こんにちは。センケイです。
先日、「ラブライブ!サンシャイン!!The School Idol Movie Over the Rainbow」について7回目の劇場視聴をすることができたため、こちらと舞台探訪について印象に残った点を言葉にしておきたいと思います。
最近のラブライブ!の記事では昔の自分の話が多かったのもあり、今回はもう少し一般に役立ちそうなお話を抽出してみようと思います。
合わせて、ある劇場にて初めて視聴した「Aqours First LoveLive! 〜Step! ZERO to ONE!!〜」についても合わせてその学びを書きたいと思います。
結局 Over the Rainbow だけであっという間に 5,000 字くらいになったので、First LoveLive! から得たことは、今回一部のみに留めて、また別記事で書こうと思います。
現地到着前に、何駅分か歩いてその風景を味わうみたいな趣味をやっていたら到着がギリギリになり、本当はお魚を食べようと思っていた所 15 分で食べ終われそうなタンメン屋さんで何とか昼食を済ませるなどし…
そして楽しみに待っていたあの始まりの瞬間へ。
冬という新しい季節が巡ってくるような、何度も聴いた視聴前注意の Hello New Season!。すでにこの時点で何もかもが懐かしいです。
そして体育館中がきらきらと輝く中で、始まりの歌。しかしそれは意味的には、今までのあらすじそのものでもありましたね。
状態よりもプロセスによって輝く
ずっと頑張ってきたことでも、それが回り道で、本当に納得できる努力の仕方だったのか疑問に思うものもある。でも、それが人との繋がりになっていることも。努力してきたこと自体が意味を作るという形で。
先日の未体験HORIZON の感想でも書きましたが、具体的な目標以上にプロセスに意味を求めるところが、Aqours の歌、そして Aqours の力強さだと個人的に感じています。
拙同人誌『Aqours が作るコミュニティ Aqours を支えるコミュニティ』でも書きましたが、Aqours にはコミュニティとしての強さがあります。
状況や各員の望みに応じて柔軟に、目標を取捨選択してきたのが Aqours の方法論でした。そしてそのような柔軟な目標の変更や複数化をしても組織として崩れないのは、おそらく、特定の状態や到達点を目指す以上に、活動の過程自体に立脚してきたためではないでしょうか。1期12話の「自由に走るってこと」や、1期13話の「嬉しいことばかりじゃなくて、辛くて、大変なことだっていっぱいあると思う。でも私、それを楽しみたい!」という言葉が示すように。
そしてそのようにプロセスを大事にしてきた結果、「だけどそれが 繋がりになったよ」という、意図して得ることの難しい貴重な帰結に至ったのではないでしょうか。
日々丹念に困難なことに向き合ってきたからこそ、たとえ全ての願いが叶わなかったとしても…繋がりが生まれ、そして「輝き」が見つかるのだというメッセージは、僕たちに自信を与えてくれもします。万が一「努力の量と結果」が比例しなかったとしても、努力や日々に意味があるってね。
このメッセージは結局、今この瞬間に、上手く行っていないことがあったり、あるいは具体的な未来像がなかったりする場合に、強い励みになるような気がします。取り組むこと、続けること自体に意味があると思うことは、今の時代には特に大事になると思うのです。たまにしかやってこないチャンスが来たときにパッと食いつけるように待つ必要があったり、状況に応じて次々と目標を変える必要があったりする、この変化の激しい時代においては。
では、まさにそのプロセスにこそ「輝き」があることを見出した後の彼女たちは、いったいこれからどうしていくのか。
迷いがあるなら、さらにやり続けるのが一番いいんだ。形を変えてもいいし、まだはっきり形のあるものじゃなくてもいい、追い続けられる夢を見て。これが劇場版のメッセージであったかと思います。
個人的には最近、未体験HORIZON や、別作品ですが「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」を通じて、具体的な夢じゃなくても頑張ることが出来るというのを実感してきました。はっきりとした形じゃなくていいから「忘れない 夢見ること」。その意義をこの劇場版でもしっかりと感じることができました。これもまた、今を生きる強力なメッセージなのではないかと感じていたところですが、これについては後ほど改めて。
