「グループ」は最初からそこにあるわけではない…ひとりたちの小さな能動性

こんにちは。センケイです。

この度は曲としても内容としても様式美としてもすっかり『ぼっち・ざ・ろっく!』に打ちのめされたために、これを少し記事にしてみたいと思います。

 

主人公として描かれる後藤ひとり…音楽ユニットの中でもセンターやボーカルが主人公として描かれるわけではないのは特徴的だと思います…は、幼稚園、小学校、中学校とほぼ同世代との関わりを積極的に持つことなく過ごしてきた極端に内向的な人物。

そんなひとりは中学1年次において、ひょんなことからギターに興味を持ち始め、その練習に打ち込む傍ら、文化祭などのライブ披露によってチヤホヤされたい…ということを思い描くようになります。

 

その後第1話の序盤にてすぐに時間が流れ、3年後の高校1年生の描写にシーンが移ります。その頃のひとりは…、確かにチヤホヤされてはいるものの、文化祭はおろかバンド結成などのイベントも生じておらず、インターネット上でのみチヤホヤされているという状況に。

このようなシニカルな描写が、第1話目から興味をひきつけてくれるアニメでした。

 

さて、はじめに確認しておきたいのが、ひとりのモチベーションです。

確かに、モノローグ上ではチヤホヤされたいということのみを強調してはいるし、ギターをやっている理由としても…その後事態が好転して結成される「結束バンド」の他メンバーには隠しつつ…チヤホヤされたいという望みを心の声として反芻しています。

が、やはりこれまでの時間の過ごし方やそれに対するスティグマを見るに、やはり最も重要な彼女の活動動機はそれ (だけ) ではないように思えます。

 

ベタな話ですが、ドラマーの伊地知虹夏とギターボーカルの喜多郁代がひとりの家を訪れた際のはしゃぎようを見るに、友だちと過ごす時間が/も、個人として、そしてバンドの一員として、ひとりにとっての重要なモチベーションになっているのではないでしょうか。

こうした動機は幾分メタ的なところがあるので、あえてモノローグで自認するものでのなかったのかなと。

ぼっち・ざ・ろっく!7話/©はまじあき/芳文社アニプレックスdアニメストア
虹夏と喜多の訪問を歓待しようと備えていた様子。

 

さて、このような前提に立つと、あるいは9話で見たように、友だちと夏休みの思い出を作ることを死活問題として捉えているひとりを見るにつけ、バンドがバンドとして結束することは、彼女たちにとって必須の条件になってくるでしょう。

ここで興味深いのは、実態としてどのように彼女たちが親しくなってきたか、という点です。

 

確かに直感的には、バンドという共通の目的や動機を持つことで (、あるいは、集団であることそれ自体の効果によって*1 )、自然に関係性が構築されて行くのでは?という風にも思えます。

これに対して、最近とある本『アクターネットワーク理論入門』という本の、「グループはない,グループ形成があるだけである」という議論を読んで、ハッとさせられたのです。

つまり、放って置いても結束バンドというグループがあるのではなく、グルーブがあるために成員たちは絶え間ない努力をする必要がある、ということです。

 

この視点に立つと、確かに、手放しで結束力を高めているわけではない彼女たちの側面が一層際立って、興味深いものに感じられてきます。

複数回に渡ってともにピンチを乗り越えたはずの第9話時点でなお、虹夏の姉でありホームのライブハウスの店長でもある星歌から「お前らもうバンド名変えろよ」と言われてしまう顛末。

 

その名前と裏腹に、手放しで結束力を高めているわけではない "結束バンド" の4人。

…しかしだからこそ、彼女たちの小さな積極性や努力が、より魅力的に、かつ意味のあるものとして見えているようにも思うのです。

前置きが長くなりましたが、この記事ではそのような積極性を確認していくことが目標になります。

 

 

小さいながらも最大限の努力が、グループたらしめていく

 

先に述べたようにひとりはかなり内向的であり、人に対して自分から相互作用を取ることをためらう場面も多く見られます。実際のところ、何かアクションをしようとしてやめてしまう描写も少なくありません。

