ここ半年ちょっとの間にも心に残るライブはたくさんあって、例えば「もうダメだ」ということがあっても、そうしたライブたちのお陰で元気がみなぎり、それで何とか今までやってきたなと思う次第です、センケイです。
今回は、逢田梨香子さんのさよなら中野サンプラザ公演のライブから丁度1ヶ月がたち、その感想をここで公開したいと思います。
いつもつい、あの曲もこの曲もと話を広げてしまって永遠に終わらなくなりかけるので、今度こそは2曲絞って書き上げました。お楽しみください。
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EP 『ノスタルジー』に先行して「Adolescence」が公開されたとき、TL がざわついていたことが今でもありありと思い出されます。
そのざわめきの理由を思い返してみると、そこに「Marine Border Parasol」を彷彿とさせるものがあった、そういう理由も含まれていたのではなかったかと思います。
あまり深読みしすぎて間違った読みになってしまうのは避けたいですので、ほどほどにしておきたいとは思いますが、少なくともこの関連では2つのことが頭をよぎります。
1つは、この『ノスタルジー』においても、これからもきっと続いていく何かとか、次の夏の到来とかがあるはずなのに、特定の (この) 夏の過ぎ去りを惜しむということ。
夏がまた来ることが分かっていても、また会えるかもしれないという予感はあっても。それでもこの今の夏の瞬間にやっぱり有限さを感じるときってあるよねって。もしかしたら Adolescence の場合もそういうメッセージを歌ってらっしゃるんじゃないかなって思えてきまして。
もう1つは、Adolescence の中の青春って、もし違う選択肢を選んでいたら存在しなかったという意味での「今」のことも描いてらっしゃるように思えたこと。
「あの頃の出逢い 人生の宝物」という Adolescence のメッセージ中に、そんな、他の選択肢ではなかったからこそ宝物になった今が含まれているんじゃないかって、ちょっと想像しちゃいますね。
インタビュー記事で、(後から懐かしく思うような) 青春という範囲の一部として「今もそうですし、」という風に仰っているため、少なくとも Adolescence の指し示す青春が「今」のことも指しうるのだと確認できます。
ここで一度、逢田さんがそうしたご自身のご経験を反映して歌われているかどうかについては、2つの記事を参照することにしましょう。
1つは、合同誌『ジリィスタイル Vol.2』を刊行した際に soitan さんにご寄稿いただいた記事、「声優楽曲を推す――楽曲解釈が切り拓く人生」です。
ここでは、声優歌手には主にオリジナルのキャラクターを演じる歌手と、主に自信の内面を見せる歌手がいらっしゃっていて、逢田さんが前者であることを指摘しています。ただし、「Tiered」という楽曲においては、そのキャラクターのモチーフが逢田さんであることも補足しています。
もう1つは、soitan の記事内でも参照されている、なぎなぎなぎさんのブログ記事「Tiered という楽曲のお話」です。ここでは、Tiered が収録されているアルバム『Curtain raise』について、アルバム全体の傾向としては逢田さんが内面を見せる曲も多いことを指摘しています。
なぎなぎなぎさんはその上で、Tiered という曲は確かにキャラクターを演じているけれども、演じる逢田さんをも物語として描いた楽曲である、と読み解いています。
これらのことを踏まえると、Adolescence や後述の「ノスタルジックに夏めいて」は、逢田さんはあくまでオリジナルのキャラクターが青春する様子を表現されているいっぽうで、そこでは逢田さんご自身のご経験もフレーバーになっている、このように解釈できるかもしれません。
さて、もう少し具体的に歌詞に向き合ってみましょう。
1サビ、
この先 いくつもの季節がめぐっても
とあります。次の夏がまた来ることを示唆しているようにも見えますが、A メロまで少し戻ると
言いかけた言葉 今はもう届かない
とあります。興味深いことにここでは次の夏で何が起きるかについては特に言及されていなくて、この夏が一度きりであることに焦点が当たっているのですね。
