で、

やはりヴァーレントゥーガの

典型的な在り方を問うとともに、

新しい風を取り込んでいると

そう言えるでしょう。

 

私個人の感覚ですが、こうした作品を通じて思うことは、

 自作されたグラフィックの美とは別に、

 徹底されたゲームバランスや世界観の作り込みに対してもまた、

 美を感じることがあるなあという点です。

 少し深読みすれば、個々の要素とは別に、

 要素同士の関係にも意味の次元がある現れかもしれませんね。

 

※↑追記ここまで

 

ここまでで、

以下の2つのことを確認しました。

 

①ヴァーレントゥーガとその派生は、

 典型的には歴史を再現するという

 慣習を通じて、

 自分自身を動的に定義していく力を

 示唆していること。

 

②そのことが、

 リアリティおよびすそ野の広がりに

 寄与している可能性があること。

 

さて、

これらのことが、

ヴァーレントゥーガを越え

インディーゲーム全体や

ひいてはメディア全体に影響をもったり、

メディアを理解したりするための

糸口を提供したりすることにも、

期待が持てます。

 

ここで今書けることには

限りがありますので、

より広い議論については

(私がやるかはともかく)

宿題にできればと思います。

 

※↓2018/12/06 追記

 

いずれにせよ、

こうしたヴァーレントゥーガと

その周りのコミュニティによる、

一定の方向性(慣習)を

自己言及的に作る力や、

これとは逆に慣習を問い直す

その広がりは、

より着目されるべき

魅力的な土壌だと思います。

 

※↑追記ここまで

まとめ

ここまでで、

 

・ヴァーレントゥーガの持つ

 ゲーム形式が、

 シミュレーションゲームの要求に

 適切かつ特徴的に応えていること。

 

・ヴァーレントゥーガの持つ

 典型的な慣習や事例が、

 自分自身を価値付けるうえで

 意味を持つこと。

 

これらを確認してきました。

 

また、より発展的な議論として、

ヴァーレントゥーガが、

社会の理解のための視点や、

記号としての役割を

担う可能性がないか、

少しだけ触れました。

 

他にも、

素材を集めてゲームを作る慣習、

言ってみれば少人数でも

かなり長時間遊べるゲームを

作れてしまうその環境など、

議論する観点は多数あります。

 

しかし、議論するべき点が多数ある点は

取り扱う対象としてはむしろ

好ましいことでしょう。

 

来たる2019年は、

DiGRAデジタルゲーム学会)の

国際大会が、

11年ぶりに日本で行われるそうです。

http://www.digra2019.org/

 

これに向けて、

こうした日本のインディーゲームの

特徴的かつ活発な動きが、

外国人の研究者のかたによく着目される、日本のメディアミックスの系譜の延長線の上で

拾われてほしいなあと願っています。

 

というか、それをわずかながら期待して私が行動した結果が、この記事ですね

 

そして、

ヴァーレントゥーガとその派生の

活況がより注目され、

より対象として議論されるよう

願っています。

 

それでは、

ここまで読んでいただき、

ありがとうございました。

 

また実空間やインターネットや虚構世界など、

どこかでお会いしましょう。

 

 

参考文献

 書籍

四方対象: オブジェクト指向存在論入門

四方対象: オブジェクト指向存在論入門

 

 

 

ワードマップ現代形而上学: 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎

ワードマップ現代形而上学: 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎

 

 

 

なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか (角川E-PUB選書)

なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか (角川E-PUB選書)

 

 

 

フラット・カルチャー―現代日本の社会学

フラット・カルチャー―現代日本の社会学

 

 

 

 

 

 

 

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

 

 

 

メディア・コンテンツ論 (シリーズ メディアの未来)

メディア・コンテンツ論 (シリーズ メディアの未来)

 

 

 

 

オンライン・ゲーム

www28.atwiki.jp

最終アクセス:2018/10/25

※特に、「ヴァーレントゥーガ」本家および、

 「むなしい努力」について。

 

KURINOMOTO

最終アクセス:2018/10/24

※きのこたけのこ戦争・IFの制作者さん。

 

kinotakeif.wiki.fc2.com

最終アクセス:2018/10/26

 

 

mondaigaikoushuki.g1.xrea.com

最終アクセス:2018/12/06

 

silverswordgoldwing.blog.fc2.com

最終アクセス:2018/12/06

※銀の剣、黄金の翼の制作者さん。

 

ヴァーレントゥーガはいかにメディアミックスの題材たるか 前編

 

こんにちは。

 

ヴァーレントゥーガというゲームという

戦略ゲームをご存知でしょうか。

 

正直その知名度は、

必ずしも高くない印象です。

 

ですが、その内容と派生作品については

量・質ともに充実しており、

驚かされます。

 

しかし、ここで主張したいメインは

上記のことではありません。

 

このヴァーレントゥーガの本体及び

派生作品、さらには

これらをとりまく環境が、

十分に特徴的であり

ゲーム・メディアを理解するための

格好のテーマになりうるのではないか、

というのがこの記事のテーマです。

 

自分が探す限り、対応する既存の記事や

査読論文もないようですので、

この記事を書くことにしました。

 

以下のような流れて進めていきます:

 

・ヴァーレントゥーガと可能そうなテーマ

・メディアミックスとヴァーレントゥーガ

 ・きのこたけのこ戦争・IFに見る多層ネットワーク

 ・マーケティングとの距離感

 ・多重に引用される設定・要素・世界観

・フォーマットとヴァーレントゥーガ(次回)

 ・多重平面による動きの見せ方(仮)

 ・パラレルに進行する時間軸(仮)

 ・ゲーム制作というゲーム外ゲーム(仮)

 

 ヴァーレントゥーガと可能そうなテーマ

 

改めて、ヴァーレントゥーガとは何か。

 

歴史的なりたちを割愛して端的に言えば、 

リアルタイムストラテジーのゲームです。

 

個々の戦術パートだけではなく、

ユニットの雇用や編成を行える

戦略パートのシークエンスがある点も

大きな魅力の1つです。

 

一方で、画像、音楽、キャラクター等、

基本的なシステム以外のほぼすべてを

編集できるため、

数々の派生作品を輩出する

ゲームエンジンのような立ち位置とも

言えます。

 

こうした作品群は、フリーゲームの DL 数で

頻繁にランクインしています。

 

さて、それでは、

ヴァーレントゥーガとその派生は

どのような点で非自明なのでしょうか。

 

まず第一に、

何重もの参照が行われていること。

 

具体的には・・・

ひとえに参照といっても、

様々なタイプの参照が混合されています。

 

派生作品同士のオマージュ。

キャラクターの参照もあれば、

世界観の参照もあります。

 

インターネット上の文脈の参照。

流行や風刺、人気のキャラクター。

そしてインターネット上では

暗黙の理解となるような文脈等です。

 

そしてメディア間の参照と、

登場人物の遍在化。

アニメ、ゲーム、小説、漫画等で、

特定のキャラクターが

メディア・作品をまたいでよく

登場しますが、この場合、

一人の人物が複数の異なる人生を

歩んでいることもよくあります。

 

これら3つの参照において、

ヴァーレントゥーガの特殊性が

発揮されます。

まずこれが、

非自明であると考えた点の一部です。

 

3つの参照のいずれを見ても、

既存の文脈の延長線上として

一定の市民権を得るポテンシャルが

あるように思います。

 

一方で、

ゲームの形式として、

すなわちフォーマット面も

着目に値するように思います。

 

事実上ゲームエンジンであるこの体系が、

制作環境やコミュニティを

どう構築したか。

何を促進したか。

 

あるいはゲームの形式として

どのようなリアリティを実現したか。

 

素人目線としては、

上記のどの現象を挙げてみても、

豊饒な事例や、

日本のゲーム動向への示唆があるような

そういう感覚を受けます。

 

 

 以下では、

主に『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』

(マーク・スタインバーグ 2015)

を特に参照しつつ、

上記3つが色濃く出ていると考えられる

『きのこたけのこ戦争・IF』を中心に

私のプレイ時間の長さという理由もあります

議論していきたいと思います。

 

 

メディアミックスとヴァーレントゥーガ

きのこたけのこ戦争「・IF」というゲームを

ご存じない方でも、

きのこたけのこ戦争自体は

耳にされているのではないでしょうか。

f:id:a16777216:20181008015037p:plain 出典:きのこたけのこ戦争・IF/KURINOMOTO

 

インターネット上で今も流行を続けている

このきのこ・たけのこに関する現象。

 

皆が物語を想像するための

共有された世界観ないしソースといっても

過言ではないのではないでしょうか。

 

ここにおいて

「きのこたけのこ戦争・IF」は、

名前通りこれをテーマにしたゲームですが、

単に一発ネタで終わらせることなく、

徹底した書き込みをし、

ゲームとしても長く楽しめる設計をした点で、

考察対象としての

もちろん、遊ぶべきゲームとしても

強い優位性があると考えます。

 

ざっと特徴を列挙すると、

 

どうもプロの方も関わっているらしい

本気の顔グラフィック。

 

おふざけと、硬派な歴史フィクションを

巧みに混ぜたスクリプト

 

プレイ開始時に、きのたけではなく

実に 25 の国家から

自分が操作する勢力を選択でき、

そのすべてにストーリーが用意されていること。

 

このゲームの詳しい魅力については

例えば以下の記事などが詳しいです。

greyhoundgameplay.blogspot.com

 

さて、ここまで書いたところで、

インターネット上の文脈を盛り込みつつ

ゲームという媒体で展開される、

メディアミックスの一側面を

予感頂けたのではないかと思います。

 

プレイするうえでのゲームの特徴紹介は

この辺りで終わりにし、

どのような考察の余地があるかの話題に

入っていきたいと思います。

 

ここで、先を急がずに、

一度メディアミックスとは何か?を

確認したいと思います。

 

早速、マーク・スタインバーグさんの

書籍を引いてみると、

「トランス・メディアミックス」として

説明している、下記の記述が、

素朴な直観に近いように思います。

トランス・メディアミックスについて語られる場合は大体、以下の二つの交差する現象を取り上げることが多い。

①ある一つの作品やキャラクター、物語世界を他の様々なメディアやプラットフォームへ翻訳し展開すること(再目的化ともいう)。

②複数のメディアによる相乗効果を用いて、同じグループ内の他の作品を販売しようとすること。 

 

(※トランス・メディアミックスという語は、

 1960年代から有ったマーケティング・メディアミックスに対し

 1970年代以降の流れを指す用語として用いられています。

 特定の目的商品に向けて直線的に別のメディアへと展開するのではなく、

 複数の商品(あるいは相乗作用そのもの)を目的として

 横並び的に多メディアに展開する手法であるとしています。

 

 

さらに、特に1980年代以降のモデルについては

「トランス・メディアミックス」という用語と

 この1980年代以降とのモデルの関係については、

明記を見つけることが出来ませんでしたが、

以下のような図式で説明されます。

世界観→マンガ/アニメ/ゲーム等々

(太字は原文より)

 

これは

「マルチソース・マルチユース」という語と

ほぼ同義に使われています。

 

これ以前のモデルでは、最初に原作ありきで、

それが直線的に複数のメディアに

翻訳されていくものだったそうです。

 

これに対し1980年代以降、

メディアオフィスというチームが生んだ

手法は、

単一の原作ではなく世界観を中心とし、

ユーザーは各々の媒体を通じて

世界観にアクセスする、

このような図式になったようです。

 

ここでは分かりやすい例として

ビックリマンが挙げられています。

 

1つ1つのシールでは物語が断片的だが、

それらを寄せ集めることで

1つの体系的な物語・世界観が浮き上がる、

ということが指摘されています。

ただし、2000年代以降には、この流れを継承しつつも、

 世界観よりもキャラクターを中心とするなど、

 1980年代のモデルとはいくつか異なる点が生じます。

 同書においてマルチソースに対する否定は明記されていませんが、

 以下で記す分析についても、一定の留保は必要そうです。

 

きのこたけのこ戦争・IFに見る多層ネットワーク

さて、こうした定義を踏まえて、

具体的に見ていきます。

 

きのこたけのこ戦争・IFにおいては、

ここまで引用してきた著者である

マーク・スタインバーグさんの想定を超えた

さらに強いマルチソース・マルチユースが

行なわれているように思います。

 

典型的な例として、

勢力「コイケンデレヤ旅団」に沿って

具体的に見ていきましょう。

f:id:a16777216:20181009021124p:plain

 