 

しかし、ひとりは人と相互作用を持つことそのものを嫌がっているわけではありません。

よく見ていくと、人と交流できるきっかけになるような伏線は常に張ろうとしているのです。

 

1話冒頭で、バンドに加えてもらうことを目指し、ギターやバンドのグッズなどを常に持ち歩くひとり。その割には人から話しかけられない、と自分の物語を悲観的にかえりみるひとりではありました。

しかし実際には、ギターを持ち歩く行為が大きな契機をもたらすことになります。

ぼっち・ざ・ろっく!1話/©はまじあき/芳文社アニプレックスdアニメストア

ギターを背負って歩くことで、虹夏との出会いを果たし、そしてバンドに加入するひとり。この時点では臨時のギターとしての加入でしたが、すでに物語は動き始めていたのでした。

公園にいる知らない人に対して臆せず話しかける虹夏の積極性は、のちに案外付き合いの悪い人物であることが分かってくるとますます際立ちますが、しかしひとりがひとりなりに人と関わりを持とうとしていた側面も見逃せません。

 

ギターを持ち歩いていることは、その後 廣井きくりとの出会いをはじめ、家族やバンドメンバー以外の人との交流をもたらす要素にもなっていきます。

冒頭の自己認識とは反対に、この小さなひとりの積極性が、実際には物語を動かす働きかけになっていくわけです。ひとりなりの最大限の努力が、実を結んでいっているわけです。

 

 

ひとりにできる限りの最大限の努力は、ストーリーが進むにつれて可動域を広げていきます。

明るく人望のある人物だが一度結束バンドを脱退し逃げてしまった喜多…そんな彼女を引き戻したのが実はひとりであったという事実は、9話目くらいまで見た今思い返しても意外に思える事実です。

しかし実は意外なことではないのかもしれない。この時点ではまだ小さな積極性ですが、ひとりは積極的に働きかけていました。

喜多のいる教室まで出向いて、隙間から垣間見ていたではありませんか。

 

この時点のひとりにとって、自分の方から話しかけたり、バンドがギターボーカルを求めているという情報を伝達したりすることは、キャパシティを超えたふるまいであったのだと思います。

 

結局のところ、話しかけたのは喜多のほうからでした。

また、それを受けて「バ・ギ・ボ」と頭文字しか言えなかったひとりに対しても、喜多はこれを「ヒューマンビートボックス」と好意的に解釈してくれたし、さらに親切なことに、続きを演じるという形で「ノッて」くれます。

ぼっち・ざ・ろっく!3話/©はまじあき/芳文社アニプレックスdアニメストア

しかし、このような一連の流れができ (逃げ出したひとりが廊下の隅でモノローグ的弾き語りをするのを見、改めてふたりのやりとりが始まりました*2、このあと二人がギターの練習をしようと下北沢の街に足を運ぶのも、ひとりの小さな積極性が起点であったわけです。

 

以上のように、結束バンドという4人が知り合ったり集まったりし、関係性が始まるところまでにおいて、ひとりの小さなアクションのいくつかが大きく貢献していることを見てきました。

 

さらには、関係性を維持/継続し、より良好なものにしていくためにも、ひとりの能動的な振る舞いが一役買っている点を見てみましょう。

このシーンは、自分から働きかけることを恐れていたひとりを思うと、今までになく踏み出している点に心を奪われるシーンです。

ぼっち・ざ・ろっく!第8話/©はまじあき/芳文社アニプレックスdアニメストア

4人揃っての初めてのライブを曲りなりにも乗り越え、その打ち上げをする場面にて、途中から虹夏が座席を外していました。

これを受けて、ひとりはトイレに行くと偽り、虹夏のことを気にかけて見つけに行きます。

 

メンバーのひとりに対して気を遣い、自ら働きかけることといい。そして、ここでは自分から話しかけることといい。

ずっとシャイでなかなか自分から行動できなかったひとりが急に大人になった感じがする一幕に、感慨深い想いがこみ上げてきますね。

 

