こんにちは。センケイです。
前回の3話感想では少し長い文を書いたものの、まだまだ熱意を持て余しているので、ええいままよと、感想の続編を書いてしまいました。
4話で新たに分かったこともありましたので、それも踏まえて楽しんでいきましょう。
手短にいきますが、先週時点でどうしても理由が分からないままだったシーンがあったため、それを読み解くためにも、2つだけ小道具を用意したいと思います。
みんなの物語、複数の自分
1つは、これからの方針を決めるときには、物語が意味を持つということ。
自分が次に何をすべきか考えるときは、自分が今までどうやってきたかという自分の物語 (自己物語) が重要だ、と言われています*1。
これは自分ひとりで意思決定するときに限りません。
集団で何かを決めるときも、「みんな」の物語、あるいは歴史、が重要になってくるようです*2。
もう1つは、複数の「自分」を持つことが、今では当たり前になってきているということ。
相手に応じて、自分の中のどの面で接するかを変えるというコミュニケーションが、特に若者の間で定着しているといいます。*3
これは必ずしもネガティブなことではありません。例えば学校生活をサバイブするためにもとても役立つし、それに、必ずしも表面的な浅い関係とは限らないそうです。
さて、この2つを押さえた上で、早速、中川菜々や優木せつ菜の、優しさ、強さ、そして悩んだことに迫っていきましょう。
白いページを行く難しさ
ひとつずっと分からないままだった謎があります。
なぜ菜々は、「私がいたら ラブライブに出られないんですよ」言ったのか。つまり、なぜ菜々は同好会のみんながラブライブに出たがっていると考えたのか。
これを読み解くキーは、物語にあると考えています。
自分たちの行く先を決めるときに大切になるのは、自分たちの歴史や物語です。今までの過ごし方という寄る辺もなしに歩いていくことは、なかなか難しいからです。
しかし、自分たちの「歴史」を振り返ろうとしても、今までにあったことのすべてを振り返ることは、原理上不可能です。だから、自分たちの歴史は、編纂して作ることになります。
スクールアイドル活動を始めんとする菜々にとって、大会ラブライブは、間違いなく強い印象を残したことでしょう。また、具体的なシーンが描かれていないのでわかりませんが、同好会のメンバーがラブライブの印象の強さについて語った時間があったとしてもおかしくはありません。
そのような強い印象のものは、同好会の物語、歴史を編纂する上で、まさに歴史が動いた1ページとなって働いたことでしょう。
必然、同好会の物語の中には、大会ラブライブが組み込まれる形になります。
そのような経緯であれば、菜々が「みんなラブライブに出たいんだ」と予想しても、不思議ではありません。
だとすれば、ここに彼女の優しさが見え隠れしてきます。
みんなが願っていることを、みんなが歴史の次の1ページにしたいことを、どうあっても邪魔するわけにはいかない。彼女は切に、みんなの望みのことを考えていたのでしょう。
そのような彼女のおもんぱかりを、勘違いだったのでは?と済ませるわけにはいきません。
なぜなら、カテゴリー化すること、つまり役割に名前をつけることは、歴史を描く上で欠かすことの難しいことだからです*4。
「大会ラブライブを目指すグループ」、というカテゴリーを同好会から外すしたら、自分たちが何者で、その先に何を目指す者なのかということが、とたんに見えにくくなるのではないでしょうか。
名前のついた役割が同好会にないとき、下手すれば何も手がかりのない不安の中、大海原へと乗り出さなければなりません。
菜々はおそらくこのような困難を予期したからこそ、ラブライブを目指すというカテゴリーを、ますます手放し難く感じたのだと思います。
実際、次話4話でも、同好会のこの先の方針に頭を悩ませるカットが描かれます。きっとこのような躓きの石があることも、明に暗に想像をしていたのでしょう*5。
「人生という正解のないものと向き合うとき「物語」という形式が大きな支えになる」*6。
特に大会ラブライブが、同好会の物語にとっての大きなマイルストーンだったからこそ、皆のことを思う菜々にとって、これを手放すシナリオはありえないものだったのでしょう。