 たとえばこの勢力の宿将の二人、

カラムーとスパムーは、

お菓子と史実による2重の参照があります。

 

f:id:a16777216:20181010013416p:plain

 

 

f:id:a16777216:20181010013433p:plain

 

きのこたけのこ戦争・IF wikiによれば、

カラムーはアン・ボニー、

スパムーはメアリ・リードを

それぞれモデルにしているとあります。

 

このモデルとなった二人の女海賊は、

同じ時代を生き、

奇しくも出会うことになり、

親密な関係になったと言われています。

 

さらにこちらのセーベイカに至っては

4重の重ね合わせがあります。

f:id:a16777216:20181010014611p:plain

 

wiki によれば、

・いかせんべい(メーカーは不明)、

・アニメの人物であるイカ娘、

・伝承上の人物であるフライング・ダッチマン号船長、

・さらにそれを参照するデイヴィ・ジョーンズ

 

このような様々なソースが

属性・性格の参考にされ、

混ぜ合わされることで、

特徴的なキャラクターが生み出されて

います。

 

キャラクターがメディアを超えて

拡散している点では、

端的にメディアミックスの特徴を

踏まえた現象と言えます。

 

一方でこのゲーム特有の現象として、

複数のメディアからの参照を前提として

キャラクターないし

キャラクター間の関係が再合成される点が、

指摘できるでしょう。

 

あるいは、少し飛躍かもしれませんが、

この現象を、『菊とポケモン』になぞらえて

「どんな結合や交配やも制限なくありうる」

日本のファンタジーの現れと理解し、

アニミズムの系譜として考察することも

可能かもしれません。

 

ところで、モチーフが「きのこ」「たけのこ」という、

 自生する生物である点も興味深いです。

 作り上げるべき目標に対応する〈本質存在〉と

 作り上げられた事物に対応する〈事実存在〉とを

 ごく最近まで長い間二分してきた西洋の伝統を免れ、

 「存在」を自ずと成るものとして理解してきた東洋の感覚を、

 象徴しているようにも見えます。

 

多重に特徴が参照される効果は、

以上で見てきた通り、

キャラの設定・外見・テキストといった

ゲームの外装(≒フィクション)に

現れていましたが、

一方で、この効果は、

ゲーム内の変数・実装(≒ルール)にも

現れてきます。

 

例えばカラムーは、

カラムーチョの辛さを象徴する

炎の魔法を使用できます。

これと同時に彼女は、

銃の名手であったアン・ボニーにならい

特有の銃の技をも取得できます。

 

セーベイカは、

海上移動の他、

アンデッドの召喚が可能になっています。

 

さて、ここまでのところで、

個々のキャラクターという

ミクロなスケールで、

ルール面・フィクション面双方に 

特徴が表れている点を見てきました。

 

対して、こうした多重の参照による効果は、

キャラクター間の関係、

さらには世界全体の勢力図にも

立ち現れてきます。

 

まず、先ほど挙げたカラムーとスパムーは

関連するお菓子を参照するだけでなく、

史実上で親密だった二人を参照していた点を

思い出してください。

 

言ってみれば

関係の多重ネットワークになっており、

このような関係がゲーム中に見られます。

 

f:id:a16777216:20181010020442p:plain

 

このポリンク三兄弟は、

ポリンキーの3人の関係と同時に

黒い三連星の間柄も参照しており、

お菓子とアニメの

2重ネットワークを形成します。

 

文献調査が追い付いていないため

ここでは詳しく記載しませんが、

お菓子・アニメ・史実の

3重ネットワークを形成する

キャラクター間の関係も、

よく見うけられます。

 

東京の地理もゲームのモデルになっており、

これが影響している場合もあります。

 

 

さらにここから、

ゲーム世界全体のスケールについて

考えていきましょう。

 

まずテキスト面。

 

ここまで例を挙げてきた

コイケンデレヤ旅団は、

カリブ海の海賊バッカニアが

独自の民主的なルールを持っていたことこと、

これを反映したストーリーを展開します。

 

さらに、列強二国にはさまれた

スーギ・ノウコ自治区という勢力は、

下記記事にまとめられたストーリーと

歴史上の出来事とを巧みに合成し、

作品きってのシリアスなポジションを

担う勢力になっています。

dic.nicovideo.jp

 

さらに、スーギ・ノウコ自治区をとりまく

各国の対応こそが

開戦の火蓋を切って落としており、

断片的なお菓子派閥間の対立が、

ここで挙げた以外にも、各国間に無数の因縁あるいは協力関係があります

全体のシナリオへも昇華しています。

 

まさに、前章で図式を確認したような、

断片的な物語から全体の世界観への昇華が

ここにおいてはっきりと見られます。

 

もちろんこのような

国家・世界規模の参照は、

テキストだけにはとどまりません。

 

グリ公国という勢力では、

恐らくグリコのパッケージのアスリートと

ポッキーの形状とを反映してか、

投槍兵をメインの兵科として使います。

 

主人公的勢力の1つである

ハゥンマー民族代表院は、

キノの旅を参照しているためか、

バイクに乗った竜騎兵が登場します。

 

固有の武器や戦術の描画、さらに

その戦術間の相性が、

国家間の筋書き上の演出を彩りつつも

ゲームバランスを調停し、

全体の秩序を構成しています。

 

このような集団的な動きは、

『アニメ・マシーン』に倣い、

ドゥルーズガタリ

『機械』という言葉で表現しても

良いかもしれません。

 

きのこたけのこ戦争という

世界観を中心に据えている点や、

断片的な要素を多数集めることで

世界観全体を構成する点、

さらにそうした要素が

参照可能な文脈として複数メディアに

分散して埋め込まれている点では、

メディアミックスの特質をよく現した

理想の事例の一つかと思います。

 

これと同時に、 

その参照可能な多数の文脈が、

 

別々の多数の作品に由来しており、

それを多重に重ね合わせているという

このゲーム独自の性質も見られます。

「マルチソース」という性質を

共有しつつも、これをより

強固な形で進めることで、

新しい効果を生んでいると思われます。

 

メディアミックスによく当てはまる点と

強固が故にはみだしてしまう点、

この双方において、

メディアミックスを理解する上での

事例としての意義があると思います。

 

マーケティングとの距離感

ここでもう一つ、

気を付ければならないことがあります。

 

上で引用したマーク・スタインバーグの

メディアミックスの定義は、

販促が目的であることも

含んでいました。

 

ところが、ここまで挙げてきた

ヴァーレントゥーガとその派生は、

あくまでフリーゲームであり、

本質的に販促を目的としません。

 

この点が、この記事における

課題の一つだと考えています。

 

しかし一方で、ここまで挙げた内容は、

マーケティングと無縁とは言い切れません。

さらには、

ここにも幾つかのテーマが

潜在しているものと考えています。

 

これはなぜか。

以下の二つの観点から、

答えを記していきます。

 

まず1つめ。

きのこたけのこ戦争という現象についてです。

 

やはり(奇しくも)

マーク・スタインバーグさんの

著書の内容ですが、

明治製菓さんは戦後の早い段階から

キャラクターを用いた販促を

実施してきたことが分かります。

 

きのこたけのこ戦争というブームが

ユーザーによって強まったのか、

明治製菓さんの力によって

進められてきたのかはさておき。

 

現在実際に、明治製菓さんによって、

この現象が販促に活用されていることは、

明らかと言えます。

 

歴史的にお菓子は、

キャラクターと組み合わせられることで

販売と、概念の拡散とが促進されてきており

今でも継続されているということです。

 

さらに、

TV、新聞、動画投稿サイト、SNS等の

多メディアにおいて展開し、

広告自体もメディアとして機能しており、

なおかつユーザーのコンテンツ生成をも

巻き込んでいる点で、

メディアミックスの近年の動向を

踏襲しているものとも言えるでしょう。

 

この観点から振り返ることにより、

きのこたけのこ戦争・IF が

この販促とどう相互作用し、

どのようなミームを運び込んだか等、

本来のメディアミックスの定義に立ち返った

議論ができるように思います。

 

我々がお菓子メーカー各社さんのイメージを

どのように捉えているのか、

テキスト分析を実施することも出来そうです。

 

欲を言えば、

きのこたけのこ戦争・IFを遊んだかたが

プレイ時に受けたお菓子の印象や

アニメからの引用をどう評価しているか、

プレイ後のお菓子の購買行動について

量的・質的調査までできれば完璧ですが

これは流石に難しいでしょうか・・・?

 

 

また、販促についての

もう1つの観点です。

 

上述のきのこたけのこ戦争・IFの

スタッフのかたを迎えて、

幼女戦記で知られるカルロ・ゼンさんが

シナリオを担当されたゲーム

「銃魔のレザネーション」があります。

 

これは KADOKAWA ブランドの1つ

エンターブレインから

書籍化がなされています。

 

ゲームについては例えば下記の記事が

詳しいです。

forest.watch.impress.co.jp

 

フリーゲームが、

販促の一部として取り込まれている点は

評価が分かれると思います。

 

しかし少なくとも、

現象として興味深い点が

多分に含まれています。

 

ここではフリーゲーム

販促のためのメディアの1として

認識されているであろう点。

 

派生作品間での設定や通例の参照という

(これは後述します)

フリーゲームに固有と思しき

素材の柔軟な参照関係が、

商業作品にも間接的に影響した点。

 

そして、

アニメ・小説等をソースとして

ヴァーレントゥーガ全体への

多様な参照があっただけではなく、

ヴァーレントゥーガをソースとして

少なくとも小説への逆輸入が

明示的に示されている点。

 

これらどの観点にせよ、

ヴァーレントゥーガを含む

フリーゲーム制作コミュニティが、

商業作品を含むコンテンツ空間全体の中で、

想像力を提供する機関として

(どのように)機能しているかを

検討する余地があります。

 

少なくとも CiNii や Google Scholar

ヴァーレントゥーガが1件もヒットしない事態は

解消されなければならない気持ちです・・・。 

CiNii Articles 検索 -  ヴァーレントゥーガ

 

また、商業の観点から言えば、

Lost Technology という作品が

Steam における有料配信においても

2018年10月時点で「非常に好評」と

受容されている点も、

見逃せません。

store.steampowered.com

 

多重に引用される設定・要素・世界観

最後に、

メディアミックスの大きな特徴である

キャラクターの拡散が、

ヴァーレントゥーガの作品間において

どのような動きを示しているかを

考えたいと思います。

 

作品間の引用関係について、

ゲームコミュニティの側面は後半に譲るとし、

ここではキャラクターや世界観に着目します。

 

再びマーク・スタインバーグさんの

書籍に基づいていきます。

 

キャラクターの拡散は、

1960年代からお菓子を媒体として

生じていた現象とされています。

ただし、

これに加えて2000年代以降、

様々なメディアに同一人物が登場し、

大枠の設定を共有しながらも

時には別の時間軸を歩むこともする、

キャラクターが世界観を牽引する手法として

再定義されているようです。

 

ヴァーレントゥーガの派生作品においては

メディアを跨ぐことこそ少ないです。

が、

同一の、あるいは一部のみ共通点を持った

キャラクターが、

別々の作品で別々の役割を果たしていきます。

これは2000年代以降の流れに近いでしょう。

 

典型的には、

オリジナルシナリオから

旧ナチガリア戦記へと引用された

オルジンというキャラクター。

 

あるいは、

前述のきのこたけのこ戦争・IFで、

光の目のキャラクターを

大勢参入させることができる MOD 。

 

さて、さらに、こうしたこと以上に

ヴァーレントゥーガ特有と言えるのが、

キャラクターの顔や特徴、役割、

必殺技、あるいは縮小されたドット絵のみが

作品間を跨いで登場する現象です。

 

まずグラフィックについて。

 

推察するに、

もともとフリー素材を集めて制作する、

あるいは、素材のみを提供する作者のかたが

協力する形でプロジェクトが始まったのか、

同一の顔グラフィックの人物が

よく別々の作品に共通して登場します。

 

典型的には、「JUNKIE Junk Shop」や

Xaos Mir」といったサイトからの

使用があります。

 

例えば、

旧ナチガリア戦記のキーディス、

光の目 旧 Ver. のバイルシュタイン、

むなしい努力 旧 Ver. のセルシウス

同じ顔グラフィックから生まれており、

どの人物も勢力のマスターや宿将など

 重要な役割にいます。

 

儚げながらも少し冷淡な見た目から、

それを表すような人物像やイベントの

描写が見られます。

 

少し寛容に考えるならば、

別々の人生を歩むキャラクターの

1として考えることが可能でしょう。

 

光の目でもむなしい努力でも、現在、

顔グラフィックはオリジナルの画像に

リメイクされていますが、

元の絵が想像力の源泉となり

そのキャラクターが出来上がったという

可能性が残ります。

 

そうであれば、

もとは1つのキャラクターが

それぞれの作品の制作に貢献したという

捉え方が可能でしょう。

 

続いてシステム面です。

 

フリーゲームであるがゆえに、

攻撃技や特殊効果に関する「スクリプト」、

すなわち実装においても、

互いに参考にしやすい作りに

なっています。

 

このため、

類似の固有技や必殺技を持つ人物が、

作品をまたいで登場し、

戦術における同じ役割を務めるといった形で

拡散されていると推測できます。

 

物語上の典型的な役割のうち

 特に何に相当するか?(「メンター」か?)

