こんにちは。センケイです。
果林先輩の姿はまさに代表として表舞台にたつにふさわしい勇ましさがあり、かっこよかったですね!
ところで、個人的な話ですが、1話のときに薫陶を受けたある読書会がちょうどこの土日にも行われていました。
けっこうその内容が9話と重なるところがあってビリっと来たので、今回は割とそのビリっが多めになります。
【月末読書会のお知らせ】
— 月末読書会@今月はリモート会 (@bookreadsapporo) November 10, 2020
日時:11月29日(日)13:00-17:00(途中参加、退出可)
会費:無料(zoom開催)
課題本:手の倫理/伊藤亜紗(講談社選書メチエ)
未読参加歓迎!全部読んでなくてもOK!
参加申し込みはリプかDMで!(〆切11/27金曜)#月末読書会
もしかすると今年ラスト会です、是非是非~
具体的には、
①多様性っていうのは「多様性」ってヒトコト言っておけば片付くようなものじゃなくてもっとフクザツだってこと。
②「ふれる」っていうのは相手の内側までよく分かっていく行為だってこと。
そんなお話を足がかりにしていきます。
それでは、ついに9人のソロが出揃う第9話、やっていきましょう。
ひとりの中の無限性
7話時点では東雲学院と知名度が雲泥の差だと言われていたニジガクの同好会。
しかし、少しずつ周りからの注目を集めていきます。
そんな中、改めて自分たちのライブをやろうというムードが高まっていきます。
具体的な目標を掲げようと提案する優木せつ菜。「〜てみよう」という表現で考え方の枠を広げる宮下愛。メンバーの強みが総集編的に集まってくるところに、ワクワクさせられます。
以前、5話の感想では、同好会の9人あるいは10人がいかに多様かについて述べました。
しかし、一般にも言えることですが、それを「多様性」という言葉だけで済ませてしまうことは、もったいない場合も多いです*1。
ひとりひとりの中にも、もちろんたくさんの側面やパーソナリティーがあります。それにそうした様々な可能性は、多くの場合、その人との実際の関わりの中で見えてくるでしょう。
「多様性」という言葉だけで片付けてしまうのは、たくさんの側面を見落とすおそれや、実際の関わりをせずに済ますおそれがある点で*2、リスクがあるわけです。
冒頭、朝香果林のモノローグと思しきプロットの中で、「ほんとうの弱い私」という言葉が現れます。
これに続くかのように、果林の様々な可能性、『手の倫理』の言葉を借りるなら「無限性」が、この9話では次々と現れてきます。
近江遥、綾小路姫乃のそれぞれの交錯する思いに焚き付けられ、3,000 人規模であるという DIVER FES への参加を決意する同好会。
しかし、1曲分の枠だけしか持てないということが分かり、誰の歌で出るかについて皆は頭を悩ませます。
お互いに遠慮をしあって座礁しかけたとき、果林は厳しい言葉を放ちます。
これが5話で言うところの「クールでカッコつけて、大人ぶって」であるかはのちに考えるとして、これが同好会にとってかなり意味のある言葉になったことは間違いないでしょう。
恐らくその言葉の意義は、皆を本気にできた点に留まらなかったと思います。
1話の感想で書きましたように、「優し」くしようとすることは、ときに抑圧としても働きます。
せっかく皆が自分を出せるようになってきた今。それぞれが牽制しあわずに自由に発言できることは、同好会が安心できる居場所であるためにもかなり重要でしょう。
そのためには、果林のような一言が必要だったのかもしれないのです。
ともあれ、これを皮切りに、果林はとても一つの属性や性質で表せないような、幾多の顔を見せていきます。
モデルとして颯爽と写る姿。
あるいは、ときには道に迷い、困っている姿も見せます。
この、クールでセクシーであると同時にコミカルでもあるテーマ曲、一見同時に満たすのが難しいこれらの制約を見事に全て満たしていて完璧ですね…。まだボロを出していない2話の歩夢だぴょんのシーンとは、同じ主旋律を保ちつつ絶妙にアレンジを変えているのですね。
しかし迷ったことによってせつ菜たちに出会い、お互いの気持ちを確かめられたのもまた奇妙な因果ですね。
人の側面は、お互いの関わりの中で見えてくるもの。あるいはときに、関わりの中で作られるものでもあるでしょう。
