ゲームによって変わる生活 大図書館と、済んだ物語

こんばんは。

前回の宣言に従い、

こういう制約って、あるほうが物事が進みやすくなるタイプの

 制約ですねw

・ゲームと生活

・現実のどのよう題材なら、シミュレーションに出来るのか?を

 一般化してみる

 

という流れで進めていきます。

2つ目のものは、さらに次回になりそうな気がします・・・。

 

ゲームが自分の生活にもたらしたもの

 

さて・・・「ゲームと生活」とは言ったものの、

これを一般的に取り扱おうとすると、

ちょっと広すぎます。

 

そもそも生活とは何でしょうか?

 

芸術とは何か?とか、社会とは何か?に匹敵するような、

境界線の定義の難しさがあります。

 

そこで、いったんゲームと生活全般について考えるのはやめ、

 

私の生活がゲームによってどう変わったか?

 

に特化して考えたいと思います。

 

大きく分けると、

・中間目標をあきらめる良さが、実感できるようになった

・時間の費用対効果を、いつも考えるようになった

・生活をなるべくゲームに例えて、退屈が少し和らいだ

・時間に対する感覚が変わった

 

こういった変化がありました。

(今回も長くなったため、

 また過去分とも重複するため、一部を割愛します。)

 

中間目標の良さとは? アレクサンドリア図書館の陰と陽

初出の言葉があるので、1つ1つ説明していきます。

 

自分にとって、

Civilization 5 というゲームのこの図書館は、

中間目標の良さと欠点をありあり教えてくれた

大事な存在です・・・。

 

世界遺産としてアレクサンドリア図書館も建てることができる

Civilization というシリーズは、

 

平たく言えば・・・

都市と科学を発展させて文明を強くし、

一番すごい文明が優勝、なゲームです。

 

store.steampowered.com

 

つまり科学が超大事です。

 

科学で劣っていると致命的です。

科学が劣っているということは極端な話、

馬車や弓矢しかない状態で、

戦車やバズーカと闘わなくてはいけなくなりますから・・・。

 

そんな中、アレクサンドリア図書館は、

世界中の科学を吸収してしまうチート設定こそ見られなくなりましたが、

建設した瞬間に、一瞬で科学が1つ前進してしまうという、

強力無比な施設です。

 

これを建てるだけで、

優勝に向けてかなり有利になると言えるでしょう。

 

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しかし世界遺産ですから、

世界に1つしか建てることができません。

このゲームでは、実は複数個存在できる遺産もありますが、

 これはいったんおいておきますw

 エルミタージュが世界に8つ建ったりするw

 

デフォルトでは、

自分たちのほかに7文明が群雄割拠しており、

それらのなかの誰かが先に建ててしまうと・・・

 

「ドゥーーン!!」 という痛々しい効果音とともに

今までの建設計画が水の泡になります。

 

「途中まで建てていた」という事実は、

申し訳程度のお金以外の、何の役にも立ちません。

 

しかもこれの建設のために、

ほかのそこそこ重要な施設の3~4倍という

莫大なコスト(ターン数)がかかります。

 

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これを建てようとしている瞬間にも、

ほかの(アレクサンドリア図書館を建てようとしない)文明たちは

地道にいろいろな施設を作り、

爪を研ぎ澄ましているわけです。

 

なので、完成間際で先を越されて

進捗がパーになってしまうと、

ほとんど敗退といっていい状況にまで

追い詰められます。

 

さて、これを踏まえたうえで、

アレクサンドリア図書館を建てようとするのが正解でしょうか?

諦めるのが正解でしょうか?

 

・・・状況次第、

と言ってしまえば、何も言ってないも同然なのですが、

 

ライバルより先に建て終える確信があるならば建てる!
そうでないならば諦める!