など、物語論上のポジションについても

分析できるかもしれません。 

 

さて、グラフィックとシステムを通じて、

個々のキャラクターのスケールを

見てきました。

 

さらに、この章でも、

よりスケールを挙げて

ゲームの世界観のレベルも

考えていきましょう。

 

音楽や色調、ゲームバランス、

これらを含むゲームのテーマ。

ここでは分かりやすさのため仮にテーマという語を用います。

 例えば『ハーフリアル』では「虚構世界」という語が

 近い意味として使われていますね。

 

テーマ設定についてもやはり

各派生作品が、

尊敬も込めてよく参照されているようです。

 

悲劇か喜劇か。

豪勢か穏やかか。

歴史のパロディなのか否か。

ファンタジーの割合はいかほどか。

心なしか、

 バランスがパワーインフレであるかどうかと

 全体の雰囲気が豪勢であるかどうかには

 相関がありそうに感じます。

 「ルール」と「フィクション」の組を考えるうえで

 これも興味深い現象ですね。

 

これらのテイストの好みに応じて、

後継作品とも呼べる作品の数々も

現れてきているように思えます。

 

ここまで見てきたように、すでに、

きのこたけのこ戦争・IFは

光の目の、

銃魔のレザネーションは

Lost Technology ときのこたけのこ戦争・IFの

後継作品と理解できます。

推測するにきのこたけのこ戦争・IFは、

 円形に近いワールドマップや軽快な音楽、

 ビビッドな色調、東方戦線におけるロボット兵の活躍などは

 旧ナチガリア戦記の影響も受けているようにも見えますね。

 

これに加えてさらなる、

光の目チルドレン、

NGTチルドレン、

きのたけチルドレン、

はるべりチルドレンと称して差し支えないような

それぞれのテーマを受け継いだ作品が、

続々と生まれているように目されます。

NGTはむなしい努力、はるべりはハルスベリヤ叙事詩、特に2のことを指します。

 

数作品をまたいで世界観が伝播されゆくこと。

数々の作品が相互作用しつつも

全体として固有の体系や方向性を

醸成していること。

 

これらの現象に見るにヴァーレントゥーガは、

媒体という意味においてもまた、

「メディア」の1つとして機能しているのでは

ないでしょうか。

 

まとめ 

どのようにヴァーレントゥーガが

「メディアミックス」であり、

どのような点が非自明だったかを

「in」「販促」「out」の3つの観点から

振り返ります。

 

情報の「in」としては、

アニメや映画、ネット上の現象など

多種類のメディアからのキャラクターの

(個々の特徴の)流入がありました。

 

つまり、

従来のメディアミックスの特性である

媒体をまたいだキャラクターの伝播が

強い強度で見られました。

 

特に、 

複数のメディアにまたがる情報から

世界観が構成されている点では、

メディアミックスの近年の傾向をも

きれいに踏襲しているものと目されます。

 

加えて、ソースとなるテキストが

ユーザー主体によっても醸成された点は

ニコ百のきのこたけのこ戦争を思い出してください)、

より直近の流れと符合します。 

 

ここで、

複数メディアにまたがる「マルチソース」は

マーク・スタインバーグさんが意図した

「マルチソース」の意味を超えて、

より強固かつヴァーレントゥーガ特有の形で

現出したものと考えられます。

 

このようにヴァーレントゥーガは、

メディアミックスの特性を

(ときには先を行き過ぎた形で)

あらわにする一方、

フリーゲームであるために当然ながら、

メディアミックスの重要な特性の1つ

「販促」の意図は持ちません。

 

この意味では、従来の意味の

メディアミックスから、

若干逸れてしまいます。

 

しかし、他でもないKADOKAWAさんが

販促の1メディアとして

ヴァーレントゥーガを射程に入れていること。

 

また、これまた他でもない明治製菓さんが

きのこたけのこ戦争・「IF」への言及の有無は明らかにできていませんが、

販促に同じソースの世界観を活用していること。

 

これらの事実から、

販促と一定の距離は置きながらも、

ある種の関係を持つ位置取りにあることが

理解できます。

 

無料のコンテンツを含むメディアミックスの例が

仮にヴァーレントゥーガだけではないにせよ、

既存の販売戦略を相対化する事例として

着目に値するでしょう。

 

また、

お菓子を媒体として醸成されてきた、

商品とキャラクターが行き来するという

日本のメディアミックスの歴史的経緯、

この系譜を踏まえて考察する余地もまた

あるでしょう。

  

最後に、このような豊饒な「in」および

「販促」をも取り巻く土壌を持った

ヴァーレントゥーガの派生作品群が、

どのような「out」を形成したのか。

 

当然ながらメディアの種類は、いずれも同じく

戦略シミュレーションゲームであり、

この枠を出ることは(幾つかの例外を除くと)

ありません。

 

しかし、

同じキャラクターが別々の時空で

ときにはお互いに矛盾する経験をする

(「共可能性」を満たさない)、

このように分岐した out が生じる点で

やはりメディアミックスを踏襲します。

 

 

加えて、

親作品が何であるかに応じて分岐しつつも

ヴァーレントゥーガではこういう作品を作る、

といった流れが形成されていること。

 

続きの記事でもより詳しく書く予定ですが、

こうした動きは、

ヴァーレントゥーガと派生作品が

作品群全体としてのメッセージ、

あるいはその文化を、

オンライン上に出力していると

見ることもできるでしょう。

 

そうだとすれば、

字義通り媒介するものとしての

メディアとしての意義もまた、

改めて問うことができるでしょう。

 

国際的なゲームの動向、

あるいはメディアミックスの動向を

相対化して捉えうるような

日本のゲームの特徴的な事例として、

より議論が進んでいくことを

願っています。

 

さいわい、

きのこたけのこ戦争・IFは英語版も

リリースされており、

実際に遊ぶことを通じた体験として

国際的に需要されるポテンシャルが

ありますからね。

www.moguragames.com

 

それでは、 

ここまで読んでいただき、

ありがとうございました。

 

今後の課題

 今回書き切れず、

いくつかは後編で書きたい内容を

最後に列挙したいと思います。

 

新しいテーマの可能性としては:

 

・なぜパイ投擲の爆発を受け入れられるのか?

・ヴァーレントゥーガでの時間の進行は?

 (リアリティの問題)

 

・ヴァーレントゥーガは歴史シミュレーションか?

 (フォルム論の問題)

 

・クォータービューは何を表現するか?

・なぜ止め絵が動きを伴って見えるのか?

 (メディアの特性の問題)

 

・プレイヤーが制作者でもあることは何を示すのか?

 (プラットフォームの問題)

 

著作権法は整備されるべきか、変わらないべきか?

・インターネットは自由を取り戻せるか?

 (所有者の問題)

 

・素材が人や作品をどのように結びつけるか?

・ユーザーの感想との相互作用はどうか?

 (コミュニティの問題)

 

 

また、今回十分に精査できていないために

より検証しなければならない点として:

 

・このような創作コミュニティとゲームエンジン

 他に存在するか。

 

フリーゲームであることの特異性は何か。

 

・日本の系譜と言える範囲はどこまでか。

 

といった点が挙げられます。

 

まだまだここに記載したほかにも、

ネガティブにもポジティブにも

多くの課題が残されていると思います。

 

そのいくつかは次回また

お見せ出来ればと思います。

 

参考文献

 

書籍(本文)

なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか (角川E-PUB選書)

なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか (角川E-PUB選書)

 

 

 

菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力

菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力

 

 ※文中の引用に加えて、まとめにおけるモノとキャラクターの関係性について。

 

ハイデガーの思想 (岩波新書)

ハイデガーの思想 (岩波新書)

 

 ※2種類の存在の定義と、これを区別しなかったとされる日本の自然観について。

 

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

 

 ※「ルール」と「フィクション」の区別について。

 

アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-

アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-

 

 ※文中の引用に加えて、
 止め絵やクォータービューについて今後の課題でも参考にしております。

 

ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義

ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義

 

銃魔大戦 怠謀連理

銃魔大戦 怠謀連理

 

 

物語論 基礎と応用 (講談社選書メチエ)

物語論 基礎と応用 (講談社選書メチエ)

 

 

おもしろいゲームシナリオの作り方 ―41の人気ゲームに学ぶ企画構成テクニック (GAME|DEV|LAB)

おもしろいゲームシナリオの作り方 ―41の人気ゲームに学ぶ企画構成テクニック (GAME|DEV|LAB)

 

 ※物語のフォーマットの1つ「ヒーローズ・ジャーニー」について。

 

ポスト情報メディア論 (シリーズメディアの未来 11)

ポスト情報メディア論 (シリーズメディアの未来 11)

 

 ※「メディア」とは何かについて全体的に。

 今後の課題の切り口においても、コミュニティの問題をはじめ、

 多岐に渡り参考にしております。

 

書籍(今後の課題 )

 ※リアリティ(特に時間の進行)について。

 

 ※リアリティについて。

 

メディア・コンテンツ論 (シリーズ メディアの未来)

メディア・コンテンツ論 (シリーズ メディアの未来)

 

 ※フォルム論について。

 

 

 ※プラットフォームについて。

 

インターネットは自由を奪う――〈無料〉という落とし穴

インターネットは自由を奪う――〈無料〉という落とし穴

 

 ※所有者の問題について。

 

アーキテクチャと法―法学のアーキテクチュアルな転回?

アーキテクチャと法―法学のアーキテクチュアルな転回?

 

  ※所有者の問題について。

 

 

オンライン・ゲーム

www28.atwiki.jp

最終アクセス:2018/10/25

※特に、「ヴァーレントゥーガ」本家および、

 「光の目」「むなしい努力」「(旧)ナチガリア戦記」について。

 

 

greyhoundgameplay.blogspot.com

最終アクセス:2018/10/21

  

 

KURINOMOTO

最終アクセス:2018/10/24

※きのこたけのこ戦争・IFの制作者さん。

 

kinotakeif.wiki.fc2.com

最終アクセス:2018/10/26

※特に、キャラクターの元ネタ考証について。

 

www.meiji.co.jp

最終アクセス:2018/10/21

 

forest.watch.impress.co.jp

最終アクセス:2018/10/24

 

ch.nicovideo.jp

最終アクセス:2018/10/21

 

store.steampowered.com

最終アクセス:2018/10/21

 

 

LostTechnology Official Website

最終アクセス:2018/10/24

 

 

JUNKIE Junk Shop

最終アクセス:2018/10/21

 

 

Xaos Mir

最終アクセス:2018/10/21

 

 

天涯八潮路結社

最終アクセス:2018/10/24

※ハルスベリヤ叙事詩2の制作者さん。

 

 

mondaigaikoushuki.g1.xrea.com

最終アクセス:2018/10/25

※ 後継作品の話題について。

 本家 Wiki のサイドバーからもリンクのある、代表的な後継作の例です。

 

www.moguragames.com

 最終アクセス:2018/10/25

 

 

映像作品

 

「侵略!?イカ娘」

www.ika-musume.com

 

パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト

 ※特設サイトにあたるものが確認できなかったため、

 タイトルのみの記載になります。

 

 

キノの旅 -the Beautiful World- the Animated Series

www.kinonotabi-anime.com

 

 

 

 

ラブライブ!化する社会で希望を見出すための Aqours 3rd LIVE レポート

こんにちは。センケイです。

 