果林の厳しかった一言は実は、決してクールな大人であろうと取り繕ったものではなく、果林が本気をぶつけた結果のものだったのです。それが、腹を割ったやりとりを通じて見えてきたわけです。
しかもその果林の本気は、まさにせつ菜や上原歩夢たちとの関わりによって温められてきたものだったのです。
果林の本気を受けて、今すぐ代表を決めようと働きかけるせつ菜。具体的な目標に向かって情熱を燃やす難しさをまさに悩んでいたせつ菜が、ここではその本気を発揮して皆をいい方向にいざなっており、救われた気持ちになってしまいますね。
さて、果林がここまで見せてきたのは、とてもひとくくりのキャラで括れない色とりどりの姿でした。
そして、果林と他のみんなとの関わりはさらに、そんな無限の姿をしっかり知ろうというコミュニケーションになっていきます。
それは、どんなコミュニケーションだったのか。DIVER FES の一幕とともに振り返っていきましょう。
ゼロあるいはマイナスの距離の信頼
あまり深堀りされませんが、果林に触発されたことで、皆がそれぞれ代表に立候補したようです。魂のぶつかり合いを感じますね。
その上で、自分以外を推薦することになったとのことですが、愛が「それなら、今回は1人しかいない」といった背景にも、複数の意味が考えられて気になるところです。
順当に考えれば、他の皆がすでにそれぞれ活躍の場を見せたため、という意味に推測できます。しかし、姫乃が果林について言及したため、という可能性も捨てがたいです。
姫乃が何を意図して挑戦的な立ちふるまいをしていたのか定かではありませんが、結果的に推しの果林が出演するという帰結を誘導したのだとしたら、なかなかの策士ですね。
ステージの裏でも、まるで追い打ちをかけるように言葉を重ねる姫乃*3。しかしこれも、果林をより高く跳ばせるための発破だと思うと、なかなか熱い展開に感じられます。
そのような言葉も影響したのか。あるいは、今回の規模が桁違いのものだったからなのか。
熱狂するステージの規模を前に、果林は自信を無くし始めてしまいます。
「弱い私」というのもまた、果林の本当の姿の1つであり、魅力的な姿の1つでしょう。早いタイミングでこの衣装になっていたことで、ステージに上がる果林の中にだって「弱い私」が含まれている、そんなことを感じさせられます。
挑戦することが大きくなっても、人はただちにそれに比例したメンタルを持てるわけじゃない。覚悟を決めただけで乗り越えられるわけじゃない。
これから始まることの重さが、いったいどれほど果林を悩ませたことでしょう。
しかしそんなとき、仲間は駆けつけてくれました。
そして、温かい言葉とともに、「ふれ」ていく。
『手の倫理』は「さわる」と「ふれる」を区別しており、「ふれる」という行為は、人間を相手に、お互いに関わり合うコミュニケーションとして行われるといいます。
さらに、「ふれる」ことは距離ゼロどころかマイナスのコミュニケーションであるといいます。
表面ではわからない相手の流れのようなもの、意図さえしていないもの、さらには最初にあげたような1人の中の無限の可能性が、伝わっていくというのです。
「大丈夫だよ、果林ちゃん」と言ってすかさず触れるエマ・ヴェルデは、その感触から果林の不安や弱さを感じ取ったとしても、それでもいいよ、それもあなただよ、そのように思ったのではないでしょうか。
そして、その思いはまた、果林に伝わったことでしょう。
「ふれる」ことで、意図していないことさえも伝わるのであれば、天王寺璃奈が嘘偽りなく本気で「大丈夫」と思っていることも、間違いなく果林に伝わったことでしょう。
視覚以上に雄弁な触覚で、璃奈はキモチを伝えたのです。
モデルだけどスクールアイドル。クールだけどちょっとカッコつけている。大人っぽいけど道に迷ってしまう。実は面倒見が良くて、実は密かに本気の炎を燃やしている。
そんなありとあらゆる自分を合わせて、全部朝香果林。ふれることではそれをよく理解したニジガクのみんなは、その上で、果林ならきっと大丈夫、と伝えていくのです。
さらに同書によれば、ふれることは相手が「入ってくる」ことであり、「共鳴」すること。
まさに中須かすみが言ったように、ニジガクのみんなのエネルギーが入り、そしてその思いと共鳴した今であれば、果林は胸を張って大丈夫と思うに留まらず、最高の気持ちでライブに臨めるようになったことでしょう。