これは、このとき私たちが経験した中野サンプラザのライブが、特に逢田さんのライブについてこれっきりになることとも重なります。
ここで、この歌の素晴らしい点は、いっぽうでその夏起きたことがなくならないものであるとしている点です。
さきほどのサビのフレーズの直後には
永遠の青 胸の奥 輝いてく
が続きます。
たとえそれが有限であっても、いや有限だからこそ大切なものとなってずっと輝き続けるということ。
先ほどのインタビューで、青春が「今」のことを指しても構わないという話がありましたが、その立場にたてば、A メロの「今はもう届かない」は、未来から回想している自分のイメージということになるでしょう。
未来の自分が今を口惜しんでいるかのような様子だけに着目すると、あたかも未来が寂しいものであるように見えます。しかしカウンターとして、この青春/この夏がずっと輝き続けるということも語られているのです。
ではこの夏はいったいどんな青春なのか。2コーラス目の A メロにはこうあります。
喜びや涙 分け合った友へ
あの頃の出逢い 人生の宝物
と。
巡り会った人々と過ごした時間。これが逢田さんがオリジナルのキャラクターを通じて描いている青春ということになるのでしょう。
上で見たようにこの曲は、次の夏がどうあるかということとは独立に、この夏の記憶が永遠に残るものであることを示しています。
これは夏の再来や、いつかは分からないけれども (「潮風が知ってる」) また会えるかもしれないことを前提としている Marine Border Parasol よりもさらに一歩先を見ています。
それでも敢えて Marine Border Parasol のことを思い出す意義があるとしたら、Marine Border Parasol の2サビのこの箇所のことを強調したいです。
ほかの選択肢だったら
ここで一緒に 笑い合えなかったかも
何か掛け違えていたら、何か今までと違う歩みを辿っていたら。こうではなかったかもしれない仲間とのめぐり合わせや過ごした時間。
これは少し深読みし過ぎかもしれませんが、やっぱりこうでしかあり得なかった仲間との夏だったと思うからこそいっそう、Adolescence の A メロにあるように「人生の宝物」だと言えるのかもしれないなと。
あるいは一般に、このように言えると思います。上のことが Adolescence の解釈として妥当かどうかは問わず、私たちにとっても、もし私たちが今まで違う選択肢を選んできていたら、この夏はなかったと。
そう思えば私たちも、この夏に楽しく笑えるようなことがちょっとでもあるたびに、色々あったけれども今まで他の選択肢じゃなくてよかったと思いながら、この夏のことを大事に覚えておきたくなりますね。
さて、もう少し先まで見ていきましょう。
もし上で見たように、この歌詞が未来の自分のから今を振り返っているものなのだとすれば。2サビのこの言葉は、たいへん前向きなものになります。
運命は自分の生き方で変わるよ
未来の景色 きっと想像 超えてく
この先の展開を知っている未来の自分がそう言っているのだから、きっとこれは叶うのでしょう。
今のことを多少寂しがりつつもそれが失われていないことを示すとともに、その後想像を超えるくらいに楽しいことが待っている。
たいへん楽しい今が少しずつ過ぎ去っていくのを不安に思うときは、それを懐かしむ未来の自分が希望を投げ返してくれる。このような構図を想像するとき、ときの過ぎ去りを恐れず、きっと懸命に今に向き合えるようになるかもしれませんね。
続いて、ノスタルジックに夏めいてを見ていきましょう。
個人的に特に青春らしさを感じた箇所としては、
切り過ぎた前髪すらも
ちょっと愛おしいんです
ここなどですね。熟れていないことを匂わせるようなちょっとした失敗をむしろ良いものとしている点に、勢いが感じさせられます。
また、歌詞として夏の有限性が強調されている点が興味深いです。
溶け落ちた氷も花も
花火みたい 一瞬で消える
氷や花火などの風物詩、言われてみれば皆有限のもので、だからこそこうした夏の象徴がより愛おしく感じられるという、そういう一節ですね。
花というのはここでは紫陽花か向日葵でしょうか。春の桜にはかなわないかもしれないけど、こうした夏の花も確かに一ヶ月程度ですっかり様子を変えてしまう花で、儚い良さを強調するには申し分ない風物詩と言えるでしょう。
