映像研がメディアを通じて作りあげる共生

こんにちは。センケイです。

芝浜をめぐる映像研の作品について、

これはやはりどうしても読み解きたく、

記事をアップします。

 

残念ながら、その戦いの帰結については

答えに到達できていません・・・。が、

その二人の捕虜の行動の意味を示し、そして、

映像研が示したかったものは何だったのか

これに迫る仮説を1つ書きたいと思います。

 

このために今回着目したいのは

「メディア」です。

 

メディアを通じて映像研を見るとき、

実は上に挙げたことだけではなく、

作品全体の深い理解にも繋がるのではないか。

このように思った次第です。

 

そのため、やや遠回りではありますが、

先に、メディアというものの性質を

いくつかの視点から確認します。

 

そのうえで、芝浜 UFO大戦、および

作品全体の考察を行います。

 

 

 

そもそもメディアとは何か?

 

アニメ作品

『映像研には手を出すな!』では、

(以下、作品名は『映像研』と表記。

作中のサークル名を、括弧なしで映像研と表記。)

直感的にも明らかに、

メディアが重要な位置を占めています。

 

映像研は映像を製作する活動を行うため、

何よりもまず、「映像メディア」が

作品全体の中で重要なアクターとなります。

 

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出典:映像研には手を出すな!1話/
© 2020 大童澄瞳・小学館/「映像研」製作委員会

 

少し先取りになりますが、

浅草みどりも水崎ツバメもともに

アニメ映像という共通のメディアに

関心があることを受けて、

森さやかが2人を接近させようとします。

 

このように『映像研』においては、

典型的にはアニメという映像メディアが

(ここではその特殊なケースである、

 共同製作/制作*1という形で)

人と人とを結びつける働きをします。

 

しかし、「メディア」という言葉は

ご存じのようにかなり多義的な言葉です。

 

『映像研』および芝浜UFO大戦における

人と人との媒介を考える上で、

メディアの定義を確認しつつ、

活躍する様々なメディアを

拾い上げていきましょう。

 

 松本健太郎さんは『デジタル記号論』で、

多義的であることも考慮に入れつつ、

メディアがどう定義されてきたかを

簡潔にまとめています。

 

メディアとはまず、

一般的には新聞、ラジオ、テレビなど「マスコミュニケーションの乗り物=伝達手段」

であるとしています(同書:16)。

 

他方で、水野博介さんを引きつつ、

メディアは〝記号・メッセージの乗り物〟

と規定されているとします(同書:16)。

 

同書はさらに水野さんの議論から、

メディアの一般的な用法を4つ挙げます。

 

かいつまんで書けば、

①「発信者」

②「(情報)装置」

③「ソフト」

④「インフラストラクチャー(社会基盤)」

の4点です。

 

映像研に即して言えば、

彼女たちが制作/製作する作品は

(コンテンツという意味で)ソフトに

該当するでしょうし、

その上映装置は文字通り「装置」に

該当するでしょう。

 

学校の設備を利用する場合には一部、

インフラストラクチャー」を用いていると

いうこともできそうです。

 

もう1つ、ある意味インフラストラクチャー

前提としたメディアとして、

ソーシャルメディアも見逃せません。

 

面白いのは、彼女たちは情報の受信、

あるいは個人間でのやりとりではなく、

むしろ広告の発信者側に回っています。

 

今や言い尽くされた議論とは思いますが、

広告の主体がマスメディアとは限らない点に

当作品の現代性が垣間見えますね。 

 

 

さて、ここからが重要です。

 

映像研で役割を果たすメディアの

具体例を挙げていく際、

以上のような典型的なメディアだけではなく、

さらに多く例、あるいは定義を考慮するほうが、

より豊かな理解が得られると考えています。

 

 

まず、

メイロウィッツがイニスやマクルーハン

読解して言うには、

メディアが「複数環境間の情報伝達のチャネル」であるだけはでなく、「もともとそれ自体が環境であった」

 と示唆されるとのことです(同書:18)。

 

これを元に、さらなる具体例が

構築できそうです。

 

複数環境というと思い浮かぶのは、

芝浜UFO大戦に登場する、人間と河童。

 

地上と水中という、

異なる環境での生存がなされます。

 

情報伝達のチャネルにはまさしく、

この間を取り持つ摩尼車が相当するでしょう。

 

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出典:映像研には手を出すな!11話/
© 2020 大童澄瞳・小学館/「映像研」製作委員会