今回も少し長い議論になりますので、

分かりやすさのため

最初に感想を言いますと。

 

・・・控えめに言って最高でした。

 

これから先どうしようという

自分の道筋の立て方そのものに影響した。

そう言っても過言ではありません。

 

そこで、

ではなぜこのように今回のライブから

希望を受け取ることが出来たのか。

 

これについて、

以下のような3つの観点を軸に

振り返ってみたいと思います。

 

・私たちは、周りを取り巻く資本主義と

 どのように関わってくらしているのか

 

・そのなかで彼女たちが果たす役目を、

 どのように解釈できるのか

 

・これを受けてどのように

 私(達)は生きていくことができるのか

 

それでは早速始めていきましょう。

 

自己充足的な空気に対するささやかな疑念

ときは 2018/06/09。

 

少し私の話になりますが、

ちょうどこのころ、

日々仕事もプライベートもかなり忙しく、

この日を楽しみにすることで・・・

何とか日々を乗り切っていた状況でした。

 

しかし、このライブの直前に

改めて色々考えており、突如、

この日をどのように楽しむべきか?が、

少し分からなくなってしまいました。

 

もちろん、こうした疑念を無視し、

ただ単にそのときを楽しめばいい!と

解決してしまうこともできたと思います。

 

しかし一方で、

この疑念とうまい調和が持てれば、

そのような力をライブから受け取れれば、

このライブの終了後も続く自分の糧へと、

より昇華できるのではないか。

 

そのように考え、

この疑念は一応心に留めることにしました。

 

ではこのような疑念が生まれた理由は何か。

 

1つ目は、

関心は近いけれどもアイドルライブは見ない

そういう先輩に、

 このライブの意義をどう説明したらよいのか

分からなかったこと。

 

もう1つは、

当ライブもまた、

良くも悪くも、資本主義による

一商品に過ぎないであろうということです。

 

少女たちの歌は閉塞した現代社会に
突破口をもたらすのか

 

特に後者。

この祭典が単に一商品に過ぎないなら、

私たちにとって希望をもたらす存在になるかの

分かれ目にもなってくると言えるでしょう。

 

それはなぜか。

 

直観的にはなんとなくイメージ頂けるよう

思いますが、

一応より深くこの出来事に立ち入るべく、

まずは資本主義に対する近年の見解を、

振り返ってみたいと思います。

 

個人的に興味があって読んだ書籍、

主に社会学関係の文献では、

「資本主義は外部を失った」という議論が

頻出しています。

 (『広告都市東京』

 『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』

 『他者の倫理学』『オルタナティブロックの社会学』など。

 文献一覧は最下部にまとめています。

 

これは、以下のように

まとめられると思います。

 

冷戦が終結し、別の勢力から

 批判を受けることが少なくなった。

 

非日常や相対的良さが隅々に浸透したため

 それらの特別感が形骸化した。

 

・資本主義に対する批判も

 商品として受容されるようになった。

 

 この状況を良いとみるか悪いとみるか、

この状況の原因がどの勢力に帰属するかは

結論を1つにすることが難しそうです。

 

が、少なくとも現代社会のこの状況が

閉塞感を抱えているということ自体は、

一定のコンセンサスを得ているのでは

ないでしょうか。

 

 これをコンテクストとして踏まえると、

この祭典がもたらす喜びの中心を

日常に対峙する非日常として捉えるのは、

あまり好ましくなさそうです。

 

逆にここに希望を見出すには、

それ以外・それ以上の価値を、

外挿される特殊なモノとしてではなく、

受け入れることが必要でしょう。

 

まあしかし、このような構えでいても

いざ実際にライブを目の当たりにすると

思考よりも先に身体がよく感受するもので。

 

以下の記述のほとんどは、ライブ後に

事後的に解釈した内容になりますが・・・笑。

 

それでは少しずつ見ていきましょう。

 

ところでこのライブが行われた会場が、

 象徴的な広告都市渋谷を開発してきた

 西武の本拠地であること。そして

 その球場自体にこれでもかと

  広告が散りばめられていること。

 これらの事実にも何かの因果を

 感じざるを得ませんが、

 これについてはまたの機会に。

 

一点透視法的な真理からの脱出と
集合知的アニメティズム

ライブが始まり、

サンシャイン!! 2期を象徴する曲として

一番に飛び込んできたのは

未来の僕らは知ってるよ」です。

が、これは最後のあたりに改めて

振り返りたいと思います。

 

さて 、ここで2曲目がリアル脱出ゲームの

テーマ曲であることからも、

いくつもの意味を感じ取ることができます。

 

が、これを読み解いていく上でも

ゾンビ論やタワーディフェンスについて

それなりに長いコンテクストを要し、

ここでの本論から脱線してしまうため、

機会を改めたいと思います。

 

つまり、ここまでの流れを踏まえたうえで

最初に深入りしたいのが、

「MY舞☆TONIGHT」です。

 

そのヒントは前述の

『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』

にあります。

 

この書籍では、

非日常が浸透しすぎて

外部を感じることが難しくなった

「それなりに愉しく幸福な絶望」に対し、

私たちの取れ得る手が

広く考察されています。

 

結論を先取りすると一つの回答として、

徹底してテクノロジーと身体を

接合することが挙げられています。

 

例えば映画で、

物語よりも美的側面を強調するような、

フォーマットそのものへの注視と

言い換えていも良いでしょう。

 

しかしもちろん、

このライブにおいてテクノロジー

テクノロジーそのものが目的ではなく、

あくまで音を楽しむ手段として

そのフォーマット自体は影を潜めています。

 

この意味では、前述の著書が述べる希望に

素直に便乗することはできません。

 

しかしながら、

テクノロジーと身体との関わりに

徹底して向き合うという視点からは、

ひとつの方向性が示唆されます。

 

MY舞☆TONIGHT によって示される

調和という観点によって、

その可能性が示されてきます。

 

※なおMY舞☆TONIGHT が、

その背景にあるアニメ本編の中で

「調和」を示していることは、

下記の記事から理解することができます。

 

体育会系と文科系、光と闇といった

二項対立がこの2話前半で展開されますが、

どちらか一方を採択するのではなく、

全体を包摂するモデルを見出すことで

この回の解決へと至ります。

 

この解決方法は、まるで

西洋近代の二項対立≒一点透視的モデルを

克服しているかのようです。

 

テクノロジーとのかかわり方、そして

一点透視法的モデルに抵抗する手法は、

Thomas Lamarre というかたの邦訳著書

『アニメ・マシーン』に詳しくあります。

 

この著書においては、

一点透視法的である

「シネマティズム」という概念と、

これに対する

「アニメティズム」という概念が、

繰り返し出てきます。

 

著書の中では、両者とも

かなり多義的なのですが、

分かりやすい例で示すとすると。

 

シネマティズムは、

電車の先頭車両から前面を見、

正面に向かって突入していく、

カメラならではの視点であり、

 

アニメティズムは、

電車の横の窓から、

風景が過ぎさるのを眺める視点、

このように理解できるでしょう。

 

正面から突入していく描画を

2D アニメで実現するのは

従来なかなか難しかったわけですね。

 

しかしこれらの視点はこの事情に留まらず、

ものの捉え方そのものの観点をもたらします。

 

厳密な等号では結べないにせよ、

このシネマティズムこそ、

近代西洋的な見方であり、

純粋なリアリティの追求であり、

唯一の真理を根拠とする思想であり、

全体を俯瞰するパノプティコン的な

視点である。

そのように解釈できるのでは

ないでしょうか。

 

これに対してアニメティズムは、

各要素はあくまで各要素として、

一つに統合されずその役割を果たす、

そのような視座になるものと思います。

 

上の資本主義論、

例えば『広告都市東京』によれば、

全体を俯瞰するような視点は

もはや無効である、と導きだされます。

 

外部がない以上、

外部から資本主義全体を見渡して

メタな言及をすることができません。

 

一方、少し私の解釈も入りますが、

ルーマン 社会システム理論』などの

見方を導入していくと、

相対的な良さという

差異の連続で意味が構築される以上、

関係性の中でしか事実を定義できない。

 

そのような帰結が

得られるのではないでしょうか?

 

ここにおいて、単にシネマティズムを

否定し、アニメティズムに全振りしても、

十分な解決策とは言えないでしょう。

 

このあたりはハイデガーの思想あたりから

ひっくり返して考え、

西洋近代の功罪を見ていくことで

精緻な議論ができそうですが、

私の理解を超えているため

あまり深入りするのは避けようと思います。

 

ただ、科学的手法とテクノロジー

西洋近代の合理論の上に成立している等、

いくつかの点で

直観的に明らかと言えるでしょう。

 

本論に戻りましょう。

 

ここでは 3D モデルに対して

セル画調のテクスチャーを重ね、

シネマティズム・アニメティズムという

2つのテクノロジーの融和が取られます。

 

さらにこのアニメ映像に対し、

実際の人物が踊りを重ねる。

 

アニメ映像と人物とを

同時に見ていることは困難ですから、

この意味でも、要素は要素のままという

アニメティズム的・分解投影図的な

表現がなされていると言えるでしょう。

 

そしてこの曲のフォーマットは、

まさしく西洋近代的な音楽に対し

東洋伝統という代替的な技法が

組み合わせて用いられている。

 

このように複数のレベルにおいて、

「調和」が重なっています。

 

ここまで視てきたように、

このように資本主義が不可能にしている

唯一絶対の視点・近代の欲望に対し、

全肯定も全否定もせず融和し、

集合知的な理解を提示する。

 

ここに1つの希望が立ち現れている、

そのように解釈できると考えます。

 

もちろん、東洋は決して西洋近代に対する

唯一のオルタナティブとは言えません。

特に、日本人の日本は特別だという議論に

多くの待ったが必要であることも

言うまでもないでしょう。

 

しかし、

こと『ハイデガーの思想』においては、

西洋近代的モデルに対する克服として

東洋 特に日本における存在・本質が

クローズアップされています。

 

自分が理解する限り、

理想が先か、その工程が先かという

この2つの存在論の一方を採択せず、

はじめから一緒くただったと見る

東洋的な見方が、

現代思想に一定のインパクトを

与えたようです。

 

2018/12/01追記:

ハイデガーの思想』において、

ハイデガーが影響を受けたのは、

あくまで(東洋思想とやや類似している)

ギリシャ哲学であるとされています。

 

ハイデガーと東洋思想の関係については、

自分の理解がまだ耳学問レベルだったため、

文献精査の上で追記する予定です。

ごめんなさい。

 

ここまで見てきたように、

鳥瞰的な視点を失効した私たちに

取りうる選択肢として、

効果的なテクノロジーへの

向かい方として 、

鳥瞰図的な視点と分解投影図的な視点の

2つの視点の(多重の)折衷を

見出してきました。

 

ここからさらに、

「MIRACLE WAVE」

「Awaken the power」

「WATER BLUE NEW WORLD」と

大きく展開していきます。

 

これらを通じて見出される希望は何か。

1つずつ見てきましょう。

 

この先は単に解釈の問題にとどまらず

仕事への不安など実践的な効果も

見いだせると考えています。

 

潜在的な可能性と偶発的な将来の獲得

 「いま」という内部に対し、

それでもあきらめずに外部を希求するには

どうすれば良いか。

 

その解決手法を提示したのが、

「MIRACLE WAVE」

「Awaken the power」

の2曲だと思います。

 

ここで争点になるのが、

「いま」に対する時間的外部として

「未来」を採るかどうかです。

 

じゃあ未来以外の選択肢は何だというと

これは潜在的なさまざまな現在ですが、

また後述します。

 

まず「MIRACLE WAVE」ですが、

ここでは新しい技能の獲得により、

与えられた「いま」の満足に対する

力強い抵抗が見出されます。

 

つまり現在可能ではないことを

可能にする過程を通じて、

時間的な外部が見出しうるのでは、

という観点です。

 

これも後述しますが、

今のところ機械に対する人間の優位性として

自ら選択し、自分や環境を改変していくという

能力が挙げられます。

 

この曲においては、

千歌役である伊波杏樹さんによって

実際にバク転が披露される

シークエンスがあり、

曲中に大きな反響がありました。

 

f:id:a16777216:20180708223353p:plain

出典:プロジェクトラブライブ!/サンライズ

新しいことを可能にすること。

自分≒内部環境を動的に構築すること。

 