また、Adolescence と比べたときのこの曲の固有性があるとすれば、現在の視点から描かれている (、少なくともそのように見える) 点でしょうか。
変わらないものなんてないとわかってるんだ
もう来年はいないけれど
こうした言葉選びは、今この瞬間名残惜しさを感じていることを描いているように感じられる描写です。
また、ノスタルジックに夏めいては、Adolescence と同様に未来について、それが予想の範囲に収まらないものであることを読んでいるのですが、異なっているのはその予想の難しさ、あるいは変化について、ニュートラルか、ややネガティブよりに捉えているように見える点です。
青春の行き先は誰もわからないよ
もう来年はいないけれど
また会える あの日のままに
どうか変わらないで
ノスタルジックに夏めいては、今視点に立ち、この今が変化することについてうしろ髪ひかれている歌だと言えるでしょう。
また敢えて Marine Border Parasol の言葉を借りるなら、この一縷の望みとは裏腹に、次に来る夏はまたきっと違う夏。
その夏がそれはそれでまた良い夏になるとしても、もし特定の人たちと過ごす夏がこれきりになるのなら、まさに今この夏を惜しむのも自然なことだと言えるでしょう。それだけ、きっと今、良い夏が訪れているということなのだと思います。
さてここまで、さよなら中野サンプラザ音楽祭の 6 月 3 日公演について、序盤の2曲めに披露された「Adolescence」、そしてアンコール後の大トリとして披露された「ノスタルジックに夏めいて」について、主にその歌詞の意味を振り返ってきました。
ここでこのライブにおけるこれらの位置付けを考えてみるとするなら、やはりこれが中野サンプラザがもうすぐ閉まってしまうということ、そしてこの季節が夏であるということに尽きるでしょう。
ノスタルジックに夏めいてについては、なんと大トリの曲という形で置かれたのです。
この位置づけから行くと、「ノスタルジックに夏めいて」のような、未来への変化を恐れてためらうような側面が強調されているように見えなくもないですが、やはりというか多分そうではないですよね、ここでのメッセージは。
www.lisani.jp EP 『ノスタルジー』に関するインタビュー記事では、ノスタルジーというテーマの出処が、「あのときすごく楽しかったな」という楽しい思い出であるとされています。
そしてそれは、ライブの楽しかった思い出のこともまた含んでいる、と。
これはつまりこういうことなのだと思います。
中野サンプラザ、そしてこの 6 月 3 日のことは、単に名残惜しいものではなくて、これから楽しいものになっていく、と。きっとこういうメッセージだったのではないかと思います。
1ヶ月経った今の私の中では、夏のキラキラした、楽しい思い出としてこの日のことが定着しつつあります。
ライブ全体の構成として、特に上記2曲と隣接する曲順で、「Dream hopper」や「ステラノヒカリ」という楽しい曲調の曲が、全身全霊と思えた素晴らしいパフォーマンスとして披露されました。
名残惜しさの中に常に楽しさが入り、後から楽しく思い返せるように丁寧に編み上げられたライブだったのですね。
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逢田さんはすでにこの中野サンプラザで複数回のライブをされています。その大事なものであるはずの中野サンプラザは無くなってしまうのだけど。
でも私たちファンとしてはこのことを寂しがりすぎずに先に進んでいくのが良いのかもしれません。きっと逢田さんはこの先ますます素晴らしい楽曲を出されるご活躍をされていくことでしょうし。それはきっと「想像 超えてく」くらいに。
個人的に思うのは、未来に進んでいくにあたり大事になるのは、過去に対して節目を作ること。きっとこのライブで過去を少し懐かしむような要素があったのは、そういう面も強かったのではないかと思います。
だとしたら、これを楽しい思い出として最大限心にピン留めしつつも、いやだからこそ、これからのことを楽しみにしていきたいですよね。
最後に「ハナウタとまわり道」のオンエアで終幕となったのも、この先を楽しみにしようとする私たちのことを助けてくれたのかな、なんてね。
それでは、ここまでありがとうございました!
またどこか楽しい思い出の中で…いや、音に酔いしれる未来のどこかでお会いしましょう!