なお、以上のようにプロセスに重きを置くからこそ、失敗を受け入れて再度立ち上がったり、それでなお「大丈夫、できるよ」と考えたりする強さを Aqours は持っているのでしょう。
過渡期の喜びと、ある種の終わらなさ
μ's とは異なり、6人で続けていくからこそ、無印の根府川≒国府津のようなメッセージは打ち出さなかった Aqours。しかしそれでも、3年生にとっては時間の濃縮された3月の末を前に、確実に別れの時間、そしてそれに伴うある種の儚さが迫ります。
3人だけで楽しくはしゃぐのは、当面出来ないかもしれない。そんな中だからこその楽しさや自由。明るい表情とメロディーの中で3人で歌うからこその、有限性の切なさを、逃走迷走メビウスループの中に見てしまいました。
それにこの3年生だからこその大人びた姿。まるでこの迷走を、大人になる前の束の間の楽しみとして嗜んでいるようにも見えます。
しかし考えてみれば、今の時代は良い意味でも悪い意味でも、その後も自由に生きていくことになるような、そんな時代かもしれません。だから、「ずっと自由に生きてたい」という願いは、意志を持って叶えられるものだとも思います。その意志を感じさせる歌です。
しかし彼女たち3人は実際には、具体的な進路をそれぞれに決めているのでしたね。それは確かに自由ではあるけど、ただ逃走や迷走ではなくて、そういう意味では迷う楽しみから離れ、実際にまた少し大人になるように感じられます。
現代は、良くも悪くも自由であるからこそなのか、一度大人になるようなステップを踏んでもそれでハイ大人ということはありません。繰り返しいろいろな形で大人になり直さなければならない時代だと言われています*1。その意味で、高校卒業したら完全な大人になるわけではもちろんないだろうけど、いくつもある大人へのステップのうちの1つを踏むには違いないでしょう。
そしてそのようなステップの前にある迷いを楽しむかのような姿勢。高校卒業の他にも、大学卒業や就職、転職、離職、活動への加入、一人で住むこと、人と住むこと、あるいは変えずに続ける決断をすることなど。得てして人はそうしたステップのたびに迷いを経験するし、しかもそれが何度も何度もあるのだ、ということであるならば、迷いも楽しもうと言っているかに見えるこの姿勢は、ありがたいメッセージに感じられます。
しかし過渡期を過ぎ去ったあとも、決してそれまでの取り組みと独立に歩むわけではないことを教えてくれます。「私がここまでみんなと歩んできたことは、全てもう私の一部なの」「何一つ 手放すことなんてできない。それが今の私なの」、と。
何度も何度も大人になるようなステップ、そしてそれに伴う「出会い・別れ」を「繰り返す」のならば、たいていの場合、今の場所も暫定的なものだと思わなければいけないかもしれない。でもそこでやってきたことが自分の一部として残るのならば、そのような「繰り返」しの中でも自分の軸を持ち続けられるのではないかと、そういう希望を感じさせられます。
努力してきたこと、迷ってきたこと、大変だったこと、そして一時とはいえ周りの人たちと切磋琢磨してきたことは、ゼロには戻らない力になると、そういうメッセージのように思えます。
その精神は「迷いながら Ready? Go!」、「どこへ行っても 胸に温かい思い出が眠る」という形で、Saint Snow にも現れていました。
Saint Snow もまた、本当に叶えたかった願いの結実が出来なかったグループ。しかし、特定の状態に至るか否かに拘らず、やはりその過程で得てきたことこそに価値を見出していたのですね。
それは立ち去る者に対してももちろんそうだけど、残るものに対してもそう。たった2人のうち1人が卒業するグループだからこそ、そのインパクトが遥かに大きいということに、改めて気付きました。だからこそ余計にここで「Saint Snow は、私と理亞のこの想いは、ずうっと残っていく。ずうっと理亞の心の中に残っている」と告げる意味があったのでしょう。