ここでも、立ち入った話はせずに季節のことなどを話すひとりに対して、より積極的に、ひとりの正体を見破った話や、夢の話などをし始めたのは虹夏からでした。

しかしこの場面は明らかに虹夏だけが距離を詰めているのではなく、二人が協調して歩み寄った結果として、夢の話といった深い話ができているように思えます。

 

ひとりは「この性格を直してから」(少し有名な動画配信者であることを打ち明けようと思っていた) と謙遜して自らを語っていますが (そもそも「直す」という表現を個性に対して用いるのは不適切のようにも思えますが)、ここでは対等に気を配り合い、対等に歩み寄り合うような「ふつうの」関係性の構築ができていたのではないでしょうか。

 

グループはグループであるだけで自然に意気投合できるわけではないし、喜多が一度脱退したように、そのままずっと存続できるとも限らない不安定なものなのかもしれないけど。

そんな中でひとりは、当初の可動域こそ小さかったものの、その可動域を広げつつ、常にできる限りの最大の能動性で、グループの関係性の構築に貢献してきたのではないでしょうか。

 

もちろん、虹夏や喜多、山田リョウも、それぞれ自分なりのやり方で、グループがより良い方向になるよう、グループを育ててきたのだと言えるでしょう (リョウに関しては、ひとりよりもむしろ消極的にさえ見えますが、ひとりに対する歌詞のアドバイスや作曲など、リョウの得手を生かした貢献が各所に垣間見えます)。

 

少し不器用なメンバーたちを、モノたちが "band" する

 

先に少し上げたように、ギターを持ち歩いていたことが、虹夏やきくりとの出会いや関係性を作り上げてきました。喜多と会話する手がかりが生まれたのも学校でギターを弾いたためです。

こういった「モノ」の意義を考える上で、少し引用した『アクターネットワーク理論入門』における「アクターネットワーク理論」という考え方が役に立ちます。

この立場にたてば、モノもまたヒトと対等に、状況/社会を作り上げるアクター (あるいはアクタンと呼ぶ場合も) である、というわけです。

 

なおこの立場では、「社会」というものが初めから存在していると考えるのではなく、あまたの登場人物やモノ、それらのお互いの相互作用によって社会ができるものだと考えます。

なるほどそう言われると、「アクターネットワーク理論」の立場が、グループは決して「ありき」ではないと考えていることについても、自然なものに感じられますね。

 

 

ひとりは当初極端にシャイで、自分から話しかけるといった、関係性の構築そのものに携わることはかなり苦手な人物でした。

だからこそ、ギターを手にしてきたことが、関係性構築の上でいつでも働いてきました。

そのことがバンドの成立のために貢献してきたのは、これまで見てきたとおりです。

 

 

ギターは人と人の間を取り持つアクターの典型的な1つとして機能していますが、他には、歌詞といった抽象物、自販機のような設置物*3、台風といった自然現象にも媒介する効果があるものと考えられます。

 

まず歌詞という媒介物について言えば、ひとりとリョウを引き合わせるための大きな貢献をしています。リョウは下手したらひとり以上に自分から働きかけないタイプかもしれません。そのリョウとひとりが接近する、非常に重要なシーンです。

ぼっち・ざ・ろっく!4話/©はまじあき/芳文社アニプレックスdアニメストア

考えてみれば、この一連の流れの中には、単に二人が接近する以上の様々な意味がありました。

 

まず、歌詞が理由となって、ひとりは LINE をもした SNS 上でリョウへ向けたメッセージを自ら送ります。

ひとりが成長を見せる他の場面と比べるとあまり作中で取り沙汰されていませんが、面会の最初の切欠をひとりが自主的に作る場面はほかに殆ど見られず、大きな一歩を踏み出しています。

歌詞という媒体は、それほどまでにひとりを動かしたのです。

 

加えて、こうして二人でカフェで落ち合い、個性を捨ててはダメだという形でバンドについての考え方を話し合ったことが、のちに喜多が「何で急に仲良くなってるの〜!?」と評するほど、ひとりとリョウの親しさを深めました。