これもまた映像研において非常に重要な

「メディア」の1つではないでしょうか。

 

さて、

もう1つ具体例として挙げたいのは、

「貨幣」です。

 

菅野仁さんは『ジンメル・つながりの哲学』で、

「コミュニケーション・メディア」としての貨幣の意味の重要性は、[…] 依存関係を顔が見える「人格的な」つながりから、「事実的ー物象的」つながりへと転移させていく。

としています(同書:197)。

 

同書は、人間関係の距離が近すぎることに

警鐘をならしており、

貨幣は(いくつかの弊害もあると断りつつも)、

その距離をあけ、適切に保つとしているのです。

 

浅草と金森の間柄は、これによって

結び付けられていると言えるでしょう。

 

 

上で述べたような水崎との関係と合わせると、

映像研の3人の「仲間」という関係は

まさに「メディア」によって作りあげられた、と

理解することができるでしょう。

 

私が最初にメディアを重要とした理由の1つは、

これだったのです。

 

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出典:映像研には手を出すな!8話/
© 2020 大童澄瞳・小学館/「映像研」製作委員会

 

 さて、最終話の理解にまでたどり着くには、

さらにもう幾らか導入したい観点があります。

 

最後のシーンの果てのない努力、

そして現実と虚構の攪乱。

 

これをさらに考えるには、

メディアが物のありさまを

間接的に与えるものであることを考慮して、

なまの「物自体」と同時に

物の見方や与えられ方について、

考えるほうが望ましいでしょう。

 

そこで、

メディア論の議論からは少し離れて、

哲学の存在論から考え方を借りましょう。

 

大事なのは物自体だけじゃない!新しい実在論の考え

 

近年テレビでも話題のマルクス・ガブリエルが

著書『なぜ世界は存在しないのか』に記す

「新しい実在論」の考え方です。

 

著書名はちょっと大仰ですが、

中身はしっかりと詰まった本です。

また、学術的な本の中でもかなり

読者の多い本でもあるようです。

 

この本の内容に迫る前に、

まずは問いを立てましょう。

 

リンゴが1つあったとき、

そのリンゴの見え方や印象というのは、

誰が見るのか、

どのくらい空腹な時に見るのか、

どんな時間にどんな照明のもとで見るのかで

異なってくるでしょう。

 

ではこのとき、ホンモノと言えるのは、

リンゴそれ自体なのか、

それとも様々に異なってくる見え方のほうか。

 

哲学者を悩ませてきたこの問いに対し、

「新しい実在論」は、端的に、

どちらもホンモノだというのです。

 

なおここでは、私の言葉で、ホンモノだ、と

表現しましたが、正確に同書に沿うなら、

どちらも「存在」する、という

言い方になります。

 

物だけでなく、見方の存在も認めるわけですね*2

 

私自身は理数系の人間ですから、

数学の比喩を用いて形式的に書いてみたいです。

すると、モノ A に関して存在するものは、

A についての複数の見方を f1, f2, … とおくと

  • A,
  • (A, f1),
  • (A, f2),

上記これらがすべて存在する、というわけです。

 

さて、

ガブリエルは、このように、

かなり多くのものの存在を許しましたが、

さらにこれを踏まえ、

現実と虚構の区別について、こう述べます。

映画は、[…]「[…] 何が実在で何が虚構かを決めている唯一の世界が存在する」という固定観念を超える数多くの解釈可能性に取り組む

と、映像の可能性を語ります(同書:291)。

 

ワンセンテンスが長いですが、つまり、

映像には、

実在と虚構の天下り的な区別を解体する

効果がある。ということでしょう。

 

同書のこの章は他にも、

テレビや映画について、

ひとつの状況にたいして、さまざまに異なる複数の見方を展開することができる

とも述べています(同書:291)。

 

目の前の物自体を映すわけではない

映像メディアは、様々な見方を示すことで、

唯一の事実のみがあるわけでもなければ、

1つの受け取り方のみがあるわけでもない、と

いうことを示してくれます*3

 

解釈の余地はまだまだ多く残されている、

というわけです。

 

さらに同書は、

人生の意味のために人が取るべき手を、

すべてを包摂する基本構造なるものを断念すること、その代わりに、現に見られる数多くの構造をもっとよく、もっと先入観なく、もっと創造的に理解するべく共同で取り組むことです。

としています(同書:293-294)。

さて、「俺たちの戦いはこれからだ」

的にも見えるオチではあります。

 