これは機械に対する抵抗のみならず、

単に人間である我々が自生するためにも

重要な動きになります。

 

自らの構築と改変は、

オートポイエーシス的な挙動と

言い換えていもいいでしょう。

 

これを1つの希望とするならば、

作中のアニメだけではなく

技能獲得を現実空間に持ち込むという

リアリティ・身体への回帰を

まさしく体現した希望と言えるでしょう。

 

それも、必然的に当然やるべき課題、

すなわち唯一の最適解へ向かうのではなく、

選択肢の一つとして選ぶ点に、

強い自発性を読み取ることが出来ます。

 

このような決定の自由度についても、

 ゲーム研究やフロー、

 決定論や非決定論を交えた

 多様な議論ができると思いますが・・・

 まあ一旦深入りは後回しにしましょう。

 実践的な意義だけ、後で少し述べます。

 

前述の

『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』

においては、

単に不可能を可能にするという

時間的外部の導入だけでは

不完全だと述べられています。

 

そうではなく、

単に不可能を可能にするのでなく、

潜在的な可能性の1つを可視化すること。

 

この文脈において、

選択肢の1つのしての達成であることが

意味を成し得てきます。

 

この、潜在的な可能性の1つという観点は、

「Awaken the power」において

より強く引き出されます。

 

潜在的な可能性を見据えることは、

雇用のランダム性があまりに高く、

次に何を求められるか分からない

現代市場において、

大いなる意味を持ち得ます。

 

つまり、

偶然・突発的に求められたスキルに

即座に対応できるよう、

いろいろな自分の可能性を温存することで

リスク分散するという話です。

 

動的にリスク分散する生存戦略

過去にもいくつか書いたのですが、

今回のライブによって

かなり具体的なイメージが強まりました。

 

a16777216.hatenablog.com

 

いま・このときの追求と自己組織化的視点

 

人的資本の流動化によって

雇用が不安定になっていることは、

『認知資本主義』を待たず明らかですが、

そのような中で我々の知識・スキルは

どこに蓄積されるのか。

この読解が、上記の認知資本主義によって

恐らく本邦でも最も詳しく

述べられているでしょう。

 

例えば、 業務知識の蓄積場所も、

もはや企業内ではなく

プライベート空間に重きが移っているのでは。

あるいは、

ワインの価値がいい加減にならないためには、

一定の複雑なプロセスが必要なのではないか。

 

こうした私たちの生き方や勤労・消費の関係が

詳しく書き込まれています。

 

私たちは今や、

非常に複雑な情報を、

例えば一企業といった特定の権威のみを

根拠とすることなく、

多数のリソースから選び取る必要があります。

 

こうした中で、

ある意味では生きるヒントさえ与えてくれる、

そう思わされたのが

「Awaken the power」

「WATER BLUE NEW WORLD」

になります。

 

Awaken the power のサビは、

「セカイはきっと

知らないパワーで輝いてる」

という象徴的な文から開始されます。

 

パノプティコン的視点が失効しただけでなく

複雑性の高まりに応じて

唯一の真理・絶対の権威持ちづらくなった

我々に対し、

世界に対しての謙虚な姿勢を示しています。

 

安易な外部の導入を避け、

「眠るチカラが動きはじめる」と

 潜在的な現在に意識を傾けること。

 

これはまさに

『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』

によって示された、

一つの希望ではなかったでしょうか。

 

このように制限を受けた情報に対し、

「始まるときは終わりのことなど

考えてない」として

動的に情報を更新し対応する在り方は、

数理科学的にも合理性を見出せます。

 

特定の収束点を目指すのではなく、

新規情報に対し常に対応を続ける

強化学習

 

あるいは、

時間的・空間的な近隣しか見ず、

モリーを節約しつつも、

それでも全体としてはより複雑な

構造を作り上げる自己組織化。

これらがぱっと思い浮かびます。

 

そして、

この流動的な現代において

いかに自身を適合させるか。

そのヒントは、

「WATER BLUE NEW WORLD」

に引き継がれます。

 

自己物語の通時的構築

 

今がいかに好ましく、

それが重要であっても、

次の何かを探す必要があること

(例えば技術・場所・目標と解釈しました) 。

 

ここまで書いてきた強化学習的な

アプローチは何となく

これまでも認識していましたが、

この「WATER BLUE NEW WORLD」の

力強いメッセージ、

そしてそれを強化する曲調とダンスに、

新しい感覚を埋め込まれました。

 

自分の方針さえも変える程だったというのは

このことです。

 

自分も技術者のはしくれとして、

現在いい仕事をしていても、

常に新しい挑戦は考慮しなければなりません。

 

偶発的なきっかけにも便乗しつつ、

しかし今をなおざりにもせず、

次の展開に向けた鍛錬・学習が

肝要になるのだと痛感しました。

 

もちろんどの選択も偶有でしかなく

それが唯一の正解である保証はありません。

 

しかしそれでも選択し続けることは、

学習し続けるということでもあるでしょう。

 

だから「未来の僕らは知ってるよ

なのでしょう。

 

ミクロな目標だけに左右されず

マクロな目標・選択・一貫性を持つには、

自分の物語を持つことが重要、

という議論が

自己心理学の最先端』によって

なされています。

 

自分自身がどのような選択肢を好むのか。

自分の物語に立ち返ることで、

一貫した姿勢を思い出せるためです。

これこそ、1つの

根拠≒権威と言ってもいいでしょう。

 

また、自己の物語には

もう一つ意義があります。

 

唯一ではない回答に向かって動き、

例え後悔があったとしても、

そのもっと先の未来から顧みれば

新たに意味のある解釈が

できるかもしれない、

ということです。

 

そのようなささやかな

根拠と安心要素を胸に、

これからを挑戦できることが、

私(たち)にもたらされた

もう1つの希望と言えそうです。

 

そして実際、

挑戦をしなければならないでしょう。

あぐらをかきつつあったライフスタイル、

あるいは新しい目標に対する

過度の不安について、

ちょっとした反省を感じます。

 

テクノロジーと向き合うこと。

そのうえで二項対立を克服すること。

唯一の真理がないことを受け入れること。

その上で動的に対応しつつ、

自分の選択と可能性を受け入れること。

今を徹底して追求することで、

結果的に次の目標を浮かび上がらせること。

 

このように、まさに唯一でない方略により

複雑さと閉塞感の社会に対し

抵抗していける。

そのような概念を獲得できたと思います。

 

何万人もを魅了し、

一人一人の挑戦する意欲を掻き立てるライブ。

Aqours はもちろん、

他のあらゆる魅力的なパフォーマンス、

そしてそれらが人々を励ます事態が、

今後も続いていきますように。

 

それでは、ここまでありがとうございました。

 

 

増補 広告都市・東京: その誕生と死 (ちくま学芸文庫)

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ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか

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オルタナティブロックの社会学

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 @momorin_cloverZ  2018/07/08 最終アクセス

 

 

アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-

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ルーマン 社会システム理論 [「知」の扉をひらく]

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ハイデガーの思想 (岩波新書)

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オートポイエーシス―第三世代システム

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認知資本主義―21世紀のポリティカル・エコノミー

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kato19.blogspot.com

2018/07/08 最終アクセス

決断は強化学習とともに これまでとこれから

こんばんは。

仕事も始まってからしばらくが経ち、

色々な決断が必要となる場面も増えてきました。

 

いろいろとご縁があって、

判断、決断、意思といったことを

考えたり、議論したりする機会も

最近多くありました。

 

そんな中で振り返ってみると、 

これまでは、人生を分かつような決断、

院進、恋愛、就職いずれも、

 

人がふつう選ばないようなとっぴな

(選択肢というより)選択の方法論で、

上手く納得できるように

進めてきました。

 

因果関係はさておき、

ともあれ結果的には今、

かなり充実した日々を過ごしています。

 

いっぽうで、

今も躓きが完全になくなるわけでもなく、

 

そしてこれまでも、

やはり様々な苦労や失敗がありました。

 

人に迷惑をかけてきたことや、

反省される点も多々あります。

 

これらを踏まえて、

判断や意思決定における

役に立つ手法やその理論化、

 

うまく行かないことの振り返り、

 

そして理論化していく上で

抑えなければいけない知識の

課題感、

 

そして最後にこれらを顧みて

今後の過ごし方について

考えてみようと思います。

 

以下のような構成で進めていきます:

 

・うまくいった自由な決断

・強化学習と意思決定

・これからさあ、どうしよう?

 

うまくいった自由な決断

 

どちらかと言えば友達も少なく、

非モテで、

目立った特徴も無く、

しかしそれをさほど気にしていなかった

自分ですが、

 

何かと難所を切り抜け、

不満の少ない日々に至っています。

 

勿論、

実家は勉強を後押しする環境であったり、

出会った人に恵まれたりと、

環境要因のおかげがなかったと言えば

嘘になります。

 

とはいえ、

そうした機会をふいにせず、

選択の中で活かしてこれたという自負も、

ある程度あります。

 

その中心にあるのが、

選択の自由だと考えています。

 

具体的には・・・

人間の認識の虚を突くことこそが、

自分の性格とうまくソリが合って

抜け道を見つけてきたのかな、と。

 

さて、この

「人間の認識の虚」とは何か。

詳しく書いていきます。

 

特に就職対象の人気を考えたとき、

それがべき則に従っているものと

仮定しましょう。

 

このとき、我々は

そのヘッド(人気)の就職対象と、

テール(不人気)の就職対象、

どちらに挑むのが好ましいでしょうか?

 

実は上の問の時点で、

既に罠があるということに

お気づきでしょうか。

 

べき則、つまり、ヘッドとテールの間は

グラデーションになっており、

当然中程度の就職対象が

それなりのボリュームをもって

存在しているはずです。

 

ふと気を抜くと、

つい両極端こそが目につきますが、

その二元論に陥ってしまう必要はないのです。

 

これはまた、

フリーさ・アウトローさという軸においても

言えるのではないでしょうか。

 

普通の企業への就職を、秩序の極に置き、

その反対の極として例えば

フリーランスやブロガー、お店の開業などを

考えるとしましょう。

 

さて、この軸においても、

その間を取るような

無数の選択肢が転がっているのでは

ないでしょうか?

 

一応補足すると、

能力的あるいは身体的に、

ヘッドの企業、あるいはフリーの活動に

充分な適性があれば、

その道を阻む理由はないと言えましょう。

 

しかし、自分、あるいは

自分とにたタイプの人間の場合はどうか。

 

そのように考えていったとき、

 

羨ましがられるような名企業ではなくても

自分に合っており、

楽しく誇りを持ってできる

業務内容のところや、

 

フリーではないけれども

半ば社内ベンチャーのようにできるところが、

 

少なくとも自分の場合・・・

開けてきました。

 

これはその手法にも言えることでしょう。

就活サイトを使うでもなく、

かといって SNS 上で知名度を上げるでもない、

さまざまな中間的な(もしくは別次元の)

選択肢があるというのが、

自分の場合やはり見えてきたのです。

 

もちろん、

両極の象徴的な選択に適性があれば、

それをやめる理由はないという点は

変わりありません。

 

さて、

ここまでを一括りにして考えると、

「行動には常に一定のランダムさを持たせる」

とまとめることができるのでは、と

考えています。

 

ヘッドのものや、

何としてもなりたいもの、

あるいは王道の方法論を中心に、

ほんの少しブラしてやるのです。

 

何としてもなりたいものが独立なのであれば、

 これをヘッドとして一般の企業をテールとする、

 という見方もできますね。

 同様に、何としてもなりたいものが研究者である場合にも、

 研究者と非研究者の中庸の選択肢が存在しているという点で

 概ね同じようにこの議論が適用できると思います。

 私にとっては研究者もまた象徴的な憧れでありました。

 

 また、少し脱線しますが、

 このような二元論になりやすい構図には美点もあって、

 皆がそのように考えやすいからこそ

 虚を突けば倍率の低い所を狙い、

 成功率を高める可能性が高い、と言えると思います。

 また、別の観点から、

 実は成功率が高いんだけれども

 みんながやろうとしないがゆえにみんながやりたがらない、

 そういう自己循環になっている選択肢も

 案外多数転がっているように思います。

 そういうところこそ穴場ではないでしょうか?