転職の多い今だからこそ、誰かと一緒に抱いた夢が一つの到達点に至るか至らないかによらず、どちらかが先に離れていくこともよくあること。それでもなお、一度ともに共通の目標へ向かったことが糧になるのだとすれば、この不確実性の高い今を生きる手がかりになることでしょう。卒業する3年生たちは、私達にこのようなことも教えてくれていたのかもしれません。
漠然としていても予感を抱く意義
最初に述べたように、「描いたミライ」が「イマになった」からこそ、次の目標を迷うようなこともまた、よくあることでしょう。一つ達成して、それで自分が大丈夫だと思ったら、足が止まってしまうことだってあるかもしれません。
だからこそ、何か目標、「夢見ること」が大事なのだというのが、この劇場版の最後に Aqours が残したメッセージなのかもしれません。
そしておそらく、「それは…なんだろうね!?」という形で良いのだと思います。何かが形になった直後には、あるいは自分たちの在り方が何かの理由で変わった直後には、具体的に何かを思い描くには難しいのかもしれません。そんなときはきっと、もっと抽象的に夢を見ても構わないのではないかと、そう教えられたような気がしました。
「何もなかったから 何かつかみたい想いが ああ 道を作ってくれたのかな」というように、あくまで「何か」を思い抱く形で。
「動いてないと探せない」から、何かが分かっていること以上に、続けることに意味があるのでしょう。ひょっとしたら、ふと息抜きをしたときに見つかるのかもしれません。それならばこそ、「休んでも止まらないで」。
きっと止まらないでやり続けてきたのでしょう、どちらかといえば運動が苦手あったはずの1年生たちが颯爽と抜き去っていきます。走り方も、素人目にはどう見ても、走るのが速い人の走り方。希望を背負って立つ、輝かしい姿です。
抽象的なことを頑張り始めようとするときは、もしかしたら具体的な目標を目指すのと比べて、漫然とやってしまう虞があるのかもしれません。しかし、劇場で見たもう一つの作品「Aqours First LoveLive! 〜Step! ZERO to ONE!!〜」はこそ、その戦い方を教えてくれました。
決めたよHand in Hand は本当に好きで、やっと聴けた嬉しさが凄い。ダンスも本当に印象に残った。
— センケイ (@a33554432) January 17, 2022
それに今では息の長い技術的挑戦が多くなって、下手したら漫然と過ごす危険があったから、夢に対して「入り口はここかも」という言葉にはとても奮い立たされた。
「ほのかな予感」がしたとき、それは遠い達成の始まりのときなのかもしれません。その記念すべき始まりに対して「いまがその時と ピンときてない」だけかもしれません。このように思えば、遠く、少し漠然としたものを思い描いたとしても、頑張れるのではないか。そのようなメッセージを感じさせられたのです。
そしてこれまで支えてくれた、自然、学校、街の存在。そうしたものとの思い出もまた、今すぐ「これ」というものがない中で、これからの道の指針を示してくれることでしょう。自己物語、と言っても良いのかな。それに、海のような大きな自然やその音は、これから長い道を歩んでいくための心の余裕をもたらしてくれるものにも感じられます。
しかしそうは言っても、3人が居なくなっても続けるという決断は、とても大きなものであったと思います。自分たちが自信を持ってできるようになっている今だって、そのことが心に刺さっているはず。
しかしきっと Aqours のことです、その擦り切れる気持ちさえ歌っている瞬間や、その中でも進み始める瞬間をも、楽しんでいることでしょう。それだからこそ最後のあの歌は、あんなに綺麗なのかもしれません。
ここまで見て頂き、ありがとうございました!
最近は、視聴していて思ったことをそのまま形にするあまり、ドキュメンタリー的に自分に寄せた内容になりがちでしたが、この視聴経験には普遍的に力になるようなエッセンスが詰まっているに違いないと思い、一般的な話で書いてみました。
これをお読みになる皆さんであればきっと、私が書くまでもなく多くを受け取り、既に活用してらっしゃるのではないかとも思いましたが、何かしらヒントになるところがもしあれば、嬉しい限りです。
それではまた、4年目のときか、1st 以外の封切のとき、あるいは名古屋市か所沢市でお会いしましょう。
*1:例えば『大人になることのむずかしさ』