というのが、妥当な判断と言えるでしょう。

 

この、アレクサンドリア図書館に関する

一連の出来事を通して、

私は中間目標の意味を

改めて考えるようになりました。

 

中間目標は、AI 研究においても

 重要な意味を持ちそうだと考えているのですが、

 長くなりそうなので別のときに。

 

人生における中間目標は、

人生のゴールそのものではないよなあ、と。

 

なので、いかに人生を有利にしそうな中間目標であっても、

手に入るのが難しすぎるのなら

(あまりに無駄にコストを割きすぎるよりは)

諦めるのが良いよなあ、と。

 

 

・・・と、ここまで、

中間目標をあきらめる良さを見てきました。

 

しかしもちろん、これだけでは片手落ちです。

 

 

中間目標を目指す良さとは何でしょうか?

プロを目指すわけでもないが特定の何かに打ち込む青春は、

あのとき流してきた汗は、

どのような意味があるでしょうか?

 

これは私は特に下記の二つだと考えています:

1.目標の情報が圧縮されていて、分かりやすい

2.モチベーションがあがり、かつ、

 それを目指す途中で得て来たものは、他でも使える

 

まず1.ですが、

 

自分(あるいは他者)の人生を良いものにしていくために、

小さい目標を何百、何千個も列挙していくよりは、

そこそこ大きい目標を1つ持つほうが

恐らくずっと分かりやすいと思います。

 

ある県の全ての市町村を列挙するかわりに、

その県名を言うようなものでしょうか。

 

(階層的な感じを言いたいのですが、

 我ながらあんまりいい例じゃないですね・・・)

 

具体的には、

単に「いろいろなところに行く!」というのでなく

「〇〇の舞台になったところを全部回る!」とすれば

より分かりやすく明確になる、という感じでしょうか。

 

続いて2.ですが、

例えばスポーツであれば、

特にプロにならなかったとしても、

鍛えた身体や、身に付けた集団の中での振る舞い方などは、

汎用的なものとして残ります。

 

もちろんスポーツに限らず

似たことが成り立つはずです。

 

Civilization 5 で言えば、

例え チチェン・イツァというこれまた非常に強力な建造物を

最終的にあきらめたとしても、

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これを建てる前提である「官吏」の発見を目指すことは

他のことにも非常に役立ちます。

(川沿いで収穫できる食料が急増するなど)

 

これらを総合して考えた結果、

(あくまで自分の中の)中間目標のありかたとして、

 

・自分の中の沢山の小課題を整理するために作ってみる

・そのプロセスをなるべく他にも生かすように作ってみる

 (一石 N 鳥を狙っていく!)

 

というがよさそうだと考え至りました。

 

このように、ゲームは自分の生活の中にも

それなりに(いや、かなり)入り込んできていると、

改めて感じます。

 

・・・ちょっとこれだけでお腹一杯になりそうなので、

ゲーム⇔生活のいくつかは割愛し、最後の1つに行きましょう。

 

最後から二番目(生活をなるべくゲームに例えて、退屈が少し和らいだ)は、

前にもちょっと書きましたし。

 

a16777216.hatenablog.com

 

ゲームと時間感覚

ゲームをするようになって、

やっぱり時間の感覚は変わったと思います。

 

時間の流れは単一でも連続でも等間隔でもなく、

複数同時にあり、刻み幅も変わり続けているように感じ始めました。

 

ゲームにおいてはこれは大前提と言えるでしょう。

現実の時間とゲームの時間とが同時に存在しており、

 

また、場合によっては、

ゲーム内の時間の早送りなども

容易にできるわけですから。

 

しかし、

ゲームがもたらしてくれる新鮮な時間間隔は、

それだけにとどまりません。

 

ある編著に掲載の「物語としてのゲーム/テレプレゼンスとしてのゲーム」では、

興味深い示唆が述べられています。

 

オープニングムービーにおいて、

今からプレイする物語が

実はすでに終わった出来事として語られるとき、

プレイヤーの経験に何が起こるのか。

 

すでに終わったことを経験すると同時に、

この先の未来を目標にするという、

より複雑な経験が現れ得ることが分かります。

 

さて、このように(すでに終わった)未来に向かうというのは、

(他のメディアと比べても)