そして最後のタッチ。関わりの中でお互いの本気を強めあってきたせつ菜との共鳴が響き渡ります。
そして始まっていくライブ。
日の暮れていくライブ会場を包むに似つかわしい、美しいダンスミュージックです。
この歌はみんなの過去と未来とともに
目を閉じても残る「星座の瞬き」は、まるでみんなと交わしたタッチのように。
エマ、あるいはみんなと居たからこそ気づいた「弱さ」。エマたちの優しさのおかげで弱い自分を受け入れられたからこそスクールアイドルとして輝き出せた、果林らしい繊細な歌詞に、心を打たれます。
ふれることはお互いを知り、お互いに相手に応えること。それはとりもなおさず、新しいお互いを作っていくことでもあるでしょう*4。
「好き」だというからこそ「君」のことを「好き」だという果林。
そして「未来を作ろう」と歌う果林。
人の気持ちにこたえ、その先を作っていこうとする果林の歌もまた、(心に) ふれる歌であったのかもしれませんね*5。
ブログ全体を通じて何度も出している話で恐縮なのですが、世界が不安定で不確実だからこそ、人生は強化学習のようなものです。
仮に、なるべく高い丘に登ろうとしているシチュエーションを考えましょう。
このとき、迷わずに順調に必ず高いほうへと進むことが出来てしまうと、もし谷を越えた向こう側にもっと高い丘があるときに、その高い丘へとはたどり着けません。
ときには順調に進まずに迷うこともあるからこそ、谷の向こうにあるもっと高い場所に、偶然たどり着ける可能性が出てくる。
「君とだったら迷子だって悪くない」という歌詞からは、ラブライブ!らしい希望を感じられます。
それに、何が一番大事なことなのか( ≒ 高い丘なのか)。これはいつも最初から分かっているとは限りません。
何が良いのか、「正解」なのか、「輝」いているのか分からないなか、人と一緒に歩んでいくことで少しずつ色々なことに気づいていける。
そんなメッセージを持ったこの歌は、それぞれに人と一緒に悩みを乗り越えてきた9人のスクールアイドルの彩りを背負うにふさわしい、集大成のような歌だったのではないでしょうか。
ニジガクのみんなは多種多様だけど、「多様」という言葉だけではとても言い表せないくらい、ひとりひとりの中に無限の多様さがあります。
実際、近江彼方も桜坂しずくも、いろいろな顔を持つことをそれぞれに悩み、愛する人とのふれあいで乗り越え、ひるがえってそれを自分の良さにすることもしてきました。
果林もまた、自分のいろいろな顔が意図せずして姿を見せるからこそ、悩みました。そして、それを助けたのは、そんな果林をまるごと知り、コミュニケイトしようとしたみんなの「ふれる」手でした。
果林からみんなへと「ふれる」歌は、そんな果林の弱さもカッコよさも入っており、それにみんなと「共鳴」した分だけ、みんなと歩んできた今までの時間も心を動かした想いもまるでその中で躍動しているような、そんな歌でした。
そして同時に、そんなみんなと一緒に手を取り合って進もうとする、未来に働きかける歌でもありました。
それらが全て魅力を作り上げていたものですから、それを聞いた私たちが、自分たちの身をその心酔のなかにすっかり預けてしまわないはずはなかったのです。
あとがき
1人になっても仲間の想いを背負うということの意味は、果林にとっては心強さという意味になるかもしれませんが、私たちにとってはそれがライブの魅力という意味になるので、なかなかズルいというかどうしたってやられてしまいますね…。
ところで果林の歌の歌詞は、一人 (じゃない) というくだりは歩夢の歌に重なるし、単純じゃない は璃奈と、Fly away は彼方と重なるな〜などと思えてきています。
例えばかすみとは重なりを見つけられなかったので、この仮説は違ったかなと一瞬思いましたが、フルがリリースされたときに改めて明らかになるのかもしれませんね。
さて、いよいよ9人の歌、そして9人がどう悩みを乗り越えてきたかが一通り描かれたところで、アニガサキではこんな悩みを取り扱ってくれている!みたいなことを振り返りたいと思っています。
早くも今週が終わろうとしている上に、スクスタ21章についてもあまり手を動かせていないので、10話の始まるまでに書けるかは怪しいですが、近いうちにまとめられたらな、と。
それでは、今回もありがとうございました!
また、彩られた世界のどこかでお会いしましょう。