が、納得できるものでもあります。

 

確かに唯一絶対の答えなどなさそうに見える

この世の中でうまくやるには、

こうして絶え間ない探索を続けることこそ

まだしもあり得る道でしょう。

 

さらに続けて、

わたしたちは、皆でともに途方もない探検のさなかにいるーーどこでもない場所からここに到達し、ともに無限なものへとさらに歩みを進めているさなかにいるのです。

としています(同書:294)。

 

反省と改良を重んじる主張です。

 

様々な解釈に応じて沢山の真実が

産まれて来うるこの世、

さらに時間とともに移ろいゆくこの世。

 

このような世の中において、

絶え間ない改良と改善、および

それにより新しい見方を獲得し続けることこそ、

求められている振る舞いだと言えるでしょう。

 

 

さて、いよいよ『映像研』、

特に12話を理解するための

準備が整いました。

 

『映像研』がメディアを通じて描くもの

 

 まず、上でも少し触れましたが、

『映像研』作品全体を通じて、

メディアを通じて人間関係を作ることを

さらにもう少し確認しましょう。

 

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出典:映像研には手を出すな!5話/
© 2020 大童澄瞳・小学館/「映像研」製作委員会

 

ロボット研究部との折衝では、

金銭の授受にてコミュニケーションを

進める予定となっていました。

 

しかしその関係を推し進めたのは、

上で挙げたメディアの一種「ソフト」、

およびその与えられ方でした。

 

宇宙の果て、波動拳コクピット

 

作品世界で典型的に描かれる

虚・実のアイテムへのあこがれ。

 

そしてそれを日常的に空想するという

作品の受容の仕方。

 

このような「ソフト」との関わり方が、

浅草、水崎、小野の間で共通して見られ、

そのことが人間関係を結びつけました。

 

映像研の外との関係もまた、

貨幣、ソフトという複数のメディアを通じて

構築されて行っているのです。

 

なお、映像研の作品の購入をする層も、

映像研に対して複数のメディア

接触する点が興味深いです。

 

彼らのうち多くは、貨幣の授受の前に、

マスに近いメディアを通じて

水崎と既に接触しているわけです。

 

 

さて、続いていよいよ、

劇中作品の考察に入っていきましょう。

 

映像研がメディアを通じて描くもの

 

「ネタの宝庫」とされる芝浜の街を、

浅草が受容し、解釈し、

「存在」へと昇華させたのは、

武装されていた」芝浜の街の姿でした。

 

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出典:映像研には手を出すな!9話/
© 2020 大童澄瞳・小学館/「映像研」製作委員会

 

想像力を掻き立てる街だからこそか、

浅草氏の才能ゆえなのか、

ともあれ現実を読み取る著しい「意味」が

ここに爆誕します。

 

複雑怪奇な街のポテンシャルが手伝って

生まれてきたこの意味を、

妄想や虚言と一蹴するのは惜しい。

そこで、先ほど見てきた考え方、

現実に対する解釈や「意味」も存在する、

という考え方が活躍します。

 

この芝浜をしてこの新たなる意味が

ここに屹立したというわけです。

 

このように街がメディア化される効果は、

のちにもう一度確認します。

 

さて、この武装された芝浜という環境を

つかさどる人間という種族。

 

対するは、(恐らく)河童つかさどる、

アトランティス連合。

 

浅草が「環境によって価値観は変化する」

と語る、複数環境の混在です。

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出典:映像研には手を出すな!11話/
© 2020 大童澄瞳・小学館/「映像研」製作委員会

 

両文明は、

「複数環境間の情報伝達のチャネル」

摩尼車というメディアによって

信頼関係が構築されます。

 

ここで当初、捕虜となったそれぞれ1人の

人間と河童が、摩尼車の起動を模索し、

摩尼車をそれ自体1つの「環境」としながら

共生関係を復活させる。

このようなシナリオが用意されていました。

 

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出典:映像研には手を出すな!12話/
© 2020 大童澄瞳・小学館/「映像研」製作委員会



 

しかし最終的に浅草らが出した結末は、

単独のメディアのみでは

戦いが集結しないという筋書きでした。

 

ここではいくつかの解釈の余地があります。

 

まず、現代において、マスメディア的な受容が

徐々に解体しつつある構図。

もしくは、グローバル社会が複雑化したという

構図にも受け取れます。

 