 

なお、気を遣われるとかえって苦しいのでは、と想像したひとりにたいして、あまり気を遣わ無さそうだからこそ相手に選ばれたリョウの一側面もここでの面会に貢献しているわけで、これも興味深いところではあります。

 

 

続いて面白いのが、台風の登場です。

厳しかったオーディションを乗り越え、ひとりがバンドメンバー以外の人とも接触した上で見事チケットを売りさばいて、待ちに待ったライブの当日。

…しかしそんな折、まるで不運を呼び寄せるかのように、外れるはずだった台風が進路を急遽北向きに変え、会場 STARRY を襲います。

 

何よりも心配なのは、客足が鈍り、メンバー達がその雰囲気ゆえに本来の実力を出せないこと。

わずか 10 人ばかりの観客を前に、MC でも声が浮ついてしまってうまくネタを回せず、オーディションで渾身の出来を見せた「ギターと孤独と蒼い惑星」に入る頃には、すっかり負の循環に。懸命に努めているはずの演奏も、ここでは上滑りするばかりです。

 

しかし、まさにオーディションがそうであったように、逆境でこそ真価を見せたひとりが、1曲め終了後、ここでなんとアドリブのギターソロを見せます。

これに鼓舞された各メンバーは、「あのバンド」ですっかり息を吹き返し、それまでまったく結束バンドに無関心であった2人の観客をして「ちょっといいじゃん」「ね」と言わしめる迫真の演奏を仕立て上げます*4

あがっていく雨に表れているように、4人は見事に窮地を切り抜けたのです。

 

しかしこれも、ひとりが逆境でこそ力を発揮できる (そうではなく普段はヘタとさえ言われてしまう) 点を思うと、台風という災いがなければ、こうしたグルーヴを生み出せなかった可能性も考えられます。

台風は、試練を与えてバンドを強くし、ひとりの力を発揮させて共に乗り越えさせ、そして band する ≒ 結束させる効果をもたらしたのではないでしょうか。

 

さらに興味深いのは、ひとりがここでバンドの一員として果たす役割は、一般的にバンドメンバーに求められるもの…目配せによる連携…ではありませんでした。

常に下を向いて演奏し、自らの道を突き進みます。ある種喜多たちが、それを目視で確認し、ひとりを信じて追随するという演奏形態になっていました。

ぼっち・ざ・ろっく!第8話/©はまじあき/芳文社アニプレックスdアニメストア
「あのバンド」の曲中、常に手元をみて演奏に専念するひとり。

言ってみれば、ライブ中のバンドメンバーの振る舞いというよりも、異なる役割からのメタな振る舞い…予定外のアドリブの演奏…によってひとりは他の3人の力を引き出したのです。

このことからもメンバーたちが、バンドという関係性を所与のもの/当たり前のものとしてそれに甘んじるのではなく、探索的に動的にバンドというグループを構築する努力をしていることが感じられます。

 

 

極めつけはステージ出演希望の用紙。

季節は文化祭、ひとりが結束バンドとしてステージに出演するかを迷っている頃のことです。

後に分かるように、実はこのとき喜多は、ひとりに文化祭に出演してほしいために、結束バンドとして出たいという想いを隠していました。

 

ひとりは、「ひとりに文化祭に出演してほしい」という真の理由こそ想定していなかったものの、喜多はきっと率先して出たがるだろうというギャップを想像し、店長に相談するなどはしても、意識して喜多に相談しないようにしてしまいます。

一方喜多は喜多で、言葉での説得は成功しないと踏んでいたのか、やはりひとりに対して自分の考えを話すことはありませんでした。

 