 

このような選択肢の持ち方を

私が支持している理由は、

複数あります。

 

便利な強化学習の活かし方

 

 まだまだ勉強は途上ですが、

強化学習を学ぶようになってから事後的に、

自分の選択のやり方がこれに似ている点を

痛感し始めました。

 

一定のランダムさを加えながら、

就職先空間を探索し、

その結果の良しあし(合う合わない)を

都度フィードバックする。

 

これによって、下記の5つのトラップを

回避できると思います。

①期待と内実のギャップ

②望んだとおりにいかない挫折

③小高い丘に留まってしまう

登ったはずの丘が段々沈降してしまう

⑤似た失敗をする 

 

①期待と内実のギャップ。

 

高難易度にも関わらず果敢に挑み、

仮に思い通りにいったとしましょう。 

しかしそれが期待に添わないものであったら。

 

あるいは②望んだとおりに

それを手に入れることができないなら。

 

そのときに次の一手を失わない、というのが

強化学習の醍醐味という訳です。

 

高難度のそれを目指したという行動について、

その見返りの小ささあでれ、

その成功率の小ささであれ、

失敗に基づき低い評価に更新します。

 

そしてその低くなった評価よりも

まだ幾分マシな残った選択肢、

なければランダムに次の選択をあげる。

というわけです。

 

手に入ったもの≒環境を変化させるように

 働きかけるという探索もあり得ますが、

 これも強化学習の枠組みに近い対応と言えるでしょう。

 

③小高い丘に留まってしまう

④登ったはずの丘が段々沈降してしまう

 さて、こちらの2つは、

一度選んだ選択をランダムに破棄する場合、

現実では一定の時間的・社会的コストがかかるため、

直接あてはめられないところがあるため

やや慎重に議論する必要があります。

 

極端な例で、少なくとも言えるのは・・・

この選択を破棄するのに 10 のダメージがあるが、

今のままでは毎年 6 のダメージがある。

という場合は2年後を考え、

新しい選択肢を(例えランダムにでも)

生成する形が良いと言えるでしょう。

 

ところで、世の中には無数の選択肢があるため

1つ1つを評価し、そのつど破棄していくのでは

時間も足りないし身も持ちません。

 

そこで使える手法が「一般化」ですね。

要素の組み合わせが類似しているものは、

まとめて評価を上げ下げするのです。

これにより⑤似た失敗 を予防できます。


ただしその粒度をどの程度にするか?は

人類全体に残された課題、と

いったところですね。

 

ところで、

こうした「ほんの少しのランダムが適切だ」

という議論を支持する話題は、

もうちょっと色々あります。

 

1つは複雑性。

複雑性を測る指標はさまざまで、

統一的で唯一の指標があるわけでないことは

Wikipedia を見るだけでも明瞭なのですが・・・

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%9B%91%E6%80%A7

 

秩序 vs. 無秩序 の間、

すなわちランダムさが中程度のときに

複雑さが最も高まる、という見解が

(自分の観測範囲では)

普遍的に見られるように思います。

 

例えば人間の社会や建造物。

これは完全に規則的な結晶でもなければ、

完全にランダムな砂の模様のようでも

ありませんね。

 

もう1つは自由意志。

「どうしてもやりたい」ことだけをやる。

これって自由のようでいて、

その1つの選択肢に束縛されており、

実は不自由ではないでしょうか。

 

特にそれが本能による先天的な欲望の場合や、

反射的な欲望の場合、

(その人の歴史に基づく場合は後天的ですが、

 それが根深すぎて常に一択をとってしまうなら

 これもまた不自由の源と言えるでしょう)

ほとんど自分の意思が介在されていないような

状況になってしまいますね。

 

もちろん完全なランダムもまた

自由意志とは言えないでしょう。

 

もっとも、やりたいことに一意専心するためには、

 恐らくそのプロセスには様々な工夫、

 あるいは環境作りが求められるため、

 一つの目標を遂行すること自体は、

 全体的なプロセスとしてみれば

 多くの自由意志が介在されるように思われます。

 この辺の境界線を見極めるには

 かなりの文献が必要になりそうですので

 深入りしないようにしますが、

 少なくとも、このようなプロセス全体への専念が

 反射的な不自由でないことは明らかでしょう。

 

さて、こうした自由意志の議論については

古くからかなり多くの研究があるようです。

 

ここで上で述べてきたように、

こうした自由意志についての人文科学の議論が、

どうも複雑性といった定量的な議論と

近しい部分を持つように感じられます。

 

これこそかなりの文献や論文に基づき

追求していきたい1つの課題ですが、

今回はいかにも伏線、という雰囲気を残し

このあたりで留めることにします。

 

また、ランダムさの中庸とは無関係ですが、

心理学の議論も抑えたいところです。

 

不安などのネガティブな感情は

判断を冷静にし、分析的にするという

適応上の効果があるようです。

 

が、どの選択をしたから失敗したのか

理由が分からない状態に、

学習性無力感が生じやすいようです。

 

これはやや解釈を一般化すると・・・

適切なフィードバックを得られる選択がなく

学習自体ができなくなってきたときに

生じる、と言えないでしょうか。

 

 

この仮定を受け入れるなら、

精神衛生を健康に保つために、

(ランダムさはともあれ)

次の選択肢が無くなってしまわぬよう

常に手を打っていくのが

良いのかもしれません。

 

これからさあ、どうしよう?

さて、ここ最近はうまく力を出せるよう

所属、自分自身、そして接し方を

工夫してきたと思います。

 

それとの正の相関は明らかではないですが、

少なくとも公私充実しており、

これまでの中で今が一番いい、

という状態が続いてきてはいます。

 

しかし、この荒れ行く時代、

安寧秩序を破るような影は

いつでも忍び寄ってきます。

 

仕事の経験も多少積もる中、

年齢とともに新たな難題も

それなりに群生しだし、

今を脅かし始めています。

 

永遠にお湯というお風呂は無く、

何かを変えなければ

居場所と言うのは沈みゆく、

そういうものなのでしょう。

 

これからいったいどうすれば。

 

見出しで引用している

映画のワンシーンのように、

 

大きな発展を感じるような

前向きな驚きと拡大ならいいのですが、

 

しかし実際急速に拡大するのは

実力に比して求められる量・質や

それについて考えふける自分、

そんなものばかりですね。

 

さてこれを受けて、

打てる手としては。

 

やはり選択を広くとらえ、

さらにこれまでよりはもう少し

広い観点から見てみる。

 

目指すべき(良いと思われる)状態の

再定義。

「得意」「不得意」とラベルしている

カテゴリの仕方の再編。

 

そういったところでしょうか。

 

このように学習の枠組みをより広くすることは、

 元来の強化学習のでは未対応かと思います。

 そういう意味では機械学習を考えるうえでも

 興味深い点になりますね。

 

自分は勿論、環境も、

変え続けることが必要と思われます。

 

環境を移ることも選択肢だし、

移らないなら移らないで、

今の居場所を変化させる。

 

環境を何も変えない、という手は

あまりないでしょう。

 

外部環境から受信するだけでなく、

自分に合うように外部環境を調整する、

それがシステムだ、

といったところでしょうか。

 

しかし一方で、

常に自分や環境を変える努力が必要なことは

嬉しいこととも思います。

 

勉強や自己鍛錬が単なる趣味で終わらず、

それを役立てる機会にあふれており、

言い換えれば勉強もまた

それが故に一層はかどる構造です。

 

そして不安定な環境であるからこそ

創意工夫の意義も高まります。

 

それに、極限状態であるからこそ、

通常では繋がることのなかったような

コミュニティ、

目的、

そして新たな自分の在り方が

生まれる。

というのが、

様々な物語が示唆するところであります。

 

直近では例えば・・・

tojinomiko.jp

yorimoi.com

 

言ってみれば時代そのものが

不安定であることが、

常に成長に意義を与え続けており、

いい機会とも言えそうです。

 

また誤解を恐れずに言えば、

こういう状況こそ、

自分のような・・・定型的でない人間が

より力を発揮しやすいように思います。

 

不得手な題目が突如増えることもあり、

時として自信を失いかけることも

ありますが、

今となってはそれが一過性のものであると

もうわかっているため、

いい機会だと思って受け入れるだけです。

 

このように、

メタな意味での環境を大事にしつつ

やっていこうということで。

 

今回はここまでにしようと思います。

 

こうして自伝的にすること自体に

メタな意義があるという狙いもありますし、

またこのように解釈し直す

「認知的再体制化」の効果も

知られているところではありますが、

これらはまた別の機会に。

 

実用性のあることを考えると

学術からは離れていると思えるし、

バランスが難しい所ですが・・・

少しでも面白い話になっていれば

幸いです。

 

それでは、

ここまでありがとうございました。

 

 

参考文献

 

強化学習

強化学習

  • 作者: Richard S.Sutton,Andrew G.Barto,三上貞芳,皆川雅章
  • 出版社/メーカー: 森北出版
  • 発売日: 2000/12/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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自己組織化-自然界の法則に学ぶ未来のエンジニアリング-

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中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

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しかめっ面にさせるゲームは成功する 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン

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ルーマン 社会システム理論 [「知」の扉をひらく]

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  • 作者: ゲオルククニール,アルミンナセヒ,舘野受男,野崎和義,池田貞夫
  • 出版社/メーカー: 新泉社
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感情心理学・入門 (有斐閣アルマ)

感情心理学・入門 (有斐閣アルマ)

 

 出版社ページ

 

 レーベルページ

 

複素関数の中の小さなゲーム 開発日記

こんにちは。

 

いきなりですがごめんなさい、

SNS 等でもお知らせしましたが

以前の記事に誤りがあったため訂正しました。

 

 達成型(♦)、探索型(♠)、交際型(♥)、殺人型(♣)

について、

誤:サットン=スミスの分類

正:バートルの分類

 

------------------------------------------

 

さて。

冬は手が寒くて PC がはかどりませんね。

 

そうはいっても世の中には興味深いことが

尽きないので、

1つ1つ進めていきましょう。

 

今回は、以前こっそりと公開したゲーム、

"The Defense on Complex" について、

つまり複素関数をギミックにした

ゲームについて、

少しその背景を振り返ろうと思います。

ゲームのリンク(無料ホームページレンタルです):

http://kyotorisuu.toypark.in/contents/game/leaf/

 

数学から感じるミステリアスな魅力

最初に言っておくと、

私はどちらかというと物理の人で、

かつ、その中でも大学院ではそれほど、

地に足着いた知識を固められては

いませんでした。

 

なので数学と言ってもまだまだ

山のふもとの方にいる状態で、

語れることも限られています。

 

ですが、

その入山口から少しばかり進んだ所で、

早くも謎めいた魅力に

エンカウントしました。

 

(といっても高校時代の数学は辛く、

 そこに辿り着くだけでも

 小から数えて10年以上ではありました。)

 

さて、その道の先に何があるのか

まるで予想もつかないが、

しかし大いなる何かを記述できそうという

予感だけははっきりと感じる。

 

その「枠組み」というか、

気付かずにいた空間そのものの歪みを

明かしてしまうかのような所?