ともあれ人間も河童も一枚岩ではなく、

単独メディアに対して皆が一様に反応するとは

問屋が卸さないわけです。

 

しかしここで元捕虜の人間と河童は

さらに行動を模索します。

 

人間は河童を守る盾となり、

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出典:映像研には手を出すな!12話/
© 2020 大童澄瞳・小学館/「映像研」製作委員会

河童もまた人間を守る盾となり、

敵、味方という関係を攪乱します。

 

少し飛躍してみると、これは文字通り、

〝記号・メッセージの乗り物〟として

自らメディア化していると解釈しても

面白いかもしれません。

 

ともあえ、彼らは自らを伝達手段として、

現在構築されている意味に抵抗し

新しい見方の構築を模索します。

 

絶え間なく意味の相対化をし、

「もっと先入観なく、もっと創造的に理解する」

「途方もない探検」を行ったのだ。

このように理解できそうです。

 

唯一の真理にも、

唯一の与えられた意味にも固着せず、

意味の空間を探し続けたのです。

 

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出典:映像研には手を出すな!12話/
© 2020 大童澄瞳・小学館/「映像研」製作委員会

最後まで粘った末に行うこの降伏の果てに、

戦争が終結したかどうかを読み取ることは

私にはできませんでした。

 

しかし、前述してきたことを足がかりに、

その意味を読み解くことは可能です。

 

燃料が尽きるまで、あるいは尽きてもなお、

〝メッセージ〟を示し続けた彼らの行為は、

絶え間なく新しい見方を獲得し続ける

行為であった、と。

 

一般に、戦争を終結させる無二の方法が

存在しない世界において、

絶え間なく意味の相対化をし続けることが、

可能な限り最良の、戦争への抵抗だった。

元捕虜の人間と河童は、

まさにこれをやったのだと考えられます。

 

映像研の彼女たちのメッセージも、

ここから読み解けるように思います。

 

ガブリエルに従えば、

テレビや映画は、現実の相対化を通じて、

現実と虚構の区別を解体し、同時に、

複数の見方が「存在」しうる事

人に気づかせるメディアなのでした。

 

現実の街をメディア上に描きなすという

テレビ/映画的な相対化に加えて、

元捕虜の2人が行ったような

絶え間ない見方の更新をさらに加える。

 

この方法を用いて彼女たちは、

現実/虚構の二項対立に留まらない

多様な見方の場が存在していることを、

描きたかったのではないでしょうか。

 

このように、ガブリエルがいうような

映像メディアとしての特質を極めたことで、

彼女たちの作品の視聴者をして

現実と虚構の境界から解放せしめ

武装された芝浜の「存在」を

目の当たりにさせるに至ったのでしょう。

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出典:映像研には手を出すな!12話/
© 2020 大童澄瞳・小学館/「映像研」製作委員会

そして、

現実と作品世界の境界を曖昧にした浅草は、

これと呼応するように現実世界上での

絶え間ない改良と改善を訴えます。

 

「まだまだ改善の余地ばかりだ。」と。

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出典:映像研には手を出すな!12話/
© 2020 大童澄瞳・小学館/「映像研」製作委員会

 

かくして『映像研』=映像研は、

 絶え間ない見方(パースペクティヴ)を

獲得し続ける重要さを、

 メッセージとして残すのです。

 

 

まとめと残された課題

 

この記事はまず、

メディアの様々な意味を確認することで、

映像研内外での人間関係の結びつきが

メディアで構築されていることを

明らかにしました。

 

具体的には、

  • 共通の「ソフト」への関心、
  • 貨幣、
  • マスメディア的なもの、

こうしたメディアたちが人間関係の

媒介として働いていました。

 

さらに、映像研の作品を読み解くために、

哲学の「新しい実在論」を参照しました。

 

「新しい実在論」の推進者の一人

マルクス・ガブリエルによれば、

物自体だけではなく、

物の見方や与えられ方もまた、

「存在」しているのだそうです。

 

さらに彼は、人生の意味において、

見方や与えられ方の絶え間ない獲得が

重要であるとしています。

 

ガブリエルは、特に映像メディアに

その機能があることも述べています。

また、

虚実の境界が解体される効果もある、とも。

 

 『映像研』=映像研はその映像を通じ、

とりわけ2人の捕虜の行動を通じ、

新しい見方や与えられ方が

絶えることなく獲得されるさまを、

何重にも重ねて示していました。

 