ゲーム特有の性質に感じられます。

 

となると、

はたして現実には

これに近い経験はありうるでしょうか。

 

私たちは、映画やアニメ、小説といた作品を、

必ずしも同時にではなく、

様々なタイミングで視聴します。

 

昔、地元の友人と一緒に見た映画を、

最近になって別の友人と見たりするとき、

どのような時間感覚になるか。

(あるいは、そのことを思い出して人に話すとき。)

 

ネット上でみんなが口々に「泣いた」と叫ぶ作品を、

後から遅れて見ていくとき、

そこにある時間感覚とは。

 

あるいは、途中まで視かけていたもの、

途中までやりかけていた作業の場合は

どうでしょうか。

 

このように考えていくと、

間接的とはいえ、

ゲームと似たような時間感覚(複数、不連続、さまざまな刻み幅)が

現実に入り込んでくるのを、

それなりの強度で感じます。

 

あるいは単位時間あたりの生産性。

 

上記の Civilization のような、

時間あたりの生産性が勝敗を分けるゲームをやっていると、

このゲームはリアルタイムではありませんが

 リアルタイムにそれが求められるゲームも存在します)、

現実においても、

単位時間あたりの有効性に意識が向いてきます。

 

とはいえ現実は、

そもそもゲームと比べると「良い」とは何か?が

明確にしにくいため、

「有効性」を高めるのが難しように思いますが。

 

他にも、

未来のある予定の意味が、近づくにつれて変化したり、

過去のある出来事が、別の出来事をきっかけにその意味を変えたり。

 

これらもまた、

ゲームプレイによって所与のイベントの意味付けが変化するのと

共通する部分があります。

 

このように、ゲームを通じて、

誰と同じスペースにいる時間か、

何(の続き)を見たり作ったりしている時間か、

生きている時間のうちのどこに位置するのか、

 

と、複数の時間感覚が並行して走っているのを、

よりリアルに感じるようになりました。

 

また、ゲームが1つの完結する物語であるために、

現実という1つの完結する物語が長いのか?短いのか?

ということを意識して考えるようにもなりました。

 

 

ところで、ゲーム⇔生活、ゲーム⇔仕事などを考えてきたので、

他に「ゲーム⇔研究」という軸もあるなあと

思い至ったのですが、

これもまた回をあらためて考えたいと思います。

 

例えば、

 ゲームの空間そのものが興味深い事象を生むという意味では、

 ゲームは研究対象をもたらしうるし、

 

 一方もし、現実の特定の性質を再現していくなかで理解しようとする

 構成論的なアプローチを研究に含んで良いとするなら、

 現実の特定の性質を高精度で再現するゲームは、

 研究手法をももたらしうる、

 ・・・このように思えてきます。

 

 

まとめ

長くなってしまったため、

シミュレーションの一般化については

また次回にしたいと思います。

 

こうしてだんだん

書くハードルが上がっていく。

 

今回、ゲームが生活に与えた影響について、

あくまで自分の例を通じて見てきました。

 

中間目標はどうやら、

目標を分かりやすくパッケージしたり、

短期・長期のと一石二鳥を目指したりするのがよさそうだなあ、

とか、

 

時間感覚が、

複数同時に、とぎれとぎれで、さまざまな刻み幅で

流れているよう感じ始めたなあ、とか、

 

そういったことを述べてきました。

 

ゲームによって、

現実の生活の生産性が高まったり、

現実の感覚がより豊かになったりすることの

一例が示せたように思います。

 

今回はここまでにします。

 

そんなわけで次回、

現実のどのよう題材なら、シミュレーションに出来るのか?を

一般化してみる

 

お楽しみに!

ここまで、ありがとうございました。

 

参考文献

榊祐一  (2015)「物語としてのゲーム/テレプレゼンスとしてのゲーム——『バイオハザード』を例として」押野 武志 編著『日本サブカルチャーを読む 銀河鉄道の夜からAKB48まで』 pp. 253-286, 北海道大学出版会