(今改めてそのワクワクを言葉にすると

 このような表現になるでしょうか。)

そこに、惹き込まれたのでしょう。

 

大丈夫、おぼえてる。名前は… 二葉のリーマン

 

さて、複素関数については

入門書くらいは分かるようになり、

量子力学のための特殊関数などを

習っていたときのことです。

 

どうも複素関数では、

その平面上を1周回ってきても

同じ場所に戻らない場合

あるんですってね。

 

積分路などの詳しい議論については

ここでは深く立ち入らないことにします。

 

が、ともあれ

原点の周りを一周回って

戻ってきたつもりでも、

裏面に行ってしまうという事態が

あるわけです。

 

とにかくこの複素関数というのが

2次元を2次元へ写像するわ、

直角から直角にすることが

不思議と重要視されるわ、

積分の定性的な意味もいまひとつ

つかみきれないわで・・・、

 

しかし、謎が多いからこそ

魅了される側面もあるでしょう。

 

積分や直角、2次元という、

あるていど既知の道具で

説明されるからこそ、

 

かえってその未知の組み合わせに

幻惑されるのかもしれませんね。

 

しかし!これだけの謎に

満ちているにもかかわらず、

幸い、2次元上に描けるのです。

(少なくとも、基本的な構造が。)

 

絵に出来るというだけで、

分かりやすさは全然違いますよね。

 

であればこの謎めいた性質を

少しでも描いて表現したい。

 

裏面に行ってしまうという事態も

含めて。

というのが初動でありました。

 

遊びの定義における固定と自由

さて今回も例によって

 『ルールズ・オブ・プレイ ㊦』より

引用していくと。

 

遊びとは、

固定した構造の中の自由な動き、

と広く定義されるという形です。

 

このうち、この複素関数には

・固定としての構造の良さ

・自由(抵抗を含む)の魅力

の、双方がありありと感じられます。

 

順を追って書いていきます。

 

前回書きましたように、

数学や数理科学は、

色々な設定値およびその影響が

定量的に設定でき、

ゲームの題材として適切と思われます。

a16777216.hatenablog.com

 

( 一方でデジタルゲームのほうは、

 人の頭の中では覚えきれない、

 あるいは同時に処理しきれない量の

 中間値などを保持できるため、

 数理科学を表現する媒体として

 適切と思われます。

 

固定されたルールを持っている点で、

ゲームの要請を

デフォルトで満たしていますね。

 

今回は、通常の直線だけのグリッドでは

表現しえない、歪んだ2次元を

描けるという点で、

数学によって従来の固定されたルールが

拡張され得ます。

 

 複素解析という数学の一分野が

固定されたルールを生成するのに

有効である、ということを確認しましたが、

一方、面白さへの貢献はどうでしょう。

 

これは例えばカイヨワの4分類では

「イリンクス(めまい)」に近いと

思われますが、

イリンクスの説明としては

身体感覚が主に強調されているため、

ここでは関連性の推測にとどめます。

 

ここで言いたかったのは、

方眼紙のように規則的な

正方格子では表現し得ない、

歪んだ操作感がもたらしうる魅力です。

 

しかし、ここまでの所だけであれば

単に操作が難しいだけのゲームに過ぎず、

「二葉のリーマン」が手続きとして持つ

特殊性も、ほぼ反映されていません。

 

そこで、多少安直ではありますが、

「裏面」に行ってしまった場合には

登場人物の性質が変わるように

してみます。

f:id:a16777216:20180203181003p:plain

パックマンをヒントにし、

条件を満たしたときのみ、

ここでは互いに裏面にいるときのみ、

敵勢力を撃破できる設定にしています。

 

ホントは複素積分の直感的な意味とか、

微分可能の何たるかとか、

やりたかったですが・・・、

今はまだ断念。

 

さて、これでゲームの骨格が整いました。

しかし、これでほんとに面白いでしょうか。

 

これがゲームであるために・・・

単に敵から逃げれば死なないのなら、

上図のように苦労して

敵勢力を撃破する必要があるでしょうか?

 

いつも引用しているイェスパー・ユールの

6分類を用いるまでもなく、

努力が結果にいい影響を及ぼすことで

面白くなるのは当然と言えましょう。

 

ここでどうせなら時流を生かし、

ゾンビ論の議論を反映してみましょう。

 

『メディア・コンテンツ論』の岡本健さんや、

『新世紀ゾンビ論』の藤田直哉さんの

議論を踏まえ、

ゾンビ映画のフォーマットを一般化して、

「攻め込まれている拠点を防衛する」

ととらえれば、

 

映画の他にもマンガ・ゲームに一貫し、

相当数の作品が該当する、

近年の流行りと言えるのでは

ないでしょうか。

 

これも安直な援用にはなりますが、

拠点に攻め入られたらアウト、

というルールを追加します。

 

これで、努力して敵を妥当しに行く

積極的な動機が出来ました。

 

かくして、曲がりなりにも、

数学的背景、文化的背景を参照しつつ、

ゲームとしても動機を持てるものに

なったのではないかと思います。

 

数学へのコミットメントとしても、

・2周しなければ戻ってこれない

・歪んでいても直角が直角のママであれば、

 元の空間に復元できる

という、ほんらい直感から遠い概念を、

体験のレベルにできたのではないかと。

 

2つ目のほうを補足すると、

 このゲームにおけるグリッドが

 ゆがみを持ちながらもそれぞれ

 直角に交わっているところに注目ください。

 ざっくり言えばこの性質のおかげで、

 上下左右キーで異なる場所に移動すれば、

 画面上でも対応するどこか別の場所へ

 移動することができ、かつ、

 画面上の位置に対応して、

 手元の上下左右で操作できる元の位置も1つに定まる。

 ということになっています。)

 

大学生の頃に感じたあの驚きも、

多少なりとも形にできたかなと。

 

今後の課題としては、

自分としても直感的な理解が難しく、

何とか表現したい積分値。

あるいは微分可能性

 

あるいは、集合・位相や体論など、

他の数学の基礎概念の体験化。

 

もちろん自分一人では

すべては着手できないため、僭越ながら

後続のクリエイターのかたが

現れるのに貢献できればと思います。

 

それではここまで、

ありがとうございました。

 

改めて、そのゲームのリンクです。

http://kyotorisuu.toypark.in/contents/game/leaf/

 

作り方は JavaScript と enchant.js ですね。

 

参考文献

物理のための数学入門 複素関数論

物理のための数学入門 複素関数論

 

出版社ページ: 

物理のための数学入門 複素関数論 / 有馬 朗人 神部 勉 著 | 共立出版

 

物理のための応用数学

物理のための応用数学

 

出版社ページ:  

<書籍紹介> 物理のための 応用数学(小野寺嘉孝 著)【物理学】

 

ルールズ・オブ・プレイ(下) ゲームデザインの基礎

ルールズ・オブ・プレイ(下) ゲームデザインの基礎

 

出版社ページ:

SBクリエイティブ:ルールズ・オブ・プレイ(下)

 

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

 

 出版社ページ:

half-real - New Games Order, LLC.

 

メディア・コンテンツ論 (シリーズ メディアの未来)

メディア・コンテンツ論 (シリーズ メディアの未来)

  • 作者: 岡本健,遠藤英樹,柿崎俊道,山田奨治,井手口彰典,岡井崇之,須川亜紀子,レーナ・エーロライネン,前田至剛,平侑子,増本貴士,鎗水孝太,山村高淑
  • 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
  • 発売日: 2016/06/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

 出版社ページ: 

メディア・コンテンツ論 - 株式会社ナカニシヤ出版

 

新世紀ゾンビ論: ゾンビとは、あなたであり、わたしである (単行本)

新世紀ゾンビ論: ゾンビとは、あなたであり、わたしである (単行本)

 

 出版社ページ:

筑摩書房 新世紀ゾンビ論 ─ゾンビとは、あなたであり、わたしである / 藤田 直哉 著

 

 

 

 

ブログのタイトルと、アニメに隠れたメッセージへの敬意

速いもので、

およそ月一でゆるゆるやろうと思って

ブログを始めて以来、

かれこれ1年ちょっとが経ちました。

 

ところでこのタイトルですが、

ブログを始めるまえに

子1カ月ほど迷った甲斐あり、

今でもなかなか気に入ったものに

なっています。

 

それで今回は、

このタイトルについて

振り返ってみたいと思います。

 

アニメ、とりわけ少女にもらったエネルギー

私は実際かなり後発隊なのですが、

 スクフェスを人がやってるのを見たり、

アルバムを借りて聞いたりしているうちに

 ラブライブにハマり

(元祖2期も終わって改めて1期の再放送が

 なされていたころのことです)、

 

以来仕事にせよ趣味の活動にせよ、

「こんな風に自分も頑張らなければ」と

奮起させられてきました。

 

この想いを多少なりとも

形にできないものか。

 

このような経緯より、

ブログのタイトルは上記にちなみつつ、

さらに対立概念同士をうまく並べることで

整合性のとれたものを目指しました。

 

まずは

格言などによく見られるパターンとして、

x のように p し、 y のように q しなさい。

という型で考えることに。

 

まずは対立軸の片方に、

スクールアイドルを髣髴とさせる

「少女」を置きます。

 

そして、対立するものとして

「機械」を。

 

これはもちろん機械学習を示唆しており、

個人的な機械学習への関心を

この場で適宜書いていこうというフラグです。

 

スクールアイドルと学習の射程

 

さて、では、機械学習を通じて我々は

何を理解すべきでしょうか。

 

これを包括的に括ろうとするならば、

「時間」「空間」といった

2軸がまず考えられるでしょう。

 

ちょうどこのころ

ベルクソンの入門書を読んでおり、

その影響も受けてのことです。

 

そしてラブライブを暗に示唆しながら

これを表現するのにうってつけなのが、

「いま」「ここ」

というわけです。

 

togetter.com

 

この momorin さんの感想まとめが好きで

よく拝読しているのですが、

そのまとめによれば

 

「スクール」アイドルであること、

つまり学校に所属している前提であるがゆえに

有限の時間のなかで取り組む必要があり、

かつそれが貴重であることが

読み取られています。

 

togetter.com

 

だからこそ「いま」「この場所」が

繰り返し問われるわけです。

 

そして「いま」「ここ」を起点にする、

つまりそれらを最重要視する事は、

機械学習の一種である

強化学習にも通じるでしょう。

 

であるがゆえに、

このブログのタイトルに含ませたいと

確信してきたわけです。

 

少女と機械とを通じて

我々が再認識するのは、

「いま」と「この場所」の重要性です。

 

類似性の危険と、対比によるアース

しかしながら、

機械と少女の類似性に着目しすぎると、

独自の隘路に入る危険もあります。

 

そこで、

隷属といった負のイメージとは

全く異なる、

別の共通点に焦点を合わせるよう

考えてみます。

 

そして、これはまぐれなのですが・・・

興味のおもむくままに「敢えて、

 一見逆っぽく組み合わせてみよう」

という試みをした結果、

 

ちょうど解消しあう形になりました。

 

つまり、

少女が機械のように隷属されるのではなく

機械が少女のように生き生きと、

そして主体的・創造的に振舞うさまを

表現できたと思うのですね。

 

「機械のように今を輝き、」

つまり機械だって「輝く」すなわち

人々との相互作用を通じる中で、

今を充実させてよいのです。

 

というか、

人間との相互作用を通じて

何かを見出すこと・・・

ありていに言えば「自己実現」を

定義するような機械が、

(1つの方向性として)

求められているのではないでしょうか。

 

そして、

文字通り物理的に発光する物体で

我々が最もよく見ているものは、

まさに機械ではないでしょうか?

 

 

では、

「定義」のほうはどうでしょうか。

 

これこそまさに

機械の得意ワザに見えるし、

機械がモノを理解するのに

必須の概念と言えます。

 

が、実際にモノゴト、

言葉や概念を定義するのは、

これはむしろ少女ではないでしょうか。

 

資料をきちんと当たれていませんが、

女子高校生を中心とする少女によって

日々新しい概念、価値観、括りが

定義されているのは

周知としていいのではないでしょうか。

 

また、少しラブライブに戻りましょう。

 

その前に1つ、

ベルクソン=時間と空間の哲学』に

基づく考え方ですが。

「前よりも果物が甘くなった」とき、

変化したのは果物のほうか、

それとも自分の味覚のほうか。

 

こう考えていくと、

案外モノの定義というのはいい加減で、
(その分柔軟性が高いとも言えます)

その内容がすっかり変わってしまっても

同じ名前で呼ばれ続けるわけですね。

 

三宅陽一郎さんの先日の講演

テセウスの船という話題がありましたが、

修理のたびに船の一部ずつパーツを入れ替え

ついには船の100%が入れ替わったとき、

それでも・・・

その船は同じ名前で呼ばれますよね。

 

ようやくラブライブに戻りますが、

ユリイカのアイドルアニメ特集号にて。

目まぐるしく変わりゆく秋葉原の街を

「この街」と呼ぶ彼女たちが、

ついにはニューヨークのことを

秋葉原と似た)「この街」と

呼び始めるわけです。

 

「いま」「ここ」をこの街として定義し、

その定義は彼女たちが移動することで

越境し拡張されるわけですね。

 

この意味でもまさに「少女」によって

「いま」「ここ」が「定義」されます。

 

長くなりましたが、

このように趣味全開でスタートした

「機械のように今を輝き、

 少女のようにここを定義せよ」、

今後もよろしくお願いします。

 

ここまでありがとうございました。

 

鉄道ゲームの考察も近々したいですが、

そのためには美の起源なども

やはり学んでおきたく・・・

なかなかモノを述べるのには

時間をかけないといけませんね。

 

参考文献

ベルクソン=時間と空間の哲学 (講談社選書メチエ)

ベルクソン=時間と空間の哲学 (講談社選書メチエ)

 

出版社ページ 

 

高瀬司 (2016) 「スクールアイドルの輝きの向こう側へ 『けいおん!』から読む『ラブライブ!』」, 下記 pp. 149 - 167

出版社ページ 

 

@momorin_cloverZ 【ラブライブ!1期】8話感想まとめ。―いまを生きている(Live)ことを全力で愛する(Love)こと 2017/01/22 最終アクセス


@momorin_cloverZ 【ラブライブ!2期】1話感想まとめ。―『奇跡』だって叶えてみせる 2017/01/22 最終アクセス

 

三宅陽一郎 明治大学「ゲーム研究の新時代に向けて」講演資料(上)2017/01/22 最終アクセス

自然科学を堪能できるゲーム

こんにちは。

先日のアドベントカレンダー

数学とゲームの接点について

意外と反応をいただいていたので、

 

 

その延長で、自然科学全般をゲームで体感?