ひとりが気がついたら書き上げ、後にやはり自信をなくして撤回しようとゴミ箱に投げ入れてしまった提出用紙。

そして、やや強引ながらも、ひとりが提出したがっていたというていにして提出してしまった喜多。

喜多は、ひとりにはその真意を打ち明け、勝手なことをしたことについて深く詫びようとします。

ぼっち・ざ・ろっく!第10話/©はまじあき/芳文社アニプレックスdアニメストア

しかし、出演するという話になったことを受けて誘われた廣井率いるバンド「SICKHACK」のライブに参加し、そこで衝撃を受けたり、その後ファミレスで結束バンドの4人で具体的な詳細について話したりしているうちに、当初滅入っていたひとりは、すっかり前向きになっていました。

前向きで楽しみな状態になったことについてひとりは「ありがとう。」と喜多に感謝します*5

 

かくして用紙は、言葉では実現しなかった新しい展望、ひとりやバンドの成長、そしてひとりと喜多の繋がりへと結びついて行きました。

ぼっち・ざ・ろっく!第10話/©はまじあき/芳文社アニプレックスdアニメストア

 

 

それぞれがどこか不器用で、うまく話し始めないでしまったり、言葉や目配せだけでは物事を前に進められなかったりしてきた4人。

でもだからこそ、ギターや歌詞、自販機、T シャツのデザイン、台風、そして提出用紙のような周囲のアクターを巻き込みながら、ゆっくりと確実に、良い関係性を見出してきているのでした。

 

 

おわりに/考察

 

グループやバンドは最初からあるのではなく、普段の/不断の努力によって作り上げるもの。

最初は小さい可動域ながらも、それを常々やり、共同体としてもバンドとしても「良さ」を作り上げてきたひとりたちでした。

 

そのさい、周囲のモノたちの存在も重要でありました。

メンバーは、歌詞や台風、提出用紙といったアクターをうまく巻き込み、ときにその逆境を味方につけたり、ときに言葉では進まない物事を進めたりする形で、モノの価値を引き出し活用してきました。

 

 

個人的には、ここから随分学べることがあるようにも感じました。それは特に「モノ」の存在についてです。

 

考えてみれば、人と人とが関わる上で、モノの存在は常に重要です。

振り返ってみれば当たり前のことかもしれませんが、「仲良くなろうとして仲良くなる」みたいなやり方ってあんまり (鉄則が) 存在してないですよね?

例えば大学のサークルのうち、実際には仲良くなることを目的としているようなサークルでさえ、「仲良くなる部」みたいなものは、自分が思い出す限りは、無かったと思います。

 

何かを媒介することで、きっとコミュニケーションはずっとスムーズになる。あるいは、ライブをやるといった何か目標をなす上で、それが物事を動かす力になる。

 

ちょっと気を抜くとつい、「うまく (面白い話を) 喋らなくちゃ」「相手のことを考えて慮らなくちゃ」みたいな気持ちになってしまうところではありますが。

そうではなくて、モノに着目するくらいが丁度いいと思えば、直接人 (に気を遣うこと) やを目標 (の実現) を考えようとプレッシャーを感じるより、だいぶリラックスして取り組める。そのように思えてきはしないでしょうか。

 

 

それではここまで、ありがとうございました!

次の展開も楽しみですね。それではまた、文化祭かどこかでお会いしましょう。

*1:集団と組織の社会学』では、集団に属していること自体が、集団内のメンバーと助け合う動機になっており、下手をするとそれは集団への愛着や共通の目的などよりも強いものである、という議論があります。

*2:ノローグ的な発話や行為が物語を動かす要素の1つになっている点も興味深いです。この直前でも、こちらはリアリティではなく SF 的なのですが、ひとりの心の中の音が喜多に聞こえるというカットがありました。この出来事は、喜多がひとりの逃げた先を特定することに貢献していた可能性も考えられます。

*3:shirooo105 さんというかたの記事「アニメと自動販売機、その風情について」にて、5話の自販機がひとりと虹夏にもたらす効果について議論があります。

*4:後で気付いたんですが、自分が文を書くとき、数としての人数に着目しているときには「2人」とアラビア数字で、関係性に着目しているときは「二人」とかき分けていますね。なのでここでは表記の統一はしないでおきます。

*5:ひとりちゃんの笑顔と常体にしかない薬効があるに違いありません…。