第一に、それは人間と河童の人生、

ひいては戦争の抑制のために

必要な営みだった。

第二に、それは虚実の境界を

解体する試みだった。

 

 『映像研』=映像研はこれにより、

戦争に対する最大限の努力を

描き切るとともに、

見事に現実と虚構の境界を

融解させてみせたのです。

 

そのリアリティが視聴者の私たちに届くとき、

彼女たちは多層的に、

絶え間ない見方と与えられ方の獲得の重要さを

私たちに投げかけるのでしょう。 

 

以上が、

この記事で読み解いてきたことでした。

 

さて、

ここまでで描き切れなかったことも

いくつも残されています。

 

まず、芝浜という都市や環境自体が

それ自体メディアとして機能するかどうか。

 

イデアの宝庫であったその複雑な

学校および街の構造は、

それ自体が彼女たちの関係を密にする

媒介物として働いて見えます。

 

これを理解するには、

都市自体がメディアの機能を持つかについて

さらなる引用が必要となるでしょう。

 

さらに、自然、環境、そして共生を

めぐる議論についても、

まだまだ錬成させる意義があるでしょう。

 

奇しくも『映像研』と重なる時期に

NHK から放送された、ガブリエル語る

『欲望の時代の哲学2020 マルクス・ガブリエル NY思索ドキュメント』

というシリーズがありました。

 

その最終話である

「欲望の時代の哲学 最終夜 哲学が国境を越えるとき」

の中で、斎藤幸平さんがガブリエルを

代弁して話したのが、以下です。

精神が異なる民族からなる複数の国である場合 もはや共通の基盤を見つけることができません その時自然が再び動きだし ある種の普遍性を獲得する基礎となるのですね

 

複数の民族が自然を共通基盤とする。

意図してかそうでないのか、

芝浜UFO大戦と大いにシンクロします。

 

共生における自然の役目とは、

一体何なのでしょうか。

 

この議論を進めるには、見たところ、

例えば『複数性のエコロジー』は、

自然、人工物、荒廃の議論を持っており、

貢献しそうに見えます。

『映像研』の中のモチーフとも

相性の良さが感じられます。

 

しかし現時点では、私自身、

ガブリエルと同書のテキストは

それぞれ独立に読んでいるため、

考え方の共通点や違いが

今のところ整理できていません。

 

関連する書籍も当たりつつ、

この議論を続けていくことを、

今後の課題としたいと思います。

 

映像研と複数環境とエコロジー

ぜひとも探求したいテーマです。

 

かなりの下準備を要しますので、

他の「メディア」、具体的には、

紙媒体を目標にしたいところです。

 

それではここまで、

ありがとうございました。

 

またどこかの、

見方や与えられ方の中で、

お会いしましょう。

 

 

参考文献

 

eizouken-anime.com

 

 

アニメ研究入門―アニメを究める9つのツボ
 

 出版社リンク

 

 

デジタル記号論—「視覚に従属する触覚」がひきよせるリアリティ

デジタル記号論—「視覚に従属する触覚」がひきよせるリアリティ

  • 作者:松本健太郎
  • 発売日: 2019/02/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 出版社リンク

 

 

ジンメル・つながりの哲学 (NHKブックス)

ジンメル・つながりの哲学 (NHKブックス)

  • 作者:菅野 仁
  • 発売日: 2003/05/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 出版社リンク

 

 

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

 

出版社リンク

 

 

現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

  • 作者:倉田剛
  • 発売日: 2017/04/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 出版社リンク

 

 

www.nhk.or.jp

 

 

複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学

複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学

  • 作者:篠原 雅武
  • 発売日: 2016/12/12
  • メディア: 単行本
 

 出版社リンク

 

*1:映像業界において、「制作」は映像作品を作ることを指し、「製作」は著作権保有してビジネスを行うことを指します(例えば『アニメ研究入門 〔増補改訂版〕』:215)。この場合は両方が彼女たちの活動に含まれるでしょう。

*2:存在するとは何かをより正確に書いていくにはかなりの文章量が必要になるため、当座として、『現在存在論講義 I』を紹介したいと思います。

*3:同書は顕著な例として、『となりのサインフェルド』というドラマにおける、自分たちの何気ない日常をショウとして撮影する一幕を挙げています。日常を多面的に相対化することで、物自体と、いくつもの受け取り方とを、ともに示すことが可能になったようです。自分たちが住まう芝浜をロケし、相対的にとらえる映像研のアクティビティも、同様の効果を持っていると期待できるでしょう。