できるかについて考えていきたいと思います。

 

社会科学については

以前のこの記事が近しいかと思うために

一旦見送ります。

 

a16777216.hatenablog.com

 

 

さて、 まずは有名どころから。

直近の典型例と物理シミュレーション

 

どうも自分は流行りをスルーする癖があって

未プレイである点が今悔やまれますが、

これ。 

store.steampowered.com

 

 

宇宙船の物理シミュレーションだけでなく、

試行と失敗を繰り返して

目的へと到達していくらしい

このゲームは、

そのプロセスまでも含めて、

自然科学的と言えるでしょう。

 

下記のような橋の建造ゲームもあるようで、

こちらもよく目にしますね。

store.steampowered.com

 

さて、ようやく1つめの

既プレイゲームです。

store.steampowered.com

 

競って素早く要塞を作り、

兵器をバシバシ打ち合うこのゲームは

まさに「男の子ってこういうのが

好きなんでしょ?」と言わんばかりですが

 

デフォルメされた司令官たちは愛らしいし、

それに↑のようなプロトタイプ論はまあ

言葉遊びにとどめておくとして、

ともあれ性別を問わず

楽しい時間を提供してくれるゲームと言えるでしょう。

 

f:id:a16777216:20171213222814p:plain

 

魔法陣グルグルにおける

 アラハビカ防衛戦なんかでは、

 あっこういうのに混ざりたい・・・と

 思わされたものですが、

 そういうワイワイに混ざれるかはさておき

 防衛設備の建設と砲撃とを合わせ持つ展開には

 (これに物語ができ、介入できるなら尚更)

 心踊らされるものがあります。

 

そしてなんとこれら3ゲームとも

日本語対応!

 

このように言うと

意外に感じられるかもしれませんが、

 

Steam でゲームを探していると、

比較的よく耳にするゲームであっても、

英語版しか手に入らないことのほうが

多いように思います。

 

 

さて、少しマイナーなところまで

掘り下げてきました。

 

物理というのは、その法則が比較的明確なためか、

(単に動きの再現に用いられるだけでなく)

ゲームのルールの中核に来ている場合が

比較的多くありますね。

 

スマホ・無料で比較的手をつけやすいものには

こんなものもありますし。

gigazine.net

従来のテトリスでは基本的には連鎖というものが

ありませんでしたが、

こちらは難しい反面一度連鎖が生じ始めると

それなりに続くことが多く、

なかなか爽快です。

 

宇宙との組合わせではこんなものも。

store.steampowered.com

 

円軌道を描くには地面に対して水平に

速度を持っていなければならない、

なんてことも直感的には忘れてしまっていました。

それを感じさせてくれるのも

宇宙の舞台ならではと言えますね。

 

 

さて一方、サンドボックスがらみにおいては

物理シミュレーションのゲームが

かなりの数あるようで、

まだプレイできているものも少ないですので

物理についてはぼちぼち終わりにしようと思いますが、

 

最後に1つ。

ここまで挙げたのは現実の物理法則

モデルになっているものでした。

 

DiGRA の 2015 年の大会で、

尾田欣也先生という方の講演で

印象に残っている言葉があり、

それは

フィクションにはフィクションの物理法則がある、

という内容のものだったと記憶しています。

digrajapan.org

 

架空の法則であっても、

その法則の中で閉じ、

一貫性と整合性が担保されていれば

(現実とはパラメーターの異なる)

物理法則として意味を持ちうるわけなんですね。

 

そのような法則とともにゲームを考えることには

大変な魅力を感じます。

 

 

ところで思い出してみれば、

特有の物理法則を持っている直近の例も

存在しますね。

www.jp.playstation.com

 

このシリーズでは、

主人公キトゥンとその周辺の重力を、

好きな方向へ変更することができます。

 

1のほうはプレイしましたが、

決して設定の奇抜さにとどまりません。

 

広大で(2ではさらにその2.5倍とも!)、

重力が操れることともマッチするマップ構成や、

アメコミ風のストーリー進行など、

それぞれの要素が調和しており

ゲームとしての完成度も感じました。

 

自然の/とのインタラクション

 

さて、では、

生命や化学、地学などの自然科学を

堪能できるゲームはあるでしょうか。

 

古典的な名作としてシムアースやシムアントは

言わんやですが、

 

閲覧注意(蟻の絵がリアルのため)の

下記のようなゲームが発売されていることが

目に留まります。

Empires of the Undergrowth on Steam

 

あるいは、生態系のコントロールという

意味ではこちら。

 

store.steampowered.com

 

ここでは、「成る」「生じる」「自生する」

という意味での自然に当たるのは、

むしろ人間のほうですが笑。

 

(このような「自然」の定義は、木田元さんの

 反哲学史精神の哲学・肉体の哲学より。)

 

生命、資源、あるいは人間が

ときには自発的に生み出されて相互作用し、

その多寡のバランスが影響し続ける点は、

 

(生態系の本質的な部分が、ゲームを

 面白くするためのルールに組み込まれていると

 言えそうですし、)

 

シムアースの良さを継承したゲームとも

言えるのではないでしょうか。

 

(ところで、

 自然に繁殖するものを管理するという視点でいくと、

 実は鉄道ゲームや街づくりゲーム、会社経営ゲームこそが

 生命シミュレーションに近しいかもしれませんね。)

 

さて、広くライフゲーム的なゲームについても

議論の余地が大いにありますが、

過去にも多少述べましたし、

ここでは深入りしないことにします。

 

 

さて、ゲームからは少し脱線しますが、

生命の定義については下記の1話が

示唆を与えてくれます。

anicobin.ldblog.jp

 

2017年秋放送中のこのアニメ、

どの話数においても内容が示唆的ですが、

 

この9話では特に生命の定義について、

ほとんど誰でも直感的にわかるように

豊かな映像とともに説明してくれます。

 

そして、

「生命とはなにか?」という問いへの

回答を考えるという遊びへと、

初心者から上級者まで誰でも楽しめるように

いざなっています。

 

自身を維持するものを生命とするのであれば

都市もまた生命。

 

ゲームの話題に戻りましょう。

 

上のようなことを考えてみると、

ゲームというのは、人工物の中でも比較的

人工生命の先端にあるように

思えてきます。

 

予想だにしない動きを自発的にすることに、

商売というモチベーションがある。

このため人間はその開発と研究に力を注ぐ。

そしてプレイヤーの行動という教師・情報源が、

サーバーの稼働中に常に与えられます。

 

一方で、人間から学習しないほうが

 強い AI プレイヤーになったという

 悲しい事例も聞きますが・・・

 より情報が抽象的であったり、

 あるいはランダム性を含んでいたり、

 情報の一部が非公開であったりする環境では

 機械のオリジナリティに人間がいい影響を

 与えられるかどうか。

 今後の研究や制作の動向が気になるところです。

 

これを一段階大きく括って、

遊びと知性の関係を考えることもまた

非常に興味深いところですが

ホモ・ルーデンスという言葉もありますし)、

これはまた別の機会に。

 

今後も、自然、あるいは生態系のメカニズムを

取り込んだようなゲームの出現があるか

引き続き着目していきたいと思います。

 

作者やプレイヤーの意図を超えて

結果やバランスが自然に生じるというのは

構造としてきれいだし、

適用・応用への期待がたかまりますね。

 

今や鉄板、情報系とゲーム

ここ最近、

ゲームでプログラミングが学べるという話を

よく聞くようになりました。

 

しかしこうした学習目的だけでなく、

ゲームとしての面白さを重視したであろうもので

プログラミングに近しいものが

多いこと、多いこと。

 

Steamではド直球で、

「プログラミング」というタグがあるほどです。

 

これを書いている今、タグのリンクが

なぜかうまく機能していないので、

代わりに検索結果のリンクを張ります。

http://store.steampowered.com/search/?term=%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0

 

プログラミングの面白さ自体が、

ゲームに近しいところがあるのでしょうか。

 

これは以前、『ハーフリアル』における

ゲームの定義を、

私が分かりやすく感じる言葉で書いたものですが、

 

1. ルールを持つ。

2. 結果が明確で、かつ結果を変えられる。

3. それぞれの結果に、良い・悪いなどの意味が与えられている。

4. 努力が影響を及ぼす。

5. 人が結果をまじめに受け止める。

6. 現実に与える影響を、自由に着け外しできる。

 

この6つのうち、6.以外の5つが

プログラミングにも共通していそうですね。

 

ゲームというのはそもそもプログラムなので

構造上近いのはある意味当然かもしれませんが。

 

その改題解決のプロセス自体にも

共通の面白さがあるかどうかは非自明ですし

発見があります。

 

パズルに特化した面白さの考察については

 『パズル本能』という本がありますが、

まだ読めていないので、

ともあれそうした関連性の指摘がある点だけ

挙げておきます。

 

まとめ

ゲームによって自然科学が学べるような

ものだけでなく(もちろんそれも重要ですが)、

 

ゲームとしての面白さを追求するために、

自然科学の特長がうまく活用されているものが、

多数あるのを見てきました。

 

典型的には物理や情報、

そしてときには生物(学)の知見・性質が

面白い・好ましいルールの実現に役立つのは

嬉しいとともに興味深いことです。

 

しかし必然のようなところもあります。

 生態系等の場合、

 現に持続可能性を実現しているモノゴトに

 横たわる法則であるからこそ、

 それをゲームに適用したとき、

 あっさり決着がつくようなアレなゲームでなく、

 最後まで誰が勝つか分からないような

 白熱したゲームにできるポテンシャルがあると、

 そう言えるわけなんですね。

 いい法則というのは自然界にたくさん落ちているので、

 使える材用としては申し分ないのかな、

 という側面がありそうです。

 

これにはいろいろな有意義さがあって、

第一に、

長い歴史の中で人間が見出してきた知見が

科学や、実用性(つまり技術?)だけでなく

遊び(つまり文化?)に用いれるのは、

一度で二度おいしいことだし、

創作の地平線と多様性を推し進めるうえでも

十分なリターンがあります。

 

第二に、

学習目的というよりは

純粋に楽しむために手を付けたゲームから、

自然科学を直感できるチャンスがある、

ということです。

 

さらに考えうる良さとしては、

「ゲームの空間内の自然科学」というのが

研究になる余地が垣間見える点ですね。

 

ゲームにおいて(ゲームを楽しくするために)

独自に定義される、

現実と異なる自然法則が、

もし非自明な現象を生み起こしたら

どうなるか。

 

研究に役立つとしら勿論嬉しいし、

個人的には、

そうしたことの生じる可能性自体に

大きなワクワクを感じてしまします。

 

ゲームの中でやはり(楽しさという)必要に

かられて AI 研究も進んでいると

見受けられますから、

こちらについても期待が膨らむところです。

 

長くなりましたが、

そのような期待と伏線を残しつつ、

今回はここまで。

ありがとうございました。

 

参考文献

※労力対効果を鑑みて、この埋め込み形式を試してみます。

反哲学史 (講談社学術文庫)

反哲学史 (講談社学術文庫)

 

 出版社ページ:『反哲学史』(木田 元):講談社学術文庫|講談社BOOK倶楽部

 

精神の哲学・肉体の哲学  形而上学的思考から自然的思考へ

精神の哲学・肉体の哲学 形而上学的思考から自然的思考へ

 

 出版社ページ:『精神の哲学・肉体の哲学 形而上学的思考から自然的思考へ』(木田 元,計見 一雄)|講談社BOOK倶楽部

 

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

 

 出版社ページ:half-real - New Games Order, LLC.