ですが、物語や歴史を作る上で、「他者」もまた、とても重要な意味を持ちます*7。
こばとんさんがご指摘されているように、スクールアイドルから見た「第三者」である高咲侑こそは、菜々と同好会の物語に、新しい1ページをもたらせる人物だったのでしょう。
侑が新しい物語を菜々たちにもたらし、こうしてついに、行き先の見えない悩みを乗り越え、歩み始めることができたのでしたね。
いや、菜々たちが得た物語は、そればかりではありません。スパボさんがご指摘されているように、もしもこの先のスクールアイドル活動を断念しなければならなかったならば、菜々は、もう一人の自分である優木せつ菜と「お別れ」をしなければならなかったのです。
居ることを許されたもうひとりの自分。そのかけがえのなさこそが、あのステージの勇ましさの源となったのでしょう。
飛び込む勇気のみなもと
ここで、もう1つ疑問だった点があります。それは、DIVE!で歌われる歌詞は、この3話全体の流れとは少し角度の違う情動だったという点です。
しかし、お別れを避けることができた喜びと、もう一人の自分であるせつ菜の熱情とが現れた歌だと思ったとき、自然に納得できました。
4話で見られるように、行く先の見えなさが完全に解消されたわけじゃない。しかしこのときのせつ菜は、にもかかわらず威風堂々と歌うことができた。しかしこれもまた、複数の自分がいたからこそではないでしょうか。
ある意味ではそれまでの役割から開放されるからこそでしょう、せつ菜はいかんなく自由な思いを発揮し、歌を届けます。
それに、なにしろせつ菜にとっても、もうひとりの頼れる自分である、菜々がいるわけです。
菜々も、上のような悩みのなかで、「自信なくしてた」のかもしれません。しかし、ご存知のように、侑が呼び出したのは菜々とせつ菜の2人でした。
せつ菜だけでなく菜々もまた、侑によって全面的に肯定された。たとえ行く先に不安があろうとも、今のせつ菜には、他者に肯定され自信を持つことができる菜々という頼れる存在がいるのです。
自信を取り戻した菜々に背を預け、自由な身体を得たせつ菜は*8、どこまでも自分に素直に、躍動することが出来たのでしょう*9。
そんな菜々とせつ菜にも見落としていたことがあったとしたら、自分 (たち) もまた「他者」として、人の物語を突き動かすということです。
中須かすみが言うようにそのカッコよさは欠かせないものであったし、何より、せつ菜としてみんなに接したこのライブが、宮下愛たちを動かすきっかけになった*10。
他者と作る物語のゆくすえに、そして複数の自分によって成し遂げられたこのかけがえのないライブ。また誰かの物語へと続いていくこのライブ。
私たちファンが改めて切実に思うのは、「始まりだったら最高だろうな」ではなく、実際にほんとうに、始まりの歌に立ち会うことが出来たという点です…。
あとがき
前の記事も好きな記事ではあるのですが、何か言い残したような気がかりが残っていたので、これでようやく満足するまで書ききれた思いがあります。
自分の中にふつふつと湧いてきたものがあったとき、茎があればそこにすぐに葉を付けられるのだけど、この茎ができるまでに時間がかかるのが、難しいところですね。4話の手助けと、前の記事で作ってきた茎があって、ようやくキリの良いところまでたどり着けたと思います。
しかし私たちファンの旅に終わりはありません笑。幸いにも、アニガサキのおはなしは始まったばっかり。楽しい時間を走り抜けていきたいですね。
それでは、ありがとうございました。
また流れ行く歴史のなかでお会いしましょう。
*3:「自己の多面性とアイデンティティの関連」や、「若者の親子・友人関係とアイデンティティ」、『「キャラ」概念の広がりと深まりに向けて』。
*5:それを思うとますます、宮下愛の登場がいかに欠かせなかったかが、明らかになってきます。
*7:同書より。
*8:身体の自由については前の3話感想後半部分に書きました。
*9:本文中で引用したスパボさんの記事では、他にも、自由とライブ中の空の見え方との繋がりを書かれていて、衝撃を受けました。必見です。
*10:ぶろっくさんがご指摘されているように、実は周りにオーディエンスの「みんな」が集まっている点も